【宮城県加美町】蝦夷文化を訪ねてin東山官衙遺跡・薬莱山

「蝦夷(えみし)」という言葉を初めて聞いたのは、小学校の社会科の授業だった。教科書には、東北地方に住んでいた“まつろわぬ民”と書かれていた。どこか野蛮で、朝廷に従わなかった人々という印象だけが残った。でも、あれから何十年も経って、加美町という土地に生まれ育った自分にとって、蝦夷はもう“遠い昔の異民族”ではない。むしろ、私たちの祖先の一部であり、この地を切り拓き、守り、育ててくれた人々なのではないかと思うようになった。

彼らは、中央の権力に従うことよりも、自分たちの暮らしと土地を守ることを選んだ。山を神とし、川を神とし、自然と共に生きることを尊んだ。その姿勢は、今の私たちが忘れかけている“土地と共にある暮らし”そのものだ。加美町に残る蝦夷の痕跡を辿ることで、私は自分のルーツを知りたいと思った。祖先の知恵と誇りを知ることは、今を生きる私たちの背骨になる。この旅は、教科書の外にある、私たち自身の物語を探す旅だ。

参考

宮城県公式|指定文化財〈史跡〉東山官衙遺跡
文化遺産オンライン|東山官衙遺跡

蝦夷とは 

蝦夷(えみし)とは、古代日本において東北地方を中心に暮らしていた人々を指す呼称である。大和朝廷の記録では「まつろわぬ民」、つまり服従しない者たちとして描かれ、しばしば軍事的な征伐の対象とされた。だが、彼らは単なる反乱者ではない。統一された国家を持たずとも、地域ごとの族長に率いられ、狩猟や焼畑農業を中心とした独自の生活文化を築いていた。

彼らの暮らしは、自然との深い結びつきに根ざしていた。山や川、動物や植物に霊的な力を認め、祈りとともに生きる。形式的な権威よりも、自然の理(ことわり)に従って暮らすことを尊んだ。後の指導者であるアテルイに象徴されるように、彼らは自らの生活圏と自由を守るために、命をかけて抵抗した。朝廷の軍事力を長期間にわたって押し留めたその姿は、誇り高き祖先の証だ。

蝦夷は、征服されるべき対象ではなく、土地と共に生きる知恵と強さを持った人々だった。彼らの精神は、今も東北の風景の中に、そして私たちの暮らしの中に、静かに息づいている。

加美町とは

宮城県のほぼ中央に位置する加美町は、鳴瀬川の豊かな流れに育まれた大崎平野の一部であり、古くから肥沃な土地として知られている。薬莱山をはじめとする山々に囲まれ、四季折々の自然が美しいこの町は、今では静かな農村地帯としての顔を持つ。だが、古代においては、ここは歴史の交差点だった。

加美町は、朝廷が築いた多賀城から北進する支配ルートと、蝦夷の勢力圏がぶつかり合う軍事上の要衝だった。町内に残る東山官衙(ひがしやまかんがい)遺跡は、奈良時代に陸奥国賀美郡の役所として設けられた場所であり、同時に蝦夷の反抗に備えた城柵でもあった。朝廷はこの地に碁盤の目状の街並みを築き、支配の象徴として都市構造を持ち込んだ。

このような計画都市の痕跡は、加美町が単なる辺境ではなく、国家の最前線として重視されていたことを物語っている。支配と抵抗、そして開拓の歴史が凝縮されたこの土地に生きる私たちは、ただの住人ではない。祖先の記憶を受け継ぐ者として、この町の風景の中に、過去の重層的な物語を感じながら暮らしている。

1.加美町ー蝦夷地と朝廷の境界領域

加美町の風景を歩いていると、ふと「ここは本当に“辺境”だったのか?」と考えることがある。山があり、川があり、肥沃な土地が広がる。人が暮らすには十分すぎるほど豊かな場所だ。だが、奈良時代の朝廷にとって、この地は“支配の限界”であり、“抵抗の最前線”だった。

古代の文献には、蝦夷の存在がはっきりと記されている。たとえば『続日本紀』延暦8年(789年)条には、蝦夷の大規模な反乱と、それに対する征討の記録がある。

「陸奥按察使紀古佐美、蝦夷を討つ。大敗して兵三百八十五人を失う」(『続日本紀』巻第三十六)

陸奥按察使「紀古佐美」

奈良時代末期、東北の地において蝦夷の抵抗が激化する中、朝廷は陸奥国の統治と征討を担う役職「陸奥按察使(むつあぜち)」を設けた。その任に就いたのが、紀古佐美(きのこさみ)である。彼は紀氏という有力な貴族出身で、軍事と行政の両面で東北経営を任された人物だった。

延暦8年(789年)、古佐美は蝦夷征討のために大軍を率いて北上する。だが、岩手県胆沢地方で蝦夷の指導者アテルイらの巧みな戦術に遭い、朝廷軍は大敗を喫する。『続日本紀』にはその様子が簡潔に記されている。

朝廷、蝦夷を討つ。大敗して兵三百八十五人を失う

この記述は、蝦夷が単なる局地的な反抗勢力ではなく、朝廷の正規軍を打ち破るほどの力を持っていたことを示している。彼らは、山間の地に拠点を築き、朝廷の進軍を食い止めた。加美町のような内陸の盆地は、まさにそうした抵抗の舞台だった可能性が高い。

国指定史跡「東山官衙」の実力

その証拠のひとつが、町内に残る国指定史跡「東山官衙(ひがしやまかんがい)遺跡」だ。ここは奈良時代、陸奥国賀美郡の役所として設けられた場所であり、同時に蝦夷の反抗に備えた軍事的な城柵でもあった。発掘調査では、掘立柱建物、土塁、溝、方形区画などが確認されており、朝廷がこの地に本格的な行政・軍事拠点を築いていたことが明らかになっている。

特に注目すべきは、政庁区画の構造だ。南北に走る大溝が東西を分け、政庁と倉庫群を明確に区分している。政庁区画には、板塀で囲まれた東西57メートル、南北52メートルの方形の区画があり、その内部には桁行5間、梁間2〜3間の掘立柱建物が配置されていた。中央の広場を囲むように北側に正殿、東西に脇殿が並ぶ──これは、律令制下の官衙の典型的な構成だ。

さらに、遺跡からは「館上」「上厨」などの墨書土器が出土しており、「上」の字が賀美郡を意味する可能性が高いとされている。これは、東山官衙が陸奥国賀美郡の中心的な政庁であったことを示す直接的な証拠だ。周辺からは多量の焼米も出土しており、正倉(米倉)としての機能を果たしていたことが裏付けられている。

これらの遺構と出土品の分析から、東山官衙遺跡は単なる地方役所ではなく、蝦夷との境界に位置する軍事的・行政的拠点として、朝廷が最大限の力を注いで築いた計画都市だったことがわかる。宮城県教育委員会の調査報告書(『東山官衙遺跡発掘調査報告書』1989年)でも、「多賀城に先行する郡衙として、東北地方における律令体制の成立を示す重要な遺跡」と位置づけられている。

東山遺跡/長者遺跡

〒981-4413 宮城県加美郡加美町鳥屋ケ崎

国指定史跡「東山官衙遺跡」へ

私はこの遺跡に立ったとき、風に揺れる草の向こうに、かつての城柵が立ち並び、役人たちが往来していた光景が浮かんだ。だがその背後には、山々に身を潜め、自然と共に生きながら、決して屈することなくこの地を守り続けた蝦夷の姿がある。彼らは、ただ抵抗したのではない。自分たちの暮らしと誇りを守るために、命をかけてこの地に立ち続けたのだ。

中央権力が最大の努力と資源を投じて築かなければならなかったこの官衙の存在は、加美町の祖先が暮らした地域が、容易に屈服しない、誇り高き蝦夷の勢力圏に接していたことの揺るぎない証拠だと思う。私たちは、ただの土地の住人ではない。支配と抵抗、そして開拓の歴史が凝縮された場所に生きる、歴史の継承者なのだ。


2. 加美町における「鬼」と「釜神」

加美町を歩いていると、民家の台所や蔵の入口に、奇妙な面を掲げた木札が目に入ることがある。眉間にしわを寄せ、目を見開き、口を大きく開けたその顔は、怒っているようでもあり、笑っているようでもある。見た目が怖く、一説では鬼を模していると言われている。

これは「釜神(かまがみ)」と呼ばれる、竈(かまど)を守る神様の面だ。火の神、台所の守り神として信仰されてきたこの存在は、加美町を含む宮城県北部に広く分布している。

だが、この釜神の面をじっと見ていると、ふとある人物の姿が重なってくる。蝦夷の英雄、阿弖流為(アテルイ)──そして、朝廷側の記録に残された「悪路王(あくろおう)」の面影だ。

蝦夷の指導者アテルイは、延暦8年(789年)に朝廷軍を撃退した人物として『続日本紀』に登場する。

「賊帥夷阿弖流為の居に至るころ、賊徒三百許人ありて、迎え逢いて、あい戦う」
「官軍戦死二十五人、矢のあたるもの二百四十五人、河に投じて溺死するもの千三十六人」

『続日本紀』巻第三十六

彼は胆沢地方(現在の岩手県)を拠点に、蝦夷の自由と土地を守るために戦った。だが、後世の記録では彼の名は「悪路王」として伝えられ、鬼のような存在として描かれることがある。

「これ田村麻呂利仁将軍綸命を奉じて征夷の時、賊主悪路王ならびに赤頭等塞を構える岩屋なり」

『吾妻鏡』文治5年(1189年)

このように、朝廷側の記録ではアテルイは「賊帥」として登場し、後世の伝承では「鬼」や「悪路王」として語られる。事実、隣町の大崎市鬼首の地名の由来として、悪路王の首が斬られた場所であると、一説で伝わってしまっている。

この「悪字(あくじ)」の文化──つまり、反乱者や抵抗勢力に対して、ネガティブな意味を持つ漢字を意図的に充てることで、記憶を操作する手法は、古代の朝廷においてしばしば用いられた。アテルイが「悪路王」とされ、蝦夷が「鬼」と結びつけられたのは、まさにその一例だ。

加美町の鬼の文化

だが、民間の信仰は、そうした権力のレッテル貼りとは異なる視点を持っていたのではないか。釜神の面相は、確かに「鬼」に似ている。だが、それは恐怖の象徴ではなく、守護の象徴として受け入れられている。台所という生活の中心を守る存在として、釜神は家族の暮らしを見守ってきた。

この逆転の構図──朝廷が「鬼」とした存在を、民衆が「神」として祀る──そこに、蝦夷の精神が静かに息づいているように思える。釜神の面は、怒りとも笑いともつかない表情をしている。だが、その顔には、反骨と慈愛が同居しているような不思議な力がある。加美町の民間信仰は、蝦夷の魂を静かに受け継いでいるのかもしれない。

参考

阿弖流為(アテルイ)|奥州市埋蔵文化財調査センターのホームページ(公式)

3. 「矢喰山」伝説と薬莱山

加美町の北部にそびえる薬莱山(やくらいさん)は、私にとって特別な山だ。子どもの頃、遠足で登った記憶がある。山頂から見下ろす大崎平野の広がり、風に揺れるススキ、どこまでも続く空──その風景は、今でも心に残っている。だが、大人になってからこの山にまつわる伝承を知ったとき、薬莱山は単なる“きれいな山”ではなく、土地の記憶を宿す存在なのだと気づいた。

伝説によれば、蝦夷征伐のために派遣された坂上田村麻呂が、涌谷の箟岳山から薬莱山に向けて放った巨大な矢が見つからず、山を「矢喰山(やぐいさん)」と名づけたという。矢を“喰った”山──つまり、矢を飲み込んでしまうほどの霊的な力を持つ山として語られている。

この話を初めて聞いたとき、私は思った。これは単なる地名の由来ではない。薬莱山が、時の権力者の力をも跳ね返す存在として語られていること──それは、この地の自然が持つ抵抗の力、そして蝦夷の精神を象徴しているのではないか。

所在地:〒981-4375 宮城県加美郡加美町味ケ袋薬来原2

薬莱山は、加美町の人々にとって、生活の背景にある山であり、祈りの対象でもある。山の神を祀る神社があり、春には山開き、秋には紅葉狩りと、季節ごとに人々が山と向き合う。だが、その関係は、ただのレクリエーションではない。山に入るときは、必ず神に挨拶をする。獲物を得たときは、感謝を捧げる──そうした習慣は、今も地域の祭礼や風習の中に息づいている。

蝦夷は、自然と共に生きる民だった。山や川に神を見出し、動物や植物に霊を認める。彼らにとって、自然は支配すべき対象ではなく、共に暮らす存在だった。薬莱山の伝承は、そうした蝦夷の自然観が、今もこの地に残っていることを示している。

坂上田村麻呂の矢が届かなかったという話は、蝦夷の地が、簡単には征服されない強さを持っていたことを物語っていると考えている。そしてその強さは、今も山の空気の中に、風の音の中に、静かに息づいている。

まとめ

蝦夷という言葉は、かつて教科書の中で“まつろわぬ民”として紹介されていた。だが、加美町の風景の中にその痕跡を探す旅を通して、私はその印象が大きく変わった。彼らは単なる反抗者ではなく、自然と共に生き、土地を守り、誇りを持って暮らした人々だった。東山官衙遺跡に残る計画都市の構造は、朝廷がこの地に最大限の力を注いで支配しようとした証であり、それは裏を返せば、加美の蝦夷がいかに強く、屈しなかったかを物語っている。

釜神の面に刻まれた表情、薬莱山に伝わる「矢喰山」の伝承──それらは、権力に抗いながらも、暮らしの中で祈りと誇りを守り続けた人々の記憶だ。加美町は、支配と抵抗、そして開拓の歴史が折り重なった場所であり、私たちが今立っているこの土地には、祖先の声が静かに響いている。

蝦夷の魂は、風景の中に、地名の中に、そして私たちの暮らしの中に、今も息づいている。それを知ることは、郷土の価値を再認識することであり、自分自身の根を見つめ直すことでもある。加美町は、私たちの誇りを思い出させてくれる場所だ。

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