【みちのく蓮華文プレート】蓮華紋とは?なぜ宮城で蓮華紋瓦が生産された?──古代世界から宮城へ届いた文様の旅

宮城県蓮華紋瓦

蓮華紋(れんげもん)とは何か──。 この問いに向き合うことは、単に「ハスの花を図案化した文様を知る」という範囲をはるかに超えて、古代世界の宗教観、宇宙観、そして工芸技術の歴史そのものに触れる行為だと感じている。

私が蓮華紋に興味を持ったきっかけは、宮城県北部・大崎平野で出土した蓮華紋瓦だった。 古代エジプトやギリシャ、インドで生まれたロータス文様が、なぜ東北の地で1300年前に焼かれ、寺院や城柵に用いられていたのか。しかも大崎平野には、大吉山(大崎市古川)・木戸(大崎市田尻)・日の出山(色麻町)・下伊場野(大崎市松山)という四つもの瓦窯遺跡が集中している。これは偶然ではないはずだ。

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しかし、なぜこの地で蓮華紋瓦が作られたのか、当時の朝廷が蓮華紋を採用した背景は何か、蓮華紋が宮城に何をもたらしたのか──その答えは、史料が乏しいため誰にも分からないという。 それでも、宮城で生まれ育った者として、この謎に向き合うことには意味があると思っている。もし蓮華紋がこの地に根づいた理由があるのなら、それは次世代に伝えるべき文化の断片だ。

今回の記事は、私自身がネットやSNS、そして学術論文を読み漁りながら、蓮華紋の源流と意味を整理した“個人の調査記録”である。 専門家の研究成果を踏まえつつ、あくまで一般の視点で理解した内容をまとめているため、より詳しく知りたい方は、末尾に掲載した論文URLを参照してほしい。

蓮華紋は、泥中から清らかな花を咲かせるハスの生態に基づく「清浄」「再生」の象徴であると同時に、古代東アジアでは宇宙の中心や星々を表す天体記号でもあった。また、墓の壁画では辟邪(ひきじゃ)と組み合わされ、魔除けとしての役割も担っていた。 さらに唐代には、蓮華が牡丹や石榴と融合して宝相華(ほうそうげ)という想像上の植物文様へと進化し、奈良・平安の日本にも大きな影響を与えた。

蓮華紋を知ることは、古代世界の文化の流れを知ることでもある。 そして、その文様が宮城の大地に刻まれたという事実は、私にとって大きな驚きであり、誇りでもある。 この文様がどのような旅路を経て宮城に届いたのか──その源流をたどってみたい。

参考

大谷大学「第四節 蓮の花は愛の花」、成城大学「中国・南朝の蓮華文様について」、法政大学「73024:仏教伝来と蓮華紋瓦当」、文化遺産オンライン「蓮華文塼」「蓮華文鬼瓦」、大阪芸術大学「藝術16 目次」、国文学研究資料館「表 紙 文 様 集 成」、帝塚山大学「考古 :: 単弁蓮華文軒丸瓦」、奈良文化研究所「7 朝鮮半島における造瓦技術の変遷

蓮華紋の源流をたどる

蓮華紋の源流は、はるか古代のエジプト文明にまで遡る。 紀元前27世紀頃、ナイル川流域ではスイレンをモチーフとしたロータス文様が王権や再生の象徴として用いられていたという。スイレンは夜に閉じ、朝に開く性質を持つため、「太陽の再生」を象徴する植物として神話に組み込まれた。

このロータス文様は、メソポタミア、ペルシャ、ギリシャへと広がり、唐草文様と結びつきながら形を変えていく。一方、インドではハス(蓮)が生命の根源を象徴する植物として崇拝され、インダス文明の時代から宗教的意味を帯びていた。 仏教が誕生すると、蓮華は「清浄」「悟り」「再生」を象徴する最重要モチーフとなり、紀元3世紀頃には仏の座である「蓮台(れんだい)」が成立する。

中国に伝わった蓮華文様は、唐代に大きな変化を迎える。 蓮華が牡丹・石榴・唐草などと融合し、想像上の植物「宝相華(ほうそうげ)」が誕生したのだ。宝相華は、豊穣・繁栄・浄土の象徴として寺院装飾や貴族文化に広く用いられ、東アジア全域に影響を与えた。

また、蓮華は宗教的象徴にとどまらず、宇宙観とも結びついていた。 高句麗古墳の壁画では、北斗七星が蓮の蕾(アーモンド形蓮蕾文)として描かれ、蓮華が天帝の象徴として扱われている。蓮華は「地上の花」であると同時に「天上の星」でもあった。

さらに、蓮華紋には魔除けとしての側面もある。 古代の墓壁画では、辟邪(ひきじゃ)と呼ばれる獣面と蓮華が対で描かれ、死者を守る護符として機能していたという。獣面が外敵を威嚇し、蓮華が聖なる力で浄化するという二重構造である。

このように蓮華紋は、宗教・宇宙観・呪術・美術が複雑に絡み合う文様であり、単なる植物図案ではない。 その多層的な意味が、後に日本へ伝わる際にも大きな影響を与えることになる。

日本に伝わった蓮華紋

蓮華紋が日本に伝わったのは、飛鳥時代の仏教伝来とほぼ同時期と考えられているようだ。 中国・朝鮮半島を経由して伝わった蓮華文様は、寺院建築や仏像装飾に取り入れられ、やがて瓦当(がとう)と呼ばれる軒瓦の正面装飾として定着したという。

奈良県の飛鳥寺(あすかでら)、法隆寺、薬師寺などの寺院では、蓮華文瓦当が多く出土しており、蓮華紋が寺院の象徴として扱われていたことが分かる。 蓮華は仏の清浄性を象徴するため、寺院の屋根に蓮華を掲げることは、建物全体を“聖域化”する意味を持っていた。

奈良時代に入ると、蓮華紋はさらに多様化する。 唐代の宝相華文様が日本にも伝わり、正倉院宝物や寺院装飾に豪華な文様として取り入れられた。 蓮華は単なる宗教的象徴ではなく、貴族文化の美意識とも結びつき、装飾文様としての地位を確立した。

また、蓮華紋瓦が広く普及した背景には、当時の高度な瓦生産技術がある。 唐代と同様に、日本でも「笵(はん)」と呼ばれる型を用いて瓦を大量生産する技術が確立していた。 寺院や官衙の建設が進む中で、蓮華紋瓦は政治的権威の象徴としても機能した。

そして、この蓮華紋瓦が宮城県北部にも伝わることになる。 多賀城の創建期(8世紀)には、大崎平野の瓦窯で焼かれた蓮華紋瓦が多賀城へ納められ、さらに周辺の城柵や寺院にも供給されていたという。 大吉山・木戸・日の出山・下伊場野という四つの瓦窯遺跡が集中していることは、この地域が東北経営の重要拠点であったことを示しているのはないだろうか。

蓮華紋が宮城にもたらしたもの──それは、宗教的象徴であると同時に、中央政権の文化が東北へ浸透した証でもある。 しかし、なぜ大崎平野が選ばれたのか、なぜ蓮華紋がこの地で焼かれたのか、その理由は史料が少なく明確には分からない。 だからこそ、宮城に生まれた者として、この謎に向き合い、蓮華紋の意味を次世代へ伝えていきたいと思っている。

宝相華(ほうそうげ)への進化

蓮華紋をたどっていくと、必ず行き着くのが「宝相華(ほうそうげ)文様」という存在である。宝相華は、蓮華を基調としながら、牡丹・石榴・唐草など複数の植物文様を組み合わせて作られた“想像上の花”だ。実在しないにもかかわらず、どこか生命力に満ち、華やかで、豊穣を象徴するような姿をしている。

この文様が誕生したのは、中国・唐代(7〜8世紀)とされる。唐はシルクロードの終着点として多様な文化が流入し、工芸・宗教・美術が混ざり合った時代だった。蓮華は仏教の象徴としてすでに定着していたが、唐の宮廷文化の中で、より豪奢で華やかな文様が求められた結果、蓮華は他の植物と融合し、宝相華という新しい造形へと進化した。

宝相華は、単なる装飾ではなく、仏教世界の理想郷である「浄土」の豊かさを象徴するものとして扱われた。花弁が幾重にも重なり、唐草が絡み合うその姿は、仏の威光や浄土の荘厳さを視覚的に表現する役割を担っていた。寺院の柱、仏具、経典の表紙、貴族の調度品など、あらゆる場面で宝相華が用いられたのは、その象徴性ゆえである。

日本にも奈良時代に伝わり、正倉院宝物や寺院装飾に多く見られる。特に奈良〜平安期の工芸品には、蓮華と宝相華が混在しており、蓮華紋が日本でどのように受容され、変化していったのかを知る上で重要な手がかりとなる。

蓮華紋瓦皿の文脈で考えると、宮城県北部で出土する蓮華紋瓦は、宝相華が成立する以前の“純粋な蓮華”の段階に属している。しかし、蓮華が後に宝相華へと進化した歴史を知ることで、蓮華紋が単なる花の図案ではなく、東アジア全体の文化変容の中で重要な役割を果たしてきたことが見えてくる。

宇宙観との結びつき

蓮華紋の理解を深める上で見逃せないのが、蓮華が「宇宙」や「天体」と結びついていたという事実である。 蓮華は地上の花でありながら、古代東アジアでは天上世界の象徴として扱われ、星々や天帝(宇宙の最高神)と深く関係づけられていたという。

特に興味深いと思ったのは、高句麗古墳に見られる「蓮蕾文(れんらいもん)」である。アーモンド形の蓮の蕾が、北斗七星などの星座を表す記号として描かれている例が複数確認されている。つまり、蓮華は単なる植物ではなく、星の運行を示す天体記号としても機能していた。

なぜ蓮華が星を象徴したのか──その理由は、蓮華の形態にある。 蓮華は中心から放射状に花弁が広がる構造を持ち、これは古代人にとって「宇宙の中心」「天帝の座」を連想させる形だったと考えられている。 また、蓮華の蕾は尖った楕円形で、星の光や天体の象徴として扱いやすかった。

さらに、古代中国では、天帝が蓮華の上に座すという観念が存在したという。 蓮華は「天界の中心」を象徴し、そこから神々や星々が生まれるという宇宙観が形成されていた。 この思想は仏教の「蓮華化生(れんげけしょう)」とも響き合い、蓮華が“生命の誕生”と“宇宙の秩序”を同時に象徴する文様として定着していったのではないか。

こうした宇宙観は、日本にも間接的に伝わったと考えられる。 日本の寺院建築における蓮華紋瓦は、単に仏教の象徴としてだけでなく、建物そのものを“宇宙の中心”として位置づける役割を担っていた可能性がある。

宮城県北部の蓮華紋瓦を見ていると、蓮華が持つこの「宇宙的な象徴性」が、東北の地にも確かに届いていたことを実感する。 蓮華紋瓦皿を制作する上でも、この“宇宙観”は欠かせない視点になるだろう。

魔除けとしての蓮華

蓮華紋には、宗教的象徴や宇宙観だけでなく、「魔除け」としての役割もあった。 これは、古代の墓壁画や副葬品に見られる特徴で、蓮華が“死者を守る文様”として用いられていたことを示している。

特に注目されるのが、蓮華紋と「辟邪(ひきじゃ)」の組み合わせである。 辟邪とは、邪悪なものを退ける想像上の獣面で、外敵を威嚇する役割を持つ。 古代中国の墓壁画では、辟邪が墓の入口や壁面に描かれ、その周囲に蓮華紋が配置される例が多い。 辟邪が“外からの脅威”を防ぎ、蓮華が“内側を浄化する”という二重の守護構造が成立していたのだ。

蓮華が魔除けとして機能した理由は、蓮華が持つ「清浄性」にある。 泥中から咲きながらも汚れない蓮華は、古代人にとって“穢れを祓う花”であり、死者の魂を守る象徴でもあった。 そのため、蓮華紋は墓だけでなく、寺院や宮殿の建築装飾にも用いられ、空間全体を清める役割を果たした。

瓦当(がとう)に蓮華紋が刻まれた理由も、この魔除けの思想と無関係ではない。 寺院や官衙の屋根に蓮華を掲げることは、建物を“聖域化”し、外からの災厄を防ぐための象徴的な行為だった。 宮城県北部の蓮華紋瓦も、こうした思想のもとに制作された可能性が高い。

蓮華紋瓦皿の制作を進める中で、私はこの“魔除け”としての蓮華の側面に強く惹かれている。 蓮華は美しいだけでなく、古代の人々が願いや祈りを託した文様でもあった。 その祈りが1300年の時を超えて宮城に残り、今また現代の器として蘇ろうとしている──その事実に、深い意味を感じずにはいられない。

なぜ瓦に刻まれたのか

蓮華紋が瓦に刻まれた理由を考えるとき、まず前提として理解しておきたいのは、古代の瓦が単なる建材ではなかったという点だ。瓦は、建物の「顔」であり、権威や信仰を象徴するメディアでもあった。特に軒先に取り付けられる瓦当(がとう)は、建物の正面に位置し、訪れる人が最初に目にする場所である。そこに刻まれる文様は、建物の性格や祈りを象徴する重要な意味を持っていた。

仏教が日本に伝来すると、蓮華は仏の清浄性を象徴する最も重要なモチーフとして受け入れられた。泥中から咲きながらも汚れない蓮華は、仏の悟りや浄土の象徴であり、寺院建築に蓮華紋を用いることは、建物全体を“聖域化”する行為だった。瓦当に蓮華紋を刻むことで、寺院は外側からも「ここは仏の世界である」というメッセージを発していたのだ。

また、蓮華紋には魔除けとしての役割もあった。古代中国の墓壁画では、辟邪(ひきじゃ)と蓮華がセットで描かれ、死者を守る護符として機能していた。日本でも、寺院や官衙の屋根に蓮華を掲げることは、外からの災厄を防ぎ、内部を清める象徴的な意味を持っていたと考えられる。

さらに、瓦当は大量生産が可能な工芸品であり、文様を広域に普及させる媒体でもあった。唐代の中国では、母笵(ぼはん)と子笵(しはん)を用いた型生産によって蓮華文瓦当が大量に作られ、日本でも同様の技術が導入されていた。蓮華紋は、宗教的象徴であると同時に、政治的権威を示す“国家のデザイン”でもあった。

つまり、蓮華紋が瓦に刻まれたのは、 宗教・政治・呪術・技術のすべてが重なり合った結果であり、 蓮華紋瓦は古代の思想と権力の象徴そのものだった。

宮城で蓮華紋が作られた理由(考察)

宮城県北部──大崎平野に、なぜ蓮華紋瓦が作られたのか。 この問いは、私が蓮華紋瓦皿プロジェクトを始めたときからずっと抱えている疑問だ。

大崎平野には、大吉山・木戸・日の出山・下伊場野という四つの瓦窯遺跡が集中している。これは東北地方でも特異な現象であり、偶然とは思えない。瓦窯が複数存在するということは、瓦の需要が大きかったということだ。では、誰がその瓦を必要としていたのか。

答えは、多賀城とその周辺に置かれた官衙・城柵である。 多賀城は奈良時代に築かれた東北経営の中心拠点であり、大崎平野はその背後を支える生産地だった。寺院や役所、城柵の建設には大量の瓦が必要であり、その需要を満たすために瓦窯が設置されたと考えられる。現に大崎平野には名生舘官衙や新田柵など朝廷の戦略拠点があった。

しかし、単に瓦が必要だっただけなら、蓮華紋である必要はない。 なぜ蓮華紋が選ばれたのか。

ここに、蓮華紋の象徴性が関わってくる。 蓮華紋は仏教の象徴であり、国家の権威を示す文様でもあった。 多賀城は「鎮守府」として軍事・行政の中心であり、朝廷の権威を東北に示す象徴的な施設だった。 その屋根に蓮華紋瓦を掲げることは、 「ここに中央政権の秩序がある」 「この地は仏の加護のもとにある」 というメッセージを視覚的に示す行為だったと思う。

さらに、大崎平野は古代から豊かな土地であり、蝦夷と朝廷が300年近く(前九年・後三年を含める)争った地域でもある。 争いが続く土地に、蓮華紋という“清浄”と“再生”の象徴を掲げることは、政治的にも宗教的にも意味があったのではないかとも考えられる。

もちろん、これらは史料が少ないため確証はない。 しかし、宮城で生まれ育った私にとって、蓮華紋がこの地に残されたという事実は、単なる偶然ではなく、何かしらの意味があったのだと感じている。

まとめ

蓮華紋瓦皿のプロジェクトを進める中で、私は何度も「なぜ宮城に蓮華紋があるのか」という問いに立ち返ってきた。 蓮華紋は、古代エジプトやインドで生まれ、仏教とともに東アジアへ広がり、唐代で宝相華へと進化し、奈良時代の日本に伝わった。 その長い旅路の果てに、宮城県北部──大崎平野に蓮華紋瓦が残されている。

これは、単なる文様の伝播ではない。 文化が大陸から奈良へ、そして宮城へと確かに届いた証拠であり、 宮城が古代東アジアの文化圏の中に確かに位置していたことを示す痕跡でもある。

しかし、蓮華紋が宮城にもたらした意味は、史料が少ないため誰にも分からない。 だからこそ、私たちが考え、想像し、語り継ぐ必要がある。 文化とは、記録だけで残るものではなく、 「気にかける人がいるかどうか」で残るか消えるかが決まる と私は思っている。

蓮華紋瓦皿を作ることは、単に古代文様を復元する行為ではない。 宮城の土地に刻まれた歴史を掘り起こし、 その意味を現代の暮らしにもう一度取り戻す試みだと考えている。

もし蓮華紋がこの地に根づいた理由があるのなら、 それは次の世代に伝える価値がある。 そして、たとえ理由が分からなくても、 「この地に確かに文化があった」という事実を形にして残すことには意味があると思う。

蓮華紋瓦皿は、過去と現在をつなぐ小さな橋であり、 宮城の文化を未来へ手渡すための“器”でもある。 このプロジェクトが、宮城の文化をもう一度見つめ直すきっかけになればと願っている。

投稿者プロ フィール

東夷庵
東夷庵
地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。

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