【宮城県仙台市】「壱弐参横丁」の読み方や語源・由来とは?仙台の戦後の居酒屋文化をたずねるin青葉区

仙台市青葉区一番町の一角に、ひっそりと佇む「壱弐参横丁(いろはよこちょう)」。この不思議な名前に初めて出会ったとき、私は地域文化ライターとしての好奇心を抑えきれなかった。「壱弐参」と書いて「いろは」と読む——その洒落た響きの裏には、どんな物語が眠っているのだろうか。地名や通りの名には、土地の記憶が宿っている。私はその記憶を辿り、言葉にすることで、地域の魅力を掘り起こしたいと願っている。

壱弐参横丁は、仙台市の中心部、東一番丁通りと南光院丁通り、文化横丁に囲まれた場所にある。昼間は静かな佇まいだが、夕暮れとともに灯りがともり、飲食店や雑貨店が活気づく。焼き鳥屋、立ち飲み屋、古着屋、ギャラリーなど、個性豊かな店が軒を連ね、昭和の香りと現代の感性が交錯する空間が広がっている。

この横丁の成り立ちは、戦後の混乱期にまで遡る。仙台空襲で焼け野原となった市街地に、露店商たちが戸板を並べて商いを始めたのが始まりだった。やがて「中央公設市場」として整備され、現在の壱弐参横丁へと姿を変えていく。私はこの横丁を歩きながら、沖縄・那覇の牧志公設市場を思い出していた。あちらもまた、戦後の復興から生まれた市場であり、周囲には小さな飲み屋街が広がっている。壱弐参横丁には、そんな戦後のバラック文化の名残と、人々の暮らしの温もりが今も息づいている。

参考

壱弐参横丁「ふれあい百店街・壱弐参(いろは)横丁 | 昭和レトロがのこる

仙台宮城フィルムコミッション「壱弐参横丁

所在地:〒980-0811 宮城県仙台市青葉区一番町2丁目3−28

壱弐参(いろは)横丁の読み方・語源・由来

仙台市青葉区一番町にある「壱弐参横丁」は、「いろは横丁」と読む。漢数字の「壱弐参」は、所在地である「一番町二丁目三番地」に由来しており、地番の「一・二・三」を洒落て「いろは」と読ませることで、親しみやすく、和風の情緒を感じさせる名称となっている。平成12年に行われた一般公募でこの名が選ばれたとされ、地元の人々のセンスと文化的感性が反映された命名だ。

この横丁は、東一番丁通りと南光院丁通り、そして文化横丁と接しており、仙台の中心市街地の路地文化を象徴する場所のひとつである。サンモール一番町商店街のアーケードから少し外れた場所にありながら、独自のにぎわいを見せる。通りの構造は、かつて「青葉小路」と「松竹小路」と呼ばれていた2本の通路が基になっており、現在は約100店舗が肩を寄せ合うように並ぶ。

壱弐参横丁の成り立ちは、昭和20年7月10日の仙台空襲後の復興にある。焼け野原となった仙台の中心部で、露店商たちが戸板やござを敷いて瀬戸物や下駄を並べ、生活を再建し始めた。翌年には「中央公設市場」が誕生し、戦地からの引揚者や焼け出された市民が店を構えた。これが現在の壱弐参横丁の前身である。

この歴史は、沖縄・那覇市の「牧志公設市場」とも通じるものがある。私自身、牧志市場には何度も足を運んでいるが、市場の周辺には小さな飲み屋街が広がり、戦後のバラック文化が今も息づいている。壱弐参横丁もまた、同じように戦後の混乱期から立ち上がった人々の営みが形になった場所であり、路地の奥に人情と生活の記憶が残っている。

さらに、仙台の食文化にもこの闇市的な背景が色濃く影響している。牛タンテールスープ炉端焼きなどは、米軍が食べなかった部位を無駄にせず、じっくり火で焼いて提供したことが始まりとされる。焼いている間に店主と客が言葉を交わす——この時間が、仙台独自の「サロン文化」を育んだ。全国的にも稀なこの文化は、壱弐参横丁のような場所から生まれ、今も続いている。

壱弐参横丁は、ただの飲み屋街ではない。地名に込められた語感の工夫、戦後の復興の記憶、そして仙台の誇るべき文化の発信地として、今も静かに、しかし力強く息づいている。

【宮城県仙台市】日本最古の牛タン「味太助(あじたすけ)」をたずねるin青葉区・味太助本店

仙台牛タンは、戦後の進駐軍が残した牛タン・ホルモンを炭火で焼いて食べたことから始まった、日本独自の食文化。発祥の店「味太助」では、厚切りの牛タンと麦飯、テール…

【宮城県仙台市】仙台発祥「テールスープ」を食べるin仙台駅牛タン通り・味の牛たん喜助

仙台駅「牛たん通り」で味わう牛たん定食は、炭火焼きの香ばしさと熟成の旨みが魅力。名物のテールスープは、戦後の食材活用から生まれた仙台発祥の一椀で、滋養と静けさ…

【宮城県仙台市】仙台発祥の「炉端焼き」を訪ねるin元祖炉ばた・天江富弥・後水尾天皇の京都寛永サロン

地名や料理は、土地の記憶を映す器だ。私は地域文化を記録する仕事をしているが、食の風景を歩く旅は、いつも特別な感覚を伴う。今回訪れたのは、宮城県仙台市──その夜の…

参考

ミヤギテレビ「科目は「歴史」 壱弐参(いろは)横丁の歴史

朝日新聞「焼け野原にできた「壱弐参横丁」 変わらぬ人情 歴史知る人少なく

【まとめ文】壱弐参横丁に息づく、仙台の誇りと文化の記憶

壱弐参横丁を歩くたびに、私はこの町が持つ不思議な魅力に引き込まれる。細い路地に並ぶ小さな店々、赤提灯の灯り、店主と客の何気ない会話——それらは単なる商業空間ではなく、仙台の歴史と文化が凝縮された“生きた博物館”のようだ。「壱弐参」と書いて「いろは」と読ませるこの地名には、地番の遊び心と、和の響きを大切にする地域の美意識が込められている。

戦後の焼け野原から立ち上がったこの横丁は、ただの飲み屋街ではない。仙台空襲の直後、生活を再建しようとする人々が集まり、戸板一枚から始まった商いが、やがて公設市場となり、現在の横丁へと発展した。沖縄の牧志公設市場と同様に、壱弐参横丁もまた、戦後の闇市文化をルーツに持ち、庶民の知恵とたくましさが形になった場所だ。

そして、仙台の食文化——牛タン、テールスープ、炉端焼きなど——も、このような横丁文化から生まれたとされている。米軍が食べなかった部位を無駄にせず、じっくり焼いて提供する中で、店主と客が言葉を交わす時間が生まれた。そこから育まれたのが、仙台独自の「サロン文化」だ。人と人がつながり、語り合い、文化が生まれる場。それが壱弐参横丁であり、仙台の誇りでもある。

地名や通りの名は、土地の記憶を語る語り部だ。壱弐参横丁という名を辿ることで、私は仙台の復興と文化の力強さに触れることができた。これからも、この町の灯りが消えることなく、次の世代へと語り継がれていくことを願ってやまない。

\ 最新情報をチェック /

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です