【宮城県仙台市】地名「三百人町」の読み方や語源・由来をたずねるin若林区信夫神社・今清園・信夫山
仙台市若林区に「三百人町」という町名がある。初めてその名を目にしたとき、私は思わず立ち止まった。三百人——その数字の重みと、町という言葉の柔らかさが並ぶことで、何か物語が潜んでいるように感じたのだ。
調べてみると、この町名は江戸時代初期、伊達政宗が仙台に移った際に、福島・信夫(しのぶ)から召し出された鉄砲足軽300人が住んだことに由来するという。彼らは故郷の氏神である信夫神社を勧請し、町の守り神とした。つまり三百人町とは、忠義を尽くして移住した武士たちの記憶が刻まれた地名なのだ。
私はその由来に惹かれ、実際に三百人町を歩いてみることにした。町を歩くと、五橋、連坊、木ノ下といった古い地名が並び、仙台箪笥店や御筆の工房など、手仕事の文化が今も息づいている。町名の背景にある歴史が、今も静かに暮らしの中に残っていることを実感した。
さらに私は、三百人町の氏神である信夫神社を訪れ、福島市の信夫山にも足を運んだ。そこから見下ろす福島の街は美しく、古代から歌枕として詠まれてきた「信夫の里」の面影が確かに残っていた。忍ぶ恋の歌が詠まれた地に立ち、私はふと考えた。三百人の武士たちは、故郷を忍びながらも忠義を選び、仙台に根を下ろしたのではないか——と。
地名とは、ただの呼び名ではない。三百人町には、人の移動と信仰、そして恋と忠義の記憶が静かに息づいていた。
参考
仙台市「町名に見る城下町」
所在地:〒984-0057 宮城県仙台市若林区
三百人町の読み方と語源・由来
三百人町——読み方は「さんびゃくにんまち」。仙台市若林区に位置し、現在も町名として残るこの地は、江戸時代初期に伊達政宗が仙台に移った際、福島・信夫から召し出された鉄砲足軽300人が住んだことに由来する。
彼らは、福島市にある信夫山の麓に広がる信夫の里から来たとされ、町の氏神として信夫神社を勧請した。現在も三百人町の一角に、信夫神社が静かに佇んでいる。町名と神社名が一致していることからも、故郷への想いと信仰が強く結びついていたことがうかがえる。
この町名は、単なる人数の記録ではない。鉄砲足軽という軍事的役割を担った人々が、忠義を尽くして仙台に移住し、町を形成したという歴史の証でもある。彼らが暮らした町には、的場町や星場町など、同じく足軽町としての機能を持った地名が並び、仙台城下の防衛と文化を支えていた。
三百人町という地名には、移住と忠義、そして故郷への祈りが込められている。今もその名が残ることで、仙台の町に刻まれた人々の記憶が静かに語り継がれている。
三百人町を歩く
三百人町を歩いてみると、まず目に入るのは町の静けさだ。住宅街の中にありながら、どこか時間が止まっているような空気が漂っている。通りを進むと、五橋、連坊、木ノ下といった古い地名が並び、仙台城下町の名残を感じさせる。
この周辺には、仙台箪笥の工房や仙台御筆、染物を扱う店が点在している。どちらも仙台の伝統工芸として知られ、手仕事の技術が今も受け継がれている。私は箪笥店の前で立ち止まり、職人が木を削る音に耳を澄ませた。その音は、町の記憶を刻むように響いていた。
さらに、今清園という茶舗では、地元の人々が緑茶を楽しみながら語らっていた。店主に三百人町の由来を尋ねると、「昔は武士の町だったんですよ。信夫神社があるでしょう」と教えてくれた。町の人々の記憶の中にも、地名の由来がしっかりと根づいていることがわかる。
歩いていると、町のあちこちに小さな祠や石碑があり、かつての足軽町の面影が残っている。三百人町は、ただの住宅地ではない。そこには、忠義を尽くして移住した人々の暮らしと、手仕事の文化が今も息づいていた。
今清園
所在地:〒984-0057 宮城県仙台市若林区三百人町104 銘茶 今清園
電話番号:0222224541
信夫神社と信夫山へ
三百人町の一角に、ひっそりと佇む信夫神社がある。住宅街の中に埋もれるようにして建つこの神社は、かつて福島・信夫から移住してきた鉄砲足軽たちが、故郷の氏神を勧請して建立したものだ。社殿は小ぶりながらも端正で、境内には今も地域の人々が手を合わせに訪れる姿がある。
古代から続く歌枕「信夫山」
私はこの神社を訪れた後、どうしてもその“本家”にあたる場所を見てみたくなった。そこで向かったのが、福島市にある信夫山(しのぶやま)だった。信夫山は市街地の中心に位置し、標高275メートルの小高い山だが、古くから信仰の対象とされてきた。山全体が神域とされ、山中には信夫三山神社をはじめとする複数の社が点在している。
山頂に立つと、眼下には福島市街が一望できた。紅葉が始まりかけた木々の間から、かつての信夫の里が広がっていた。ここが、三百人町の名の由来となった地。彼らがこの山を見上げ、信仰を捧げていたことを思うと、胸が熱くなった。
信夫という地名は、古代から和歌に詠まれてきた歌枕でもある。たとえば『古今和歌集』や『新古今和歌集』には、「忍ぶ恋」を詠んだ歌が数多く残されている。中でも有名なのが下記の歌だ。
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに みだれそめにし我ならなくに
河原左大臣・源融『古今和歌集』
この歌は、陸奥国・信夫の里で作られたとされる「しのぶ摺り」という染物の乱れ模様に、恋心の乱れを重ねたもの。訳すなら、「陸奥の信夫もじ摺りのように私の心は乱れていますが、いったい誰のせいで乱れ始めたというのでしょう。私ではありません」といった意味になる。
「しのぶ摺り」は、忍草(しのぶぐさ)を染料にして石に塗り、それを布に転写する技法で、乱れ模様が特徴的だったという。信夫の里はこの染物の名産地とされ、やがて「乱れ」「忍ぶ恋」の象徴として和歌に詠まれるようになった。
私はこの歌を、信夫山の風に吹かれながら静かに口ずさんだ。武士たちが仙台に移住する際、故郷の信夫を町名に刻み、氏神として信夫神社を祀ったのは、ただの地理的な記憶ではない。それは、忍ぶ心——恋や忠義、故郷への想いを静かに抱きながら生きるという、日本人の美意識そのものだったのではないか。
信夫山の空は澄み渡り、遠くに阿武隈川がきらめいていた。歌枕の地に立ち、私は三百人町という地名の奥に、恋と忠義が重なり合う文化の深みを感じていた。
参考
小倉山荘「信夫の里 - 小倉山荘」
特定非営利活動法人ストリートふくしま「その11 信夫山は恋の山」「その81 信夫山は恋の山(その3)」
宮城県神社庁「信夫神社(しのぶじんじゃ)」
所在地:〒960-8252 福島県福島市御山早坂山
まとめ
三百人町——その名には、江戸時代初期に福島・信夫から仙台へ移住した鉄砲足軽300人の記憶が刻まれている。彼らは、故郷の氏神である信夫神社を町の守り神として勧請し、町名にその名を残した。地名とは、単なる地理的なラベルではなく、人の移動と信仰、そして文化の記憶を映す鏡なのだ。
実際に三百人町を歩いてみると、五橋や連坊、木ノ下といった古い地名が並び、仙台箪笥や御筆といった伝統工芸が今も息づいている。町の空気には、かつての武士たちの暮らしと誇りが静かに漂っていた。
さらに私は、町の氏神である信夫神社を訪れ、福島市の信夫山にも足を運んだ。信夫山から見下ろす福島の街は美しく、古代から歌枕として詠まれてきた「信夫の里」の面影が確かに残っていた。和歌に詠まれる「忍ぶ恋」の象徴としての信夫。その地名を町の名に刻んだ武士たちの心には、故郷への想いと忠義が交差していたのだろう。
三百人町は、ただの町名ではない。それは、文化と信仰、そして人の心の記憶が重なり合った“語る地名”である。私はこの町を歩きながら、地名が語る物語に耳を澄ませていた。
