【宮城県】400年の歴史「仙台すずめ踊り」の由来や青葉まつりをたずねる|ことわざ・踊り方や衣装、大阪堺市とのつながりも解説

yurai

地域文化ライターとして宮城の魅力を探訪している私は、ある年の5月、偶然にも仙台・青葉まつりのすずめ踊りに出会った。定禅寺通りを埋め尽くす踊り手たちの躍動感、扇子を手に跳ね舞う姿は雀が餌をついばむようで、まさに杜の都の春を象徴する光景だった。その瞬間、私は仙台市青葉区八幡の石切町を訪ねたいと思った。ここは大阪・堺から仙台城築城のために移り住んだ石工衆が暮らした町であり、すずめ踊りの起源とされる場所である。石切町通りを歩き、大崎八幡宮を訪れると、毎年祭礼で奉納演舞が行われていることを知り、次はその場で舞を見たいと強く思った。

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さらに記憶は大阪へとつながった。かつて堺市で働いていた私は、さかい利晶の杜の近く、中之町公園にある「すずめ踊りゆかりの地」の石碑を思い出した。そこには仙台城落成の宴席で堺石工衆が踊ったこと、石切町に住み続けて伝承したこと、昭和に復活し、青葉まつりで甦ったこと、そして平成十七年に堺まつりで四百年ぶりに披露されたことが記されていた。仙台と堺の間に脈々と続く交流を目の当たりにし、感慨深さに胸が熱くなった。千利休と伊達政宗の縁も思い起こされ、文化の糸が時を超えて結ばれていることに気づいた。偶然の出会いが、地域文化の奥深さと人の絆を改めて感じさせてくれたのである。

参考

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仙台・青葉まつり「仙台すずめ踊り

仙臺すずめ踊り連盟

すずめ踊りとは

すずめ踊りは仙台を代表する郷土芸能であり、その起源は慶長八年(1603)、仙台城の落成を祝う宴席にまで遡ると伝えられている。泉州・堺から築城のために参集した石工衆が、伊達政宗公の前で即興にて踊ったことが始まりとされる。当初は「はねっこ踊り」と呼ばれ、扇子を手に軽快に跳ねる姿が雀の餌をついばむ様子に似ていたことから「すずめ踊り」と名付けられた。伊達家の家紋「竹に雀」とも結びつけられ、仙台の象徴的な舞として広まった。

石工衆は仙台城下に石切町を築き、子孫たちが大崎八幡宮や石切町の神社に踊りを伝えてきた。戦後の混乱期には継承者が減少し、一時途絶えかけたが、昭和三十六年に仙台市立第一中学校の校長・真山泰氏が住民の記憶をもとに復元し、「仙台・雀おどり」として再生した。その後、昭和六十年から始まった仙台・青葉まつりで披露され、昭和六十二年には「仙臺すずめ踊り」として甦り、現在に至る。

すずめ踊りは即興性を残した踊りであり、祭連ごとに個性がある。基本の動きは中腰で扇子を八の字に振り、足を交差させるステップだが、自由なアレンジが許されるため、同じ踊りでも表情が異なる。衣装は鯉口シャツに腹掛け、股引、足袋を着用し、顔には紅を差すなど華やかな化粧を施す。軽快な囃子に合わせて舞う姿は、杜の都仙台の文化を象徴する光景である。

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参考

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青葉まつりで見たすずめ踊りの躍動

地域文化ライターとして仙台を訪れた私は、偶然にも青葉まつりのすずめ踊りに出会った。定禅寺通りを埋め尽くす踊り手たちの姿は圧巻で、扇子を手に跳ね舞う動きが雀の群れのように軽快で美しかった。囃子の二拍子に合わせて舞う姿は、観客を一瞬で魅了し、街全体が熱気に包まれていた。

舞台踊りや流し踊り、街角演舞場など、会場ごとに異なる雰囲気があり、同じ踊りでも表情が変わる。子どもたちの「すずめっ子1000人祭連」では、未来へと受け継がれる文化の力を感じた。飛び入り参加できる「祭雀連」では、観客も踊りに加わり、祭りの一体感が生まれる。私はその場で偶然立ち会えたことに感動し、すずめ踊りが仙台市民にとってどれほど大切な文化であるかを実感した。

青葉まつりは伊達政宗公を祀る青葉神社の神輿渡御や時代絵巻巡行も行われ、仙台の歴史と文化を総合的に体感できる祭りである。その中で、すずめ踊りは市民参加型の芸能として特に人気を集め、観光客にとっても仙台の魅力を象徴する存在となっている。偶然の出会いが、地域文化の奥深さを改めて感じさせてくれた。

参考

仙台青葉まつり2025年

所在地:宮城県仙台市青葉区

石切町通りと大崎八幡宮を訪ねる

青葉まつりの余韻を胸に、私は仙台市青葉区八幡の石切町通りを訪ねた。ここは堺から移り住んだ石工衆が暮らした町であり、すずめ踊りの起源とされる場所である。堺と言えば大仙古墳をはじめ、巨大古墳が大阪湾に並行して建立されている。Googlemapで見るとまるで要塞のように海に対して大きな古墳が敷き詰められていることが分かる。その古墳に使用されていた石棺を作っていたことから石の加工技術があったというのがら驚きだ。彼らが住む町名に「石切」と残ることが、彼らの歴史を尊敬し、記憶を今に伝えているように感じられた。通りを歩くと、石工衆の息遣いが蘇るようで、文化の厚みを実感した。

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さらに大崎八幡宮を訪れると、すずめ踊りが毎年祭礼で奉納演舞されていることを知った。境内の厳かな雰囲気の中で舞われるすずめ踊りは、都市の祭りとは異なる趣を持ち、信仰と結びついた芸能としての側面を強く感じさせる。私は次回はこの奉納演舞をぜひ見たいと思った。

大崎八幡宮では「どんとロード八幡雀踊り」も開催され、地域の人々が一体となって踊りを守り続けている。大崎八幡宮はすずめ踊りを保存してきた。すずめ踊りは単なる祭りの演舞ではなく、地域の信仰や暮らしに根差した文化であることを改めて理解した。石切町と大崎八幡宮を訪ねることで、仙台の文化の奥深さと堺との歴史的なつながりを実感することができた。

堺・中之町公園の石碑と利晶の杜

仙台で石切町を訪ねた後、私はかつて働いていた大阪府堺市での記憶を思い出した。さかい利晶の杜の近くにある中之町公園には、「すずめ踊りゆかりの地」と刻まれた石碑が立っている。そこには、仙台城落成の宴席で堺の石工衆が踊りを披露したこと、仙台の石切町に住み続けて踊りを伝承したこと、昭和に復活して青葉まつりで甦ったこと、そして平成十七年に堺まつりで四百年ぶりに披露されたことが記されていた。仙台と堺の間に脈々と続く交流を目の当たりにし、胸が熱くなる思いがした。

堺は古代から交通の要衝として栄え、和歌山や奈良、大阪から人々が往来する町である。そのため地名も古くから残されており、堺市には北石切町と南石切町が存在する。いつ頃成立した地名なのかは定かではないが、堺の石工技術はすでに古墳時代から始まっていたとされる。仙台で「石工町」ではなく「石切町」と名付けられた理由は、堺の石工衆への深い感謝の念から故郷の名称を町名にしたのではないかと感じた。

さかい利晶の杜は千利休と与謝野晶子に由来する施設だが、「杜」という字を目にしたとき、私は杜の都仙台を思い出した。偶然かもしれないが、関西で働いていた宮城出身の私にとって「杜」という文字は故郷を思い起こさせ、懐かしさと安堵をもたらした。大阪は人情のまちであり、数百年の時を経て地名の情を返してくれたように感じ、関西と宮城は相性が良いと心から思った。

中之町公園の石碑の前に立ち、仙台と堺の文化的な絆を実感したとき、偶然の出会いが地域文化の奥深さを改めて教えてくれた。すずめ踊りは仙台の象徴であると同時に、堺との交流を体現する芸能である。地域文化ライターとして、この縁を伝えることに大きな意味を感じた。

参考

堺すずめ踊り 仲囲巣連「すずめ踊りについて

〒590-0957 大阪府堺市堺区中之町西2丁2

すずめ踊りの衣装や化粧

すずめ踊りの魅力は、躍動感あふれる舞だけでなく、華やかな衣装や化粧にもある。踊り手は鯉口シャツに腹掛け、股引、足袋を着用し、法被を羽織るのが基本である。色とりどりの法被は祭連ごとに異なり、模様や色彩で個性を表現する。扇子は踊りの象徴的な道具であり、両手に持って八の字を描くように振る。扇子の開閉や交差の動きが舞のリズムを強調し、雀が餌をついばむ姿を連想させる。

化粧は紅を差すなど華やかで、舞台映えを意識したものが多い。女性は髪を高く結い上げたり、飾りをつけたりして華やかさを演出し、男性は鉢巻を締めて勇壮さを表す。髪型や化粧は踊りの雰囲気を引き立て、観客に強い印象を残す。

お囃子もすずめ踊りに欠かせない要素である。笛、鉦、小太鼓、大太鼓が基本で、二拍子のリズムに合わせて踊りが展開する。お囃子方と踊り手が一体となり、祭連ごとに独自のアレンジを加えるため、同じ踊りでも雰囲気が異なる。囃子の軽快な音色が街に響き渡り、観客を巻き込む祭りの熱気を生み出す。

衣装、扇子、化粧、髪型、そしてお囃子。これらが一体となってすずめ踊りの世界を形づくり、仙台の街を彩る。華やかさと躍動感が融合した姿は、杜の都の文化を象徴する光景である。

参考

踊り方とお囃子|仙台・青葉まつり

すずめ踊りのことわざ「雀百まで踊り忘れず」

すずめ踊りには「雀百まで踊り忘れず」ということわざが重ねられることがある。このことわざは、雀は一生踊りを忘れないという意味から転じて、人は幼い頃に身につけた癖や習慣を年を取っても忘れないという教えを示すという。文化や芸能の継承においても、この言葉は深い意味を持つ。

すずめ踊りは、仙台城落成の宴席で堺石工衆が即興で踊ったことに始まり、石切町や大崎八幡宮で伝承されてきた。戦後一度途絶えかけたが、昭和三十六年に復活し、昭和六十二年には青葉まつりで甦った。途絶えそうになっても、地域の人々が記憶を頼りに復元し、再び舞い続けたことは、まさに「踊り忘れず」の精神を体現している。

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ことわざが示すように、幼い頃に身につけた踊りや文化は世代を超えて受け継がれる。子どもたちが「すずめっ子1000人祭連」で舞う姿は、未来へと文化が伝わる証であり、ことわざの意味を現代に生き生きと映し出している。

「雀百まで踊り忘れず」は、単なる習慣の教えではなく、文化の継続性を象徴する言葉である。すずめ踊りと重ねることで、仙台の人々が誇りを持って文化を守り続ける姿勢を理解できる。

まとめ

地域文化ライターとして宮城を探訪していた私は、偶然にも仙台・青葉まつりのすずめ踊りに出会った。定禅寺通りを埋め尽くす踊り手たちの躍動感、扇子を手に跳ね舞う姿は雀の群れのようで、街全体が熱気に包まれていた。その瞬間、私は仙台市青葉区八幡の石切町を訪ねたいと思った。ここは堺から移り住んだ石工衆が暮らした町であり、すずめ踊りの起源とされる場所である。石切町通りを歩き、大崎八幡宮を訪れると、毎年祭礼で奉納演舞が行われていることを知り、次はその場で舞を見たいと強く思った。

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記憶は大阪へとつながった。かつて堺市で働いていた私は、さかい利晶の杜の近く、中之町公園にある「すずめ踊りゆかりの地」の石碑を思い出した。そこには仙台城落成の宴席で堺石工衆が踊ったこと、石切町に住み続けて伝承したこと、昭和に復活し、青葉まつりで甦ったこと、そして平成十七年に堺まつりで四百年ぶりに披露されたことが記されていた。仙台と堺の間に続く交流を目の当たりにし、感慨深さに胸が熱くなった。

さかい利晶の杜は千利休と与謝野晶子に由来する施設だが、「杜」という字を見たとき、杜の都仙台を思い出した。偶然かもしれないが、関西で働いていた宮城出身の私が「杜」の字を目にしたとき、故郷を思い出し、少し安堵した。大阪は人情のまち。数百年かけて情を返してくれたように感じ、関西と宮城は相性が良いと心から思った。

偶然の出会いが、仙台と堺の文化的絆を改めて感じさせてくれた。すずめ踊りは仙台の象徴であると同時に、堺との交流を体現する芸能であり、地域文化ライターとしてこの縁を伝えることに大きな意味を感じた。杜の都仙台と人情のまち堺を結ぶすずめ踊りは、数百年の時を超えて人々の心をつなぎ続けている。

投稿者プロ フィール

東夷庵
東夷庵
地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。

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