【宮城県大崎市】蝦夷文化を見つける!in古川・田尻・鬼首
はじめに──蝦夷を祖先として見つめなおす視点
「蝦夷(えみし)」と聞いて、どんな姿を思い浮かべるだろうか。教科書的には、古代日本の中央政権に抵抗した“異民族”として語られることが多い。坂上田村麻呂の征伐、城柵の設置、律令国家の拡張──その文脈の中で蝦夷は「敵」として描かれてきた。
だが、私は大崎市を歩きながら、ふと立ち止まった。鬼首、田尻、名生、玉造──地名に刻まれた響き。丘陵に残る横穴墓、遮光器土偶が出土した遺跡、蝦夷塚と呼ばれる土盛り。これらは本当に“征服された者”の痕跡なのか?それとも、ここに暮らし、祈り、死者を葬った人々の記憶なのではないか。
そもそも蝦夷とは何者なのか。文献上では『日本書紀』『続日本紀』『類聚三代格』などに登場し、東北地方に居住し、中央政権に服属しなかった人々を指す。たとえば『日本書紀』では、天武天皇の時代に「蝦夷、叛きて官軍を襲う」と記され、『続日本紀』には「天平宝字元年、陸奥国の蝦夷、官軍に降る」とある。『類聚三代格』では、蝦夷に対する官位授与や恩赦の記録が残されており、単なる敵対者ではなく、交渉相手としても扱われていたことがわかる。
特徴としては、狩猟・漁労・焼畑農耕を中心とした生活、独自の祭祀や埋葬習慣、そして縄文〜弥生文化の延長線上にあるとされる。近年の考古学では、蝦夷=縄文的文化を継承した在地民という見方が強まりつつある。
大崎市にこれほど蝦夷関連の遺跡が多いのは、地理的・歴史的な背景がある。この地は、古代の城柵(玉造柵・城生柵・新田柵)や官衙(名生館)が設置された“境界の地”であり、中央と蝦夷が接触・混住した場所だった。城柵とは、律令国家が蝦夷支配のために築いた軍事・行政拠点で、柵戸(さくこ)と呼ばれる民を住まわせ、兵站や交易の拠点として機能した。田尻にある新田柵跡もそのひとつで、蝦夷との接触・交流・統治の痕跡が残されている。
こうした歴史を歩いて感じると、蝦夷は“戦った人々”ではなく、“暮らした人々”だったことが見えてくる。彼らはこの地に根を張り、風土に寄り添い、文化を育んだ。今の私たちの生活の礎を築いた、もうひとつの祖先。その記憶を、地名と風景の中から掘り起こしていく旅が、ここから始まる。
そして今、世界では日本文化がかつてないほど注目されている。アニメや漫画、ゲームといったコンテンツを通じて、日本の感性や思想が国境を越えて広がっている。たった一国で、ここまで文化的影響を発信している例は、世界でも稀だろう。
その豊かさの根底には、日本文化の「連続性」があると私は思う。一世代で完結するのではなく、次世代が受け継ぎ、発展させ、面白くしていく。だからこそ、文化で生活を豊かにするには、過去にヒントがある。祖先を知ることは、未来を育てることでもある。蝦夷という祖先に目を向けることは、私たち自身の文化の根を見つめ直すことなのだ。
参考
日本遺産ポータルサイト:政宗が育んだ“伊達”な文化 東北歴史博物館開館20周年
大崎田尻観光協会:恵比須田遺跡
2. 鬼首──蝦夷の首領「悪路王」の伝承と地名の記憶
鳴子温泉郷からさらに山深くへと進むと、鬼首(おにこうべ)という地にたどり着く。初めてこの地名を目にしたとき、私は思わず立ち止まった。「鬼の首」──その響きは、あまりにも異質で、あまりにも生々しい。地名に込められた何かが、土地の記憶を語っているようだった。
鬼首は、古代蝦夷征伐の舞台のひとつとされる。伝承によれば、坂上田村麻呂がこの地で蝦夷の首領「悪路王(あくろおう)」を討ち、その首を晒したことから「鬼首」と呼ばれるようになったという。悪路王は、蝦夷の中でも特に強大な勢力を持ち、朝廷に激しく抵抗した人物とされる。彼の名は、東北各地に残る「田村麻呂伝説」の中でも、最も象徴的な“敵”として語られている。
阿弖流為(あてるい)も鬼と呼ばれた
しかし、蝦夷の頭領として知られる阿弖流為(あてるい)もまた、岩手では「鬼」として表象されることがある。これは偶然ではないだろう。歴史は、勝者によって書かれる。大和朝廷が勝ったからこそ、蝦夷は「鬼」とされ、「悪路」と名付けられ、「首を晒された」と語られる。蝦夷の文化を“怖いもの”“異質なもの”として印象づけるために、名称や物語が意図的に変えられた可能性は否定できない。
そもそも「蝦夷」という言葉自体が、侮蔑的なニュアンスを含んでいる。異民族を「毛深い」「野蛮」とする表現は、中央から見た偏見の産物だ。同じように、卑弥呼という名も、中国側が記録した漢字表記であり、「卑しい巫女」と読めるのは偶然ではない。たとえば「日巫女」と書くこともできたはずだが、そうはしなかった。古代において、文字は単なる記号ではなく、印象を操作する力を持っていた。蝦夷=鬼という構図も、その延長線上にあるのかもしれない。
なぜ悪路王は鬼首に行った?
では、なぜ悪路王は鬼首に逃げたのか──その地理的背景にも意味がある。鬼首は盆地であり、周囲を山に囲まれながらも、街道が続いている。秋田方面へ抜ける道もあり、逃走・潜伏には適した地形だった。さらに、鬼首には「地獄谷」という地名が残っている。地熱地帯であり、温泉が突然噴き出す場所もある。植物が生えず、硫黄の匂いが立ち込める風景は、確かに“異界”のようだ。こうした地形は、蝦夷の自然信仰や呪術的世界観とも重なる。地獄谷という名は、恐怖の象徴ではなく、異界への畏敬の表れだったのかもしれない。
なお、鬼首地域には古代の地名として「荒雄岳(あらおだけ)」や「吹上」「地獄谷」「間欠泉」など、火山信仰や霊的地名が点在している。荒雄岳は、古くから山岳信仰の対象であり、蝦夷の祈りの場であった可能性もある。地名に残る「吹上」や「地獄谷」は、地熱活動と結びついた異界的空間であり、蝦夷の自然観と深く関係している。
重要なのは、鬼首が蝦夷文化の「終焉の地」ではないということだ。宮城県における蝦夷の抵抗は、鬼首で終わったわけではない。むしろ、ここはその過程の一地点であり、蝦夷の暮らしと祈りが続いていた場所だった。征伐の物語の裏には、土地に根ざした人々の営みがあった。
3. 田尻──蝦夷塚・横穴墓・遮光器土偶に宿る暮らしの痕跡
鬼首の山岳地帯から平野部へと降りてくると、大崎市田尻にたどり着く。ここは、蝦夷の「戦い」ではなく「暮らし」の痕跡が色濃く残る土地だ。私はこの地を歩きながら、蝦夷が単なる反乱者ではなく、生活者であり、祖先であったことを実感した。
まず訪れたのは、地元で「蝦夷塚」と呼ばれる場所。小高い丘に築かれた土盛りで、古くから「蝦夷の墓」と伝えられてきた。考古学的には古墳時代末期〜奈良時代の土葬墓とされ、蝦夷の戦死者を葬った場所とも言われている。地元の人々は今もこの塚に手を合わせ、祟りや霊験の話も語り継がれている。ここには、征服された者への畏敬と、祖霊としての祈りが共存していた。
さらに田尻の丘陵地には「大沢横穴墓群」が広がっている。横穴式の墓は、在地豪族や蝦夷の埋葬習慣とされ、律令国家の支配が及ぶ以前の生活文化を物語っている。穴の奥には副葬品が置かれ、死者を丁重に送り出す姿勢が見て取れる。私はその静かな穴の前に立ち、蝦夷がこの地に根を張り、家族を持ち、死者を悼んだことを思った。
恵比須田遺跡と遮光器土偶
そして何より印象的だったのが「恵比須田遺跡」。ここからは、ほぼ完全な遮光器土偶が出土している。高さ36.1cm、肩幅21cmの大型土偶で、縄文時代後期のものとされる。遮光器土偶は、呪術・祭祀・母性・再生を象徴する存在であり、蝦夷文化の源流である縄文的世界観を色濃く残している。穴の配置や造形からは、鳥の羽根を挿していた可能性や、身体のチャクラを表していたという説もある。
この土偶が出土した地名「恵比須田(えびすだ)」にも注目したい。蝦夷=恵比寿という民俗学的な説があるように、「辺境の神」「海の神」「異界の神」としての恵比寿信仰は、蝦夷の神格化された姿とも考えられる。縄文的な自然信仰→蝦夷的な異界信仰→恵比寿信仰という連続性が、ここには静かに息づいている。
田尻の風景は、どこか懐かしく、どこか神秘的だった。畑の向こうに見える丘、祠の前に咲く花、土偶が眠っていた地層──それらすべてが、蝦夷の暮らしの記憶を語っていた。私はこの地を歩きながら、蝦夷が「いた」のではなく、「生きていた」ことを、確かに感じていた。
〒989-4301 宮城県大崎市田尻蕪栗恵比須田
そして田尻から北西に位置する加護坊山の山頂には、「加護山国家安楽寺跡」がある。伝承によれば、ここは蝦夷と朝廷軍との戦いで命を落とした人々を弔うために建立された寺院跡で、天武天皇の時代に創建されたとされる。その名には、戦乱の世にあって人々の安寧を願う祈りが込められていた。
加護坊山は箟岳丘陵の西端に位置し、古代には砂金が採れたことで知られている。この砂金は、奈良の大仏建立にも貢献したとされ、朝廷にとって極めて重要な資源だった。実際、『続日本紀』天平21年(749年)2月22日条には「陸奥国始貢黄金」と記され、涌谷の黄金献上が国家的慶事として扱われた。これを受けて朝廷は大赦を行い、元号を「天平感宝」→「天平勝宝」へと立て続けに改元した。
地質学的にも、箟岳丘陵の砂金鉱床は北上山地由来の含金礫層が堆積したもので、純度が高く、鍍金に適した粒状砂金が特徴とされる(鈴木舜一「天平の産金地,宮城県箟岳丘陵の砂金鉱床」地質学雑誌)。この産金は、朝廷の財政・宗教政策に大きな影響を与え、国家の宗教的象徴である大仏建立を可能にした。
4. 古川──名生館・伏見律令国家と蝦夷の境界に立つ官衙と寺院
大崎市古川地域──この地を歩いていると、町の奥に静かに眠る古代の記憶に出会う。田尻や鬼首が蝦夷の「暮らし」や「祈り」の痕跡を残していたとすれば、古川は蝦夷と律令国家が真正面から向き合った「境界の地」だった。
その象徴が「名生館官衙遺跡(みょうだてかんがいせき)」である。現在の古川名生字館前周辺に位置し、7世紀末〜8世紀初頭に築かれた地方官衙跡として、国指定史跡に登録されている。掘立柱建物群や倉庫跡、道路遺構などが発掘され、古代の行政機構がこの地に展開していたことが明らかになっている。
官衙(かんが)とは、律令国家が地方支配のために設置した役所のことである。税の徴収、兵士の徴発、戸籍・土地の管理、仏教寺院との連携による教化など、国家の制度が蝦夷の地に直接入り込んだ痕跡がここにある。名生館は、陸奥国における朝廷の支配拠点のひとつであり、多賀城が築かれる以前から、蝦夷との接触・交渉・統治の場となっていた。
名生という地名にも、古代の制度の痕跡が刻まれている。語源には諸説あるが、「名代(なしろ)」という氏族の奉仕役職や、「生部(いくべ)」という職業部民の居住地に由来する可能性がある。「生部」は、衣食住の供給や神事の補助などを担う職能集団であり、国家や神々に奉仕する役割を持っていた。また、「名を生む」「名を立てる」という意味から、功績地や役所設置地を指す地名として使われた例もある。いずれにせよ、名生とは「制度が根を下ろした地」であり、蝦夷と律令国家の接点だった。
その南約1.2kmには「伏見廃寺跡」がある。名生館に付属する寺院とされ、奈良時代の仏教寺院の構造を持つ礎石建物跡や瓦片が出土している。奈良時代は、仏教を国家の安定と守護のために用いる「鎮護国家思想」が確立された時代であり、地方寺院の設置は単なる宗教施設ではなく、政治的・軍事的な意味を持っていた。伏見廃寺もまた、蝦夷支配の一環として、祈りと制度が交差する場だったと考えられる。
古川地域には、他にも蝦夷文化の痕跡が点在している。たとえば、旧郡名「玉造郡」は、『続日本紀』に登場する「玉造柵」の所在地とされ、蝦夷と朝廷の境界線が引かれた場所だった。
実際、『続日本紀』天平9年(737年)4月14日条には次のような記述がある:
「陸奥国に玉造柵を置く」 (原文:陸奥国置玉造柵)
これは、玉造柵が陸奥国の北辺防衛拠点として設置されたことを示す初出であり、古川地域が国家の軍事・行政の最前線に位置づけられていたことを物語る。
さらに、天平宝字3年(759年)には次のような記述がある:
「征東軍、玉造柵に入りて防御を固める」 (原文:征東軍入玉造柵、固守之)
この条文は、蝦夷との戦争が激化する中で、玉造柵が兵站基地として機能し、軍事的に極めて重要な役割を果たしていたことを示している。
また、玉造という地名は、勾玉などの装飾品を作る職人集団に由来するとも、蝦夷語由来の地名とも言われており、語源研究の対象でもある。
江合川・鳴瀬川流域もまた、蝦夷の生活圏であり、後に官衙や寺院が設置される根拠地となった。肥沃な氾濫原は、焼畑農耕や漁労に適しており、蝦夷の暮らしと律令国家の制度が重なり合う場所だった。
古川の風景は、今では田園と住宅地が広がる穏やかな町だ。だがその地層の奥には、蝦夷と律令国家が向き合った緊張と交渉の記憶が眠っている。官衙と寺院が並ぶ風景は、武力と祈り、制度と信仰が交差する空間だった。
5. 地名に宿る蝦夷語の痕跡──江合・鳴瀬の語源を探る
蝦夷の記憶は、遺跡や伝承だけでなく、地名の響きの中にも静かに息づいている。私は大崎市を歩きながら、ふと耳に残る地名に違和感と魅力を覚えることがある。「江合」「鳴瀬」──これらの地名には、蝦夷語の痕跡が潜んでいるのではないか。
江合川と鳴瀬川は、いずれも宮城県を代表する一級河川であり、古代から人々の生活・交通・信仰の基盤となってきた。世界四大文明がいずれも大河の流域で発展したように、蝦夷の文化もまた、川沿いに展開した可能性が高い。水は命を育み、土地を繋ぎ、祈りを運ぶ。蝦夷が自然と共に生きた民であるならば、川は彼らの暮らしの中心にあったはずだ。
まず「江合(えあい)」という地名。江合川は大崎市を流れる主要河川で、古代から蝦夷の生活圏とされてきた。語感としては「江(川)」と「合(あい)」の合成語に見えるが、アイヌ語では「エ・アイ」は「頭が合わさる場所」「川が交わる場所」を意味する語根に近い。実際、江合川は鳴瀬川と合流し、広大な氾濫原を形成する地形的特徴を持つ。蝦夷の漁労・農耕に適したこの地形が、地名に反映された可能性は高い。
そして「鳴瀬(なるせ)」という地名。鳴瀬川は、宮城県北部を流れる大河で、古代から蝦夷の生活・信仰・交通の要所だった。「鳴瀬」という名は、音の響きと水の流れを連想させるが、アイヌ語では「ナ・ル・セ」は「流れる・音・場所」といった意味を持つ語根に近い。特に「ナ」は「川」「流れ」を意味し、「ルセ」は「音がする場所」「鳴る場所」と解釈されることがある。つまり「鳴瀬」は、川の音が響く場所、あるいは水霊が宿る聖地として名付けられた可能性がある。
もちろん、これらの語源解釈は確定的なものではない。だが、地名の音韻と地形、そして蝦夷の生活圏を重ね合わせることで、言葉の奥にある文化の層が見えてくる。地名は、征服者が付けたものではなく、そこに暮らした人々が自然とともに名付けた記憶の痕跡なのだ。
6. 祖先としての蝦夷──暮らし・祈り・技術の継承
蝦夷とは何者だったのか──この問いに、私は旅の終わりにもう一度立ち返っていた。鬼首の山々、田尻の塚と土偶、古川の官衙と寺院、そして川の音が響く江合と鳴瀬──それらを歩きながら、蝦夷は単なる“反乱者”でも“異民族”でもなく、確かにこの地に生きた「祖先」だったのではないかと感じていた。
蝦夷の暮らしは、自然と共にあった。焼畑農耕、漁労、狩猟、山岳信仰──それらは、土地のリズムに寄り添う営みだった。田尻の横穴墓や遮光器土偶は、死者を丁重に送り出す文化と、再生への祈りを物語っていた。鬼首の地獄谷や荒雄岳は、異界と現世の境界として、畏れと敬いが共存する空間だった。
祈りのかたちは、言葉よりも風景に残されている。地名に宿る響き、川の音、山のかたち──それらは、蝦夷の精神世界の痕跡だ。律令国家が仏教寺院を建て、鎮護国家の思想を広げたとき、蝦夷の祈りは「教化」の対象となった。だがその根底には、自然への畏敬、祖霊への感謝、土地との対話があった。