【宮城県色麻町】地名「色麻」の読み方・由来語源をたどる旅in清水寺・四釜・色麻柵
地名は、土地の記憶そのものだ。音の響き、漢字の形、そこに込められた意味──それらは、風景や暮らし、祈りと結びついている。私は地域文化を記録する仕事をしているが、地名の由来を探る旅は、いつも特別な感覚を伴う。今回訪れたのは、宮城県加美郡に位置する色麻町(しかまちょう)。奥羽山脈の裾野に広がる田園地帯であり、古代からの信仰と民俗が静かに息づいている。
色麻の読み方・語源由来
色麻は「しかま」と読む。
「色麻」という地名は、宮城県内でも特異な響きを持つ。漢字の組み合わせも珍しく、語源には諸説ある。最も有力なのは、アイヌ語の「シカ・マ」──「大きな山の麓の広い場所」あるいは「水の豊かな湿地」を意味する言葉に由来するという説だ。あるいは、「鹿間(しかま)」という古地名が転じたものとも言われる。『和名類聚抄』には「之加萬」と記され、「シカマ」の訓が与えられている。
さらに、奈良時代の勅撰史書『続日本紀』には、天平9年(737年)に「色麻柵(しかまのさく)」の名が登場する。将軍大野東人が多賀柵を出発し、色麻を拠点に約6000人の兵を集め、出羽国へ向けて軍事行動を起こしたという記述だ。色麻は、古代東北の軍事拠点としても重要な役割を担っていた。その色麻柵に移住したのが、現在の兵庫県飾磨(しかま)から柵戸だったという説明もある。
私はこの地名の源流や背景を探るため、色麻町を歩き、神社や川沿いの風景、古い集落を訪ねてみることにした。
参考
色麻古墳群-県北の大規模群集墳 | 東北歴史博物館 - 宮城県
色麻町の風景
色麻町は、奥羽山脈の東麓に位置し、標高の高い山地から流れ出る水が町のあちこちを潤している。私は町の中心部から西へ向かい、色麻川の流域や薬莱山の麓を歩いた。水の音が絶えず聞こえ、湿地の名残を感じさせる場所が点在している。田畑の間を縫うように流れる小川には、かつての水田開発の痕跡が残っていた。
この地形を見ていると、「シカ・マ=水の豊かな湿地」というアイヌ語由来説が、単なる語源の話ではなく、風景そのものに根ざした言葉であることが実感される。色麻町の面積の多くは田畑と森林で占められており、湿潤な気候と肥沃な土壌が農業を支えてきた。稲作だけでなく、畑作や果樹栽培も盛んで、地元の直売所には季節の野菜が並ぶ。
また、町内には「鹿間」という地名がかつて存在していたという記録もある。これが「色麻」へと転じた可能性もあるが、漢字の変化には時代の美意識や政治的背景が絡むこともある。色麻という字面には、どこか雅な響きがあり、土地の豊かさや色彩を象徴するようにも感じられる。
この風景の記憶を辿った後、私は色麻の信仰と民俗に触れる場所へ向かった。
色麻町清水寺と田村麻呂
色麻町の北西部、清水地区にある清水寺(きよみずでら)を訪れた。京都の清水寺と同じ名を持つこの寺は、征夷大将軍・坂上田村麻呂と深い関係がある。寺に伝わる「加美郡音羽山清水寺略縁記」によれば、田村麻呂が蝦夷征伐の際に諸願成就の感謝として本尊を安置し、京都の清水寺の良弁僧都を招いて開山させたという。
御本尊は千手観音と毘沙門天。七宝銘塔を造営し、鬼の歯を添えて奉納したという伝承も残る。この寺の存在は、色麻が単なる通過点ではなく、祈りの場として機能していたことを物語っている。
また、町内には「おかっぱ様」と呼ばれるかっぱの神社や、伊達神社など、田村麻呂にゆかりのある信仰の場が点在しており、歴史が深く民話が豊富なのどかな場所でありながら軍事拠点や宮城北部の拠点となるような地域性を持っていたことが想像できた。これらの神社は、戦勝祈願や土地鎮守としての役割を果たしてきた。色麻という地名が、軍事と信仰の交差点であったことが、こうした文化からも感じられる。
私は社殿の前に立ち、風に揺れる木々を眺めながら、「色麻」という名に宿る祈りのかたちを静かに感じていた。
清水寺観音堂
〒981-4101 宮城県加美郡色麻町清水西原南70
文献に見る「色麻」
『続日本紀』には、天平9年の条に「色麻柵」の名が登場する。将軍大野東人が多賀柵を出発し、色麻を拠点に約6000人の兵を集め、出羽国へ向けて軍事行動を起こしたという記述だ。色麻は、陸奥国と出羽国を結ぶ軍事ルートの要衝であり、朝廷の東北支配の拠点だった。事実、色麻柵跡と見られる場所は、羽後街道沿いある。
この記述は、色麻が古くから人が集まり、物資が調達できる豊かな土地だったことを示している。衣料、食料、水──生活に必要なものが揃う場所として、色麻は軍事的にも文化的にも重要な意味を持っていた。
また、『節用集』や『和名類聚抄』には「しかま」「之加萬」と記されており、古代から「しかま」と呼ばれていたことが文献上でも確認できる。地名の音は変わらず、漢字だけが変化していった可能性が高い。
一の関遺跡(色麻柵跡、奈良時代)
〒981-4121 宮城県加美郡色麻町一の関曽根田
『続日本紀』に見る「色麻柵」の軍事的記録
『続日本紀』(697年〜791年の国家的記録を編纂した勅撰史書)には、聖武天皇の天平9年(737年)4月の条に、色麻が軍事拠点として下記のように登場する。
廿五日。将軍東人従多賀柵発。三月一日。帥使下判官従七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人。鎮兵四百九十九人。當國兵五千人。帰狄俘二百四十九人。従部内色麻柵発。即日到出羽國大室駅。
翻訳:二十五日、将軍・東人(あずまびと)は多賀柵(たがのさく)を出発した。 三月一日、帥(そつ=軍の指揮官)は、判官で従七位上の紀朝臣武良士(きのあそん むらし)らと、任命された騎兵196人、鎮兵(警備兵)499人、当地の兵5,000人を率いて出陣した。 捕虜となった蝦夷(えみし=狄)249人を連れて、部内の色麻柵(しかまのさく)を出発し、当日中に出羽国の大室駅(おおむろのうまや)に到着した。
『和名類聚抄』に見る「色麻」の訓読み
『和名類聚抄』(承平年間・931年頃編纂)は、日本最古の漢和辞典とも言われる文献で、当時の地名や官名、物品名などに対して和訓(読み)を付した資料で、色麻町の地名に関しては、加美郡の項に次のような記述がある。
加美郡 之加萬 色麻 シカマ
この「之加萬」は、色麻の万葉仮名表記であり、「シカマ」という訓が与えられている。つまり、平安時代にはすでに「色麻=シカマ」という読みが定着していたことが文献上からも確認できる。地名の音は古代から変わらず、漢字表記のみが時代とともに変化していったと考えられるだろう。
四釜
さらに、色麻町には「四釜(しかま)」という古地名があったという説もある。これは、塩釜市にある御釜神社に伝わる鉄竈の伝承と結びついている。坂上田村麻呂が戦勝祈願のために勧請した神社が、色麻の地名の由来に関わっているという説もある。
地名は、風景だけでなく、信仰・軍事・政治・民俗の記憶を内包している。私は文献と風景を照らし合わせながら、「色麻」という名が、土地の歴史と人々の営みを静かに語る言葉であることを深く感じていた。
御釜神社(鹽竈神社境外末社)
〒985-0052 宮城県塩竈市本町6−1
まとめ
色麻という地名は、ただの呼び名ではない。それは、水と祈りと音の記憶が重なる場所だ。奥羽山脈の裾野に広がる湿地と田園、八幡神社や清水寺に息づく信仰、農村の民俗行事、そして『続日本紀』に記された軍事拠点としての記憶──それらが幾重にも重なり合い、色麻という名の奥行きを形づくっている。
奈良時代には「色麻柵」として軍事的な要衝となり、騎兵や鎮兵、数千人の兵が集結した記録が残る。この地が物資の調達に適した豊かな土地であったことは、古代からの文化の成熟を物語っている。さらに、坂上田村麻呂の足跡が残る清水寺や、かっぱ伝説を伝える「おかっぱ様」など、信仰と伝承が土地に根づいていることも印象的だった。
地名「色麻」は、アイヌ語の「シカ・マ」に由来するという説もあり、湿地や広がりのある地形を表す言葉としての意味も含まれている。文献上では「之加萬」「しかま」と記され、音の変化はなく、漢字だけが時代とともに変化してきた。
私は現地を歩きながら、地名が風景そのものであることを実感した。色麻という名には、土地の歴史と人々の営み、そして祈りのかたちが静かに息づいていた。