【宮城県岩沼市】日本三大稲荷の1つ「竹駒神社」の読み方・由来・語源をたどるin馬事博物館・武隈の松

稲荷神社といえば、京都の伏見稲荷を筆頭に、商売繁盛や五穀豊穣を願う神社として全国に広く知られている。その中でも「日本三大稲荷」と称される神社の一つが、宮城県岩沼市に鎮座する竹駒神社(たけこまじんじゃ)である。東北地方にありながら、全国的な知名度を誇るこの神社は、初詣や初午大祭には数十万人の参拝者が訪れるほどの賑わいを見せる。

竹駒神社の創建は平安時代、承和9年(842年)と伝えられている。陸奥国守として多賀城に赴任した小野篁(おののたかむら)が、伏見稲荷の神霊を勧請し、奥州鎮護の神としてこの地に社を建てたことが始まりとされる。その後、伊達家の庇護を受けて発展し、明治期には県社に列格。現在では神社本庁の別表神社として、地域の信仰の中心を担っている。

なぜ宮城に日本三大稲荷があるのか——その答えは、岩沼という土地の歴史と地理にある。岩沼は古代から交通の要衝であり、東山道と東海道が合流する地点に位置していた。阿武隈川の流域に広がる肥沃な仙台平野は、稲作をはじめとする農業が盛んな地であり、稲荷信仰が根付くには理想的な環境だったのである。竹駒神社は、こうした土地の力と人々の祈りが結びついた、東北の稲荷信仰の象徴といえる存在である。

参考

日本三稲荷 竹駒神社

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宮城県神社庁「竹駒神社

岩沼市「竹駒神社唐門が宮城県有形文化財に指定されました

【竹駒神社の由来と語源】武隈から竹駒へ——白狐が導いた社の名

竹駒神社(たけこまじんじゃ)の社名の由来については、いくつかの説が伝えられている。その中でも広く知られているのが、岩沼の古称「武隈(たけくま)」に由来するという説である。武隈という地名は、阿武隈川の流域に広がる地域を指し、川の名から「阿」の字が取れたものとされる。阿武隈川は宮城県南部を象徴する大河であり、古代から人々の生活と信仰を支えてきた。

社伝によれば、平安時代の承和9年(842年)、参議・小野篁(おののたかむら)が陸奥国守として多賀城に赴任する途中、京都の伏見稲荷から神霊を勧請し、白狐を箱に納めて岩沼へ向かったという。途中、白狐が「八声の橋」で八度鳴き、箱から飛び出して森へ消えたため、篁はその地に社を建て「武隈明神」と名付けたとされる。

さらに、後年この地に能因法師が庵を結び、竹駒寺が建立されたことから、「武隈」が「竹駒」へと転訛したという説もある。この転訛には、神霊が竹馬に乗った童の姿で現れたという伝承が関係しているとも言われており、竹馬=竹駒という語感の連想が社名に影響を与えた可能性がある。

ただし、これらの由来はあくまで伝承に基づくものであり、史実としての確証はない。竹駒神社の旧称が「武隈明神」であったことや、岩沼の地名の変遷と重なる点から、地域の人々が語り継いできた説として尊重されている。

このように、竹駒神社の名には、土地の記憶と神霊の導きが込められているとされる。白狐の伝説や歌枕「武隈の松」との関係も含めて、信仰と文学が交差する岩沼ならではの文化的背景が垣間見える由来である。

所在地: 〒989-2443 宮城県岩沼市稲荷町1−1
電話番号: 050-1881-2844

【なぜ日本三大稲荷が岩沼に?】交通・農業・信仰の交差点としての地勢

竹駒神社が「日本三大稲荷」の一社に数えられる理由は、単なる規模や参拝者数だけではない。岩沼という土地が持つ地理的・歴史的な特性が、稲荷信仰の中心地としての地位を築いたのである。

岩沼は、古代の東山道と東海道が初めて合流する地点に位置し、太平洋岸ルートと内陸ルートの交通の要衝であった。この地勢は、陸奥国府・多賀城への玄関口として重要視され、畿内からの文化や信仰が流入する拠点となった。小野篁がこの地に稲荷神を勧請したのも、奥州鎮護の要としての戦略的意味があったと考えられる。

また、岩沼は阿武隈川の流域に広がる肥沃な仙台平野に位置し、古くから稲作を中心とした農業が盛んな地であった。稲荷神は稲作の守護神であり、農業と密接に結びついた信仰である。この土地に稲荷神が祀られることは、自然な流れであり、地域の人々の生活と信仰が融合した結果である。

さらに、江戸時代には仙台藩伊達家の庇護を受け、竹駒神社は藩内の信仰の中心として発展した。伊達政宗をはじめとする歴代藩主が社地を寄進し、社殿の造営や祭礼の整備を行ったことで、神社の格式と信仰の厚みが増した。こうした歴史的背景が、竹駒神社を日本三大稲荷の一社として位置づける根拠となっている。

歌枕「武隈の松」と松尾芭蕉

「武隈の松」は、平安時代から歌枕として和歌に詠まれてきた名所であり、宮城県岩沼市にその伝承が残る。芭蕉が『おくのほそ道』でこの松を訪れたのは、1689年5月4日。随行した弟子・曾良の『奥の細道随行日記』には、次のような記述がある。

一 五月四日 白石ヲ出テ、岩沼ニ入ル。竹駒明神ノ前ヲ通リ、昼頃武隈ノ松ヲ見ル。

この記録から、芭蕉一行が白石から岩沼へ向かい、竹駒神社の前を通って「武隈の松」を見物したことがわかる。曾良は淡々と記しているが、芭蕉にとってこの松との出会いは特別な意味を持っていた。

『おくのほそ道』本文では、芭蕉はこの松を見て

「桜より松は二木を三月越し」

と詠んでいる。これは、旅立ちの際に弟子から贈られた句「武隈の松見せ申せ遅桜」への返歌であり、三月の旅路を経てようやく念願の松に出会えた感動を表している。

この「二木の松」は、かつて二株並立の相生の松であったが、芭蕉が見た五代目は一株二股の姿だった。それでも芭蕉は「昔の姿を失っていない」と記し、歌枕としての価値を見出している。

また、芭蕉はこの地で能因法師や西行法師を思い起こしている。能因は竹駒明神の化身とされる童に導かれ、庵を結んだという伝説が残る。西行は実方中将の墓を訪れ、「かた見の薄」に涙したと伝えられる。芭蕉は彼らの足跡を追い、歌枕の地に心を重ねていたのだ。

所在地: 〒989-2448 宮城県岩沼市二木2丁目2−2

参考

山梨県立大学「奥の細道武隈の松」「曾良旅日記

岩沼市「『おくのほそ道』と岩沼

岩沼市「武隈の松(二木の松)が「おくのほそ道の風景地」として国名勝に

竹駒神社の馬の像、大提灯、唐門、武隈の松へ

竹駒神社を訪れたのは、秋晴れの午後だった。岩沼駅から徒歩15分ほど、稲荷町の通りを抜けると、まず目に飛び込んできたのは堂々たる表参道鳥居。その先に続く参道は、石畳と並木に囲まれ、神域へと誘う静かな空気に満ちていた。

随身門をくぐると、左右に随神像と神狐像が安置されており、稲荷神社ならではの荘厳さと親しみやすさが同居していた。さらに進むと、目を奪われたのが「向唐門」である。天保13年(1842年)建立の総欅造りで、宮城県指定有形文化財にもなっている。その屋根の曲線美と柱の力強さは、江戸後期の神社建築の粋を感じさせる。

拝殿は平成5年に竣工されたもので、総ひのき造り・銅板葺きの権現造り。千鳥入母屋唐破風の屋根が堂々とそびえ、神域の中心としての風格を漂わせていた。拝殿前には巨大な提灯が吊るされており、「竹駒稲荷」と大書されたその姿は圧巻であった。参拝者が手を合わせる姿が、提灯の下で静かに連なっていた。

馬事博物館と馬の像

境内には馬の像が複数あり、竹駒神社が馬との縁も深いことを物語っていた。特に注目すべきは「御神馬舎」と「馬事博物館」である。御神馬舎には白い御神馬の像が飾られている。昭和13年に竣工されたこの施設は、令和3年に国登録有形文化財となり、伊達政宗騎馬石膏像をはじめとする馬に関する資料を収蔵している。午年には特に参拝者が増えるという。馬は稲荷神の神使でもあり、交通・農耕・勝負運などを象徴する存在として信仰されている。

奥宮へと続く参道には、命婦社や宇賀神社、北野神社、八幡神社、出雲神社、秋葉神社、総社宮などの境内社が点在し、それぞれに異なる神徳を持つ。命婦社では願い事を稲荷大神に取次いでもらう信仰があり、静かに手を合わせる参拝者の姿が印象的だった。

竹駒神社 御神馬舎

武隈の松へ

そして、竹駒神社の参拝を終えた後、私は北へ200メートルほど歩き、「武隈の松(二木の松)」へと向かった。この松は、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で詠んだ歌枕の地として知られ、現在は「二木の松史跡公園」として整備されている。根元から二股に分かれた樹高17メートルほどの松は、七代目とされ、平成25年には〈名勝〉おくのほそ道の風景地として文化財指定を受けている。

芭蕉はこの松を見て「武隈の松にこそ目覚むる心地はすれ」と感動し、弟子・挙白から贈られた餞別句「武隈の松見せ申せ遅桜」に応えて「桜より松は二木を三月越し」と詠んだ。この句には、「松=待つ」「三月=見つ」などの掛詞が込められており、旅の終盤に念願の松に出会えた喜びが表現されている。

実際に目にした武隈の松は、風に揺れる枝の間から陽光が差し込み、芭蕉が見たであろう「昔の姿を失わずとしらる」そのままの風情を感じさせた。松の根元には句碑が建てられ、芭蕉の旅と詩心が今もこの地に息づいていることを静かに伝えていた。

竹駒神社と武隈の松——この二つの場所を巡ることで、岩沼という土地が持つ信仰と文学の深みを体感することができた。祈りと詩が交差する神域は、訪れる者の心を静かに整えてくれる。

まとめ

竹駒神社と武隈の松——この二つの存在は、宮城県岩沼市という一つの町に、信仰と文学という異なる文化の軸を交差させている。竹駒神社は、平安時代に小野篁が創建したと伝えられ、稲作・商業・縁結びなど生活の根幹を支える神々を祀る霊験あらたかな神社である。巨大な提灯や唐門、馬事博物館など、境内には歴史と文化が凝縮されており、参拝者を圧倒する荘厳な空気が漂う。

一方の「武隈の松」は、平安時代から歌枕として詠まれ続けてきた名所であり、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で感激をもって詠んだ地でもある。能因、西行、芭蕉といった名だたる歌人たちがこの松に心を寄せ、詩歌の世界に昇華させてきた。松が枯れても植え継がれ、今も「一株二股」の姿で岩沼の地に根を張っている。

この二つの文化的象徴は、岩沼という土地の特性をよく表している。交通の要衝であり、肥沃な平野を抱えるこの地は、古来より人々の祈りと想像力を受け止めてきた。竹駒神社の神域で手を合わせ、武隈の松の下で一句をひねる——そんな旅のひとときは、現代に生きる私たちにも、心の豊かさと時間の深みを教えてくれる。

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