【宮城県仙台市】伝統行事「広瀬川の灯ろう流し」を訪ねるin若林区・宮沢橋
地域文化を探訪するようになったのは、地名や祭り、伝承に宿る「なぜここに、なぜこの形で」という問いに惹かれるようになったからだ。土地に根差した文化には、語られずに残された祈りや記憶がある。仙台市で毎年8月20日に行われる「広瀬川灯ろう流し〜光と水とコンサートの夕べ〜」も、そのひとつだった。灯ろう流しという言葉は幻想的だが、その源流には江戸時代の飢饉と供養の歴史があると知り、私は現地を訪れることにした。
当日、仙台市営地下鉄南北線に乗って河原町駅で下車し、広瀬川の堤防へと向かった。駅から歩いて5分ほどで川沿いに出ると、すでに多くの人が集まり始めていた。浴衣姿の親子連れ、カメラを構える年配の方々、手作りの灯ろうを抱えた若者──それぞれが何かを胸に抱えてこの場所に集まっているように見えた。
堤防沿いを歩きながら、私は川面に映る夕陽と、対岸に立ち並ぶ屋台の灯りを眺めた。風は穏やかで、川は鏡のように空を映していた。河原には尚絅学院大学の学生たちが設営した縁日スペースがあり、子どもたちの笑い声が響いていた。その賑わいの奥に、桃源院の読経が静かに流れ始める。私はその音に足を止め、耳を澄ませた。
この行事は、宝暦・天明・天保の三大飢饉で亡くなった人々を供養するため、伊達家第七代重村公の夫人・観心院が広瀬川畔に黄檗宗の寺院・桃源院を建立し、川施餓鬼法会を行ったことに始まる。黄檗宗は江戸初期に中国から伝来した禅宗で、京都の萬福寺を大本山とし、木魚を用いてリズムをとりながら読経する独特の様式を持つ。その読経は今もほとんど変わらず、川辺に響く声は異国的でありながら、仙台の土地に根差した祈りの響きでもある。
私はこの灯ろう流しを、単なる夏の風物詩ではなく、数百年にわたって命を慈しみ続けてきた仙台の人々の心のかたちとして見つめたかった。現地で灯ろうを流しながら、土地の記憶に触れる旅が始まった。
所在地:〒989-3212 宮城県仙台市青葉区芋沢滝ノ瀬
参考
仙台市「広瀬川灯ろう流し実行委員会」
なぜ灯ろうを流すのか──川施餓鬼法会の記憶
灯ろう流しの起源は、江戸時代の川施餓鬼法会(かわせがきほうえ)にある。これは、川のほとりで行われる施餓鬼供養で、無縁仏や飢えに苦しんで亡くなった人々の霊を慰めるための仏教儀礼である。仙台では宝暦・天明・天保の時代に度重なる冷害と飢饉が発生し、仙台藩を含む東北一帯で数十万人が命を落とした。
伊達藩は広瀬橋付近に救助小屋を設け、粥を振る舞うなどの施策を講じたが、衰弱した人々はその地で最期を迎えた。彼らを供養するため、伊達家第七代重村公の夫人・観心院が広瀬橋のたもとに桃源院を開基し、川施餓鬼法会を始めたと伝えられている。そこに灯ろう流しの風習が加わり、現在の形へと受け継がれてきた。
余談だが、毎年8月に行われる石巻市の川開き祭りも、この広瀬川灯ろう流しと同様、川施餓鬼法会が源流と聞いた。現在では川村孫兵衛による北上川開拓の偉業を讃えることが理由だと説明されているが、海沿いは海難事故も多く、黄檗宗海門寺による法会も合わせていると言う。
海門寺(牡鹿観音霊場第20番) 黄檗宗海門寺跡
所在地:〒986-0833 宮城県石巻市日和が丘1丁目3−6
灯ろうは、ただ幻想的な光を川に浮かべるものではない。それは、飢えや孤独の中で亡くなった人々への祈りであり、無縁仏に対する慈しみの象徴である。私はこの歴史を知ってから、灯ろう流しが単なる夏の風物詩ではなく、命を悼む深い行事であることを実感した。
参考
桃源院と黄檗宗──仙台藩と仏教の交差点
灯ろう流しの供養を担う桃源院は、黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院である。黄檗宗は江戸初期に中国から伝来した禅宗の一派で、臨済宗と似ているが、梵唄や儀礼に特色がある。仙台藩では、四代藩主・伊達綱村以降、藩主の菩提寺を臨済宗から黄檗宗の大年寺へと改めており、以後、藩政と黄檗宗は深く結びついていった。
川辺に響くその声は、どこか異国的でありながら、仙台の土地に根差した祈りの響きでもある。黄檗宗の読経は、江戸時代に中国・福建省から伝来した形式を今もほぼそのまま保っており、梵唄の旋律と木魚のリズムが特徴的である。木魚は黄檗宗の大本山・京都萬福寺で生まれた法具であり、読経の拍子をとるために用いられる。仙台藩では四代藩主・伊達綱村以降、菩提寺を黄檗宗の大年寺に改めており、桃源院もその流れを汲む寺院である。広瀬川の灯ろう流しは、仙台に根付いた黄檗仏教文化の音と光の交差点でもある。
所在地:〒984-0816 宮城県仙台市若林区河原町2丁目14−10
電話番号:0222251576
光と音の交差──コンサートとメッセージ花火
灯ろう流しの夜には、音楽と花火が加わる。「光と水とコンサートの夕べ」という名の通り、ステージではジャズやクラシックの演奏が行われ、川辺に響く音が灯ろうの光と交差する。今年は「ありがとう」「がんばれ」「また会おうね」といった言葉が夜空に響いた。
私はこの灯ろう流しに参加しながら、2011年の東日本大震災の記憶がよみがえった。仙台市内で被災し、家族や友人と離れ離れになったあの日。灯ろうの光が水面に浮かぶのを見て、あのとき抱えた不安や祈りが静かに胸に戻ってきた。花火の音に包まれながら、私はあの夜の空を思い出していた。
広瀬川は、仙台市を流れる一級河川であり、街の中心を貫く象徴的な存在である。その川で、数百年にわたって命を慈しむ弔いの行事が続けられてきたことに、私は深い驚きと敬意を覚えた。京都の鴨川でさえ、これほど長く続く灯ろう流しの供養行事はない。伊達家が始め、仙台市民が守り続けてきたこの行事には、土地の人々の慈しみの心が確かに息づいている。
灯ろうが流れ去った後の静かな川面を見つめながら、私は「宮城に生まれて良かった」と思った。広瀬川は、ただの水の流れではない。それは、祈りと記憶を運ぶ川であり、仙台の心そのものなのだ。
まとめ文
広瀬川灯ろう流しは、仙台の夏の終わりを告げる幻想的な行事であると同時に、数百年にわたって命を慈しみ続けてきた祈りの文化でもある。江戸時代の飢饉で亡くなった人々を供養するため、伊達家第七代重村公の夫人・観心院が広瀬川畔に黄檗宗の桃源院を建立し、川施餓鬼法会を始めたことがその源流である。黄檗宗は中国から伝来した禅宗で、木魚を用いた読経の様式は今もほとんど変わらず、川辺に響くその声は異国的でありながら仙台の土地に根差した祈りの響きとして受け継がれている。
灯ろうに込められるのは、亡き人への想いだけではない。震災の記憶、日々の感謝、未来への願い──それぞれの灯ろうが水面に浮かび、広瀬川の流れに乗って静かに進んでいく。私はこの行事に参加しながら、東日本大震災で被災した当時の記憶がよみがえり、灯ろうの光に祈りを重ねた。
広瀬川は仙台市を貫く一級河川であり、街の象徴でもある。その川で、京都の鴨川でさえ行われていないような、数百年続く弔いの行事が今も市民の手で守られていることに、深い驚きと敬意を覚えた。伊達家の慈悲の心を受け継ぎ、現代にまで祈りをつなぐ仙台市民の姿に、私は「宮城に生まれて良かった」と心から思った。広瀬川灯ろう流し──それは、仙台の歴史と心を映す、静かで尊い光の祭りである。