【宮城県涌谷町】日本初の金の産地「涌谷町」の語源・由来を訪ねるin黄金山神社・わくや天平ろまん館

地名は、土地の記憶を映す鏡だ。音の響き、漢字のかたち、そこに込められた意味──それらは、風景や暮らし、歴史と結びついている。私は地域文化を記録する仕事をしているが、地名の由来を探る旅は、いつも特別な感覚を伴う。今回訪れたのは、宮城県北部に位置する涌谷町。日本初の金の産地として知られ、町内にある黄金山神社や天平産金の関連しである「天平ろまん館」といった名称そのものに歴史の重みが宿っている。

「涌谷(わくや)」という地名は、どこか詩的な響きを持つ。涌く谷──水が湧き出る場所、あるいは人が集まり活気づく場所。私はこの言葉の背景にある風景と記憶を探るため、涌谷町を歩いた。黄金山神社の石段を登り、産金の跡地を巡り、沢の音に耳を澄ませながら、地名が生まれた瞬間に近づいてみたかった。

この町の地名は、単なる地理的な呼称ではない。涌谷という名には、金と祈りと人々の営みが幾重にも重なっている。私はその層をひとつずつめくりながら、涌谷という言葉の奥にある風景を見つめてみた。

参考

涌谷町「日本遺産「みちのくGOLD浪漫―黄金の国ジパング

日本遺産「みちのくGOLD浪漫|日本遺産ポータルサイト

涌谷町の読み方

涌谷町は「わくやちょう」と読む。

涌谷町は、宮城県の北部、江合川と鳴瀬川に挟まれた肥沃な平野に位置する。町の面積は約73平方キロメートル。周囲を河川に囲まれ、古くから水とともに生きてきた土地だ。私は町の中心部から黄金山神社へ向かう途中、出来川のほとりに立ち、涌谷の地形を実感した。小さな川だが、上流の悪水を集め、時に江合川の水が逆流するという。水害と水不足──この町は水と戦い、水に祈ってきた。

町の歴史は古く、奈良時代には「小田郡」と呼ばれ、天平21年(749年)には日本初の金が産出された地として『続日本紀』に記録されている。

「天平二十一年四月一日、陸奥国言、掘得黄金。奉進一斤。詔曰、朕聞、昔者、金出震旦、以飾仏像。今朕之化、洽於区宇、而金宝之瑞、出於辺土。宜改年為天平感宝。」

金産出に関する『続日本紀』の原文

奈良時代、聖武天皇が東大寺の大仏建立を進める中、鍍金用の金が不足していた。そんな折、陸奥守・百済王敬福が涌谷の地で砂金を発見し、900両(約13kg)を献上した。この記述は、陸奥国(現在の宮城県涌谷町周辺)から黄金が献上されたことを受け、聖武天皇が感激し、年号を「天平」から「天平感宝」へと改元したことを示している。

その後、律令制の崩壊とともに「小田保」と呼ばれる特別な行政区となり、鎌倉時代には武士の所領として小田氏や紀伊氏が支配した。中世には信仰の世界が広がり、板碑や経塚が各地に築かれた。箟岳山の頂には箟峯寺が開かれ、国家鎮護の祈りが捧げられた。私はその山道を登りながら、涌谷という土地が、祈りと産業、そして自然の力に支えられてきたことを肌で感じた。

参考

わが町涌谷の歴史~その4武士の活躍と信仰の世界

涌谷町の歴史 - 鳴子ダムと水のお話

地名「涌谷」の語源・由来

涌谷という地名の語源には諸説あるが、私が最も惹かれるのは「谷が湧きかえるように人が集まった」という説だ。奈良時代、黄金山で砂金が発見されると、国府の役人や渡来系の技術者が集まり、沢や谷で金を洗い取る作業が始まった。水を使って砂金を選り分けるこの作業は、沢の水を絶えず動かし、人々の熱気で谷が活気づいたという。

涌谷町には「黄金沢」「金洗沢」「金流水」「成沢」「金洗井」など、金にまつわる地名が点在している。これらは、砂金採取の現場を示す地名であり、地形と作業の記憶が地名に刻まれていることを物語っている。

成沢地区に残る「みよし堀」遺跡は、ロート状に掘り取られた砂金堀りの跡とされ、近くには必ず水源がある。こうした地形と作業の記憶が、「涌谷」という地名の成立に深く関わっていると考えるのは自然なことだ。

「涌く」という言葉には、水が地下から湧き出るだけでなく、人や熱気が集まり活気づくという意味もある。涌谷──それは、金を求めて人々が集まり、谷が湧き立つように活気づいた土地の記憶なのだ。

地名とは、風景と人の営みが交差する場所に生まれる。涌谷という名は、まさにその交差点に立つ言葉である。

参考

わが町涌谷の歴史~その3奈良の大仏と涌谷の金

七九郎館下みよし堀跡 - 全国遺跡報告総覧 - 奈良文化財研究所

所在地:〒987-0286 宮城県遠田郡涌谷町成沢成沢中

黄金山神社と砂金体験

涌谷町を訪れた日の午後、私は黄金山神社の石段をゆっくりと登った。社殿は山の中腹に静かに佇み、杉木立の間から差し込む光が、拝殿の屋根を柔らかく照らしていた。ここは、奈良時代に日本で初めて金が産出されたとされる地──天平産金の舞台である。

拝殿の背後には、かつて天平瓦を葺いた仏堂があったとされる場所がある。昭和の発掘調査で、六角円堂の礎石や文様瓦が見つかり、国家鎮護の祈りが捧げられていたことが明らかになった。神と仏が並び立つこの地は、産金への感謝と繁栄を願う信仰の中心だった。

神社の参拝を終えた私は、町が運営する「天平ろまん館」へ向かった。ここでは、実際に砂金採取を体験できるコーナーがある。水槽に手を入れ、砂をすくいながら金の粒を探す──単純な作業だが、集中すると時間を忘れる。小さな金の粒が皿の底に光る瞬間、千年以上前の人々の営みに触れたような気がした。

館内には、天平産金にまつわる資料や模型が展示されており、涌谷が国家事業の舞台だったことが実感できる。私は砂金体験を終えたあと、黄金山神社の背後に広がる山々を眺めながら、地名「涌谷」が生まれた背景に思いを馳せた。

黄金山神社

所在地:〒987-0121 宮城県遠田郡涌谷町涌谷黄金宮前23

電話番号:0229422619

参考

宮城県神社庁「黄金山神社(こがねやまじんじゃ)

涌谷に宿る金の記憶

黄金山神社の背後に広がる箟岳山(ののだけさん)は、標高236mの霊峰であり、山中には黄金沢や金洗沢など、砂金を産出する河川が流れている。地層には二次鉱床が形成されており、現在でも砂金が見つかることがあるという。まさに「みちのくの金」の原点を体感できる聖地である。

聖武天皇は、涌谷で金が産出されたことを「神仏の加護による瑞兆」と捉え、東大寺盧舎那仏の鍍金に用いるために献上された金を喜び、年号を「天平」から「天平感宝」へと改元した。この慶事は『続日本紀』に記録され、国家的な祝賀の対象となった。

この詔に感動したのが、越中国守であった大伴家持である。彼は天平感宝元年(749年)5月12日、越中国守館にて長歌一首・反歌三首を詠み、その中の反歌「海行かば」は後に戦時歌謡としても知られるようになった。黄金山神社の境内には、この歌を刻んだ万葉歌碑が建てられており、「小田郡(涌谷町)にある山」で産出した金が、はるか奈良の都に運ばれ、国家的な慶事となったことが詠み込まれている。

海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ

この歌は、大伴氏が代々皇室に忠誠を誓ってきた武門の家であることを背景に、主君への献身を詠んだものであり、涌谷の金が国家と人々の心を結びつけた象徴として今も語り継がれている。

涌谷町の産金遺跡は、仏堂跡や天平瓦、砂金採取の地形などを通じて、金と祈りが交差する空間を今に伝えている。黄金山神社の金色の鳥居をくぐり、箟岳山の沢の音に耳を澄ませると、千年以上前の人々の営みと信仰が静かに立ち上がってくるようだった。

参考

歌碑12「海行かば」-勝興寺 鼓堂右横|[Toyama Prefecture]|北陸道[Hokurikudō]|万葉歌めぐりの旅[A trip around Man'yo songs]|万葉歌碑魅力発信プロジェクト

まとめ

涌谷という地名は、ただの呼び名ではない。それは、金と祈りと人々の営みが交差する場所に生まれた言葉だ。奈良時代、聖武天皇の大仏建立を支えた天平産金の舞台として、涌谷は歴史の表舞台に登場した。黄金山から産出された砂金は、国家事業を支える資源となり、涌谷の名は『続日本紀』にも記録された。

黄金山神社は、産金の神を祀る式内社として国家に認められ、背後には天平瓦を葺いた仏堂が建てられていた。神と仏が並び立つこの地は、産金への感謝と繁栄を願う祈りの中心だった。私はその石段を登りながら、涌谷という名に込められた信仰の深さを感じた。

そして、地名「涌谷」の語源には、砂金採取の現場に人々が集まり、谷が湧きかえるように活気づいた様子から生まれたという説がある。黄金沢、金洗沢、成沢──地名に刻まれた作業の記憶が、涌谷という名の意味を静かに語っている。

私は現地を歩き、沢の音に耳を澄ませ、砂金体験で手を動かしながら、地名が風景そのものであることを実感した。涌谷という名には、土地の歴史と人々の営み、そして祈りと希望が静かに息づいていた。地名とは、風景と記憶が重なり合う場所に生まれる──涌谷はその象徴のような町だった。

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