【宮城県仙台市】地名「新弓ノ町」の読み方や由来・語源をたずねるin若林区・八幡神社・京都石清水八幡宮
仙台市若林区の一角に「新弓ノ町(しんゆみのまち)」という地名がある。地図を眺めていて偶然目に留まったその名に、私は不思議な引力を感じた。弓──武士の象徴であり、古代から神事にも用いられてきた道具。その名を冠した町には、何か特別な由来があるのではないか。そう思い、私は新弓ノ町を歩いてみることにした。
この町が成立したのは延宝6年(1678)頃。仙台藩の奉行・布施定安が藩主吉村の命を受け、弓足軽衆を新たに編成し、彼らの住まいとして町を割り出したのが始まりだという。定安は藩財政の再建に尽力した人物であり、藩恩に報いるために自らの加増分を返上して弓隊の設置を願い出たという逸話が残っている。
町内には、享保2年(1717)に京都・男山の石清水八幡宮から分霊を勧請した八幡神社が鎮座している。弓足軽衆の氏神として祀られ、境内の横にはかつて的場──弓の稽古場もあったという。私はその神社を訪ね、静かな境内で手を合わせた。
ふと、京都・男山の石清水八幡宮の記憶がよみがえった。私は今、京都に住んでいる。男山の麓にある八幡市は、日常の散歩道でもあり、何度も石清水八幡宮に参拝してきた。大崎八幡宮もまた、男山からの勧請によって生まれた社であり、宮城県民としての縁を感じずにはいられない。
新弓ノ町──そこには、武士の記憶と八幡信仰が交差する静かな時間が流れていた。
参考
仙台市「町名に見る城下町|仙台市」「第23集 仙台の由緒ある町名・通名 辻標のしおり」
所在地:〒984-0803 宮城県仙台市若林区
新弓ノ町の由来・語源
仙台市若林区の一角にある「新弓ノ町(しんゆみのまち)」は、延宝6年(1678)頃に成立した町である。その名が示す通り、弓にゆかりのある町であり、かつては仙台藩の弓足軽衆が住んでいた。町の北は八軒小路、南は南材木町に接し、現在は住宅街として静かな佇まいを見せているが、その地名には藩政時代の記憶が色濃く刻まれている。
この町を作ったのは、仙台藩の奉行・布施定安(ふせ・さだやす)である。藩主・伊達吉村の命を受け、藩の財政再建に尽力した定安は、加増された石高を返上し、その分をもって弓足軽三十四人を新たに編成し、町を割り出した。町の東端には長方形の「的場(まとば)」が設けられ、日々の稽古が行われていたという。
「新弓ノ町」という地名は、単なる地理的な名称ではない。それは、藩の防衛を担った弓足軽たちの存在と、彼らを支えた町の機能をそのまま映し出している。武士の町としての誇りと、藩政の中での役割が、地名というかたちで今に伝えられているのだ。
新弓ノ町の八幡神社を訪ねる
新弓ノ町を歩いていると、町の一角にひっそりと佇む八幡神社に出会う。この神社は、享保2年(1717)に京都・男山の石清水八幡宮から分霊を勧請して創建されたもので、弓足軽衆の氏神として祀られてきた。境内はこぢんまりとしているが、どこか凛とした空気が漂っており、かつての武士たちの祈りが今もそこに息づいているように感じられる。
境内の一角には「布施大明神」と刻まれた石碑がある。これは、町の創設者である布施定安を祀ったもので、彼の恩に報いるため、町の人々が神として祀ったものだという。定安の死後も、町の人々はこの神社を守り続け、年々の祭礼を絶やすことなく続けてきた。
私はこの神社に手を合わせながら、ふと自分の暮らす京都・男山の風景を思い出していた。石清水八幡宮は、私にとって日常の中にある特別な場所だ。御神宝として御弓矢を奉納する石清水八幡宮は、地元の方からは弓矢八幡宮とも呼ばれている。参道を登り、社殿にたどり着くたびに、心が静まるのを感じる。まさか仙台の町に、あの男山から分霊された神社があるとは──その偶然に、私は不思議な縁を感じずにはいられなかった。
石清水八幡宮 | iwashimizu-hachimangu(@iwashimizuhachimangu_grace)がシェアした投稿
さらに思い出されるのは、仙台市青葉区にある大崎八幡宮もまた、男山八幡宮からの勧請によって創建されたという事実だ。宮城県内に広がる八幡信仰の源流が、今自分の暮らす土地にあること。そのことに気づいたとき、私は土地と信仰がつなぐ見えない糸の存在を感じた。
新弓ノ町の八幡神社は、単なる町の鎮守ではない。それは、武士たちの誇りと祈り、そして京都と仙台を結ぶ精神的な架け橋でもあるのだ。
新弓ノ町八幡神社
所在地:〒984-0803 宮城県仙台市若林区新弓ノ町50
参考:宮城県神社庁
布施定安とは
新弓ノ町の成立に深く関わった布施定安は、仙台藩の中興の祖とも称される名奉行である。正保4年(1647)に生まれ、伊達綱村・吉村の二代に仕えた。特に吉村の側近として藩財政の再建に尽力し、破綻寸前だった藩の立て直しに奔走した。
定安の政治手腕は、実務能力を重視する仙台藩の新たな人材登用の象徴でもあった。彼は藩主の信任を得て、郡奉行、評定役、若年寄を経て奉行に就任。その後、藩政の中枢で数々の改革を断行した。倹約令の発布、藩札の廃止、家中手伝金の徴収など、時に反発を受けながらも、藩の財政再建に尽くした。
その中で生まれたのが、新弓ノ町である。定安は、藩主から加増された石高を返上し、その分をもって弓足軽三十四人を新たに編成し、町を割り出した。町の東端には的場が設けられ、日々の稽古が行われた。これは、藩の防衛体制を強化するための実践的な施策であり、定安の先見性と責任感の表れでもあった。
晩年、定安は病を理由に隠居し、仙台城東北の小泉村に庵を構えて「七雨軒」と号した。その地には光明寺の塔頭・龍雲庵を建立し、没後は夫婦ともにそこに葬られた。町内の八幡神社には、彼を祀る「布施大明神」が今も静かに佇んでいる。
布施定安は、ただの町づくりの名手ではない。藩政の中枢で改革を断行し、町の防衛と信仰の基盤を築いた人物である。新弓ノ町を歩くとき、その名もなき弓足軽たちの暮らしとともに、定安のまなざしが今も町を見守っているように感じられる。
参考
東北大学期間リポジトリ「仙台藩の陪臣」「近棋大名の強 村の」
日本文化研究所研究報告別巻第四集 東北大学日本文化研究所 1966年3月「晴宗公采地下賜録」とその考察(豊田武、加藤優)、p.198。
「伊達世臣家譜」巻之六、布施。
まとめ
新弓ノ町という地名には、仙台藩の歴史と信仰が静かに息づいている。延宝6年(1678)、藩奉行・布施定安が藩主吉村の命を受け、弓足軽衆を新たに編成し、町を割り出したことが始まりだった。定安は藩財政の再建に尽力した人物であり、加増された石高を返上して弓隊の設置を願い出たという逸話は、武士としての誠実さと献身を物語っている。
町内に鎮座する八幡神社は、享保2年(1717)に京都・男山の石清水八幡宮から分霊を勧請したもの。弓足軽衆の氏神として祀られ、境内の横にはかつて的場があり、弓の稽古が行われていたという。私はその神社を訪ね、静かな境内で手を合わせながら、弓という武具が持つ精神性と、八幡信仰の深さに思いを馳せた。
そして、京都・男山の記憶がよみがえった。私は今、男山の麓に住んでいる。石清水八幡宮は日常の散歩道でもあり、何度も参拝してきた。仙台市内にある国宝・大崎八幡宮もまた、男山からの勧請によって生まれた社であり、宮城県民としての縁を感じずにはいられない。いつの間にか、私はその源流の地に住み、日々参拝するようになっていた。
新弓ノ町を歩きながら、私は土地と信仰がつなぐ不思議な縁を感じていた。弓足軽の記憶、八幡信仰の広がり、そして京都と仙台を結ぶ目に見えない糸──それらが、この町の空気に静かに溶け込んでいた。
地名とは、ただのラベルではない。それは、土地に刻まれた記憶であり、祈りのかたちだ。新弓ノ町には、武士の誠実さと八幡のまなざしが、今も静かに息づいている。
