【宮城県加美町】幻の磁器「切込焼」の読み方・由来や特徴をたずねるin切込焼資料館

宮城県北西部、薬莱山を望む加美町宮崎地区。田川と澄川が合流する丘陵の裾に、かつて炎を上げ続けた窯跡が眠っている。ここで焼かれていたのが「切込焼(きりごめやき)」だ。江戸後期から明治初期にかけて栄えた磁器であり、伊達藩の御用品として藩主に献上される一方、庶民の日常を支える雑器としても広く用いられた。

私は今回、加美町ふるさと陶芸館「切込焼資料館」を訪ねた。館内に足を踏み入れると、白地に藍色の染付が施された茶碗や徳利が整然と並び、往時の息吹を今に伝えていた。展示室の一角には、窯跡から出土した磁器片や陶石が置かれ、土と炎が織りなした歴史の断片が静かに語りかけてくる。

切込焼は明治10年代に廃窯となり、一度は歴史から姿を消した。しかし平成2年(1990)、町おこしの一環として復興が試みられ、再び窯に火が入れられた。現在は三浦陶房がその伝統を受け継ぎ、現代の暮らしに寄り添う器を生み出している。

切込焼の魅力は、決して華美ではない。灰色がかった胎土に描かれる藍の文様は、素朴で温かみがあり、どこか東北の風土を映しているように感じられる。資料館を歩きながら、私は「器は土地の記憶を宿す」という言葉を思い出した。切込焼はまさに加美町の歴史と暮らしを映す器であり、町の人々の誇りそのものなのだ。

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参考

宮城県「宮城の伝統的工芸品/切込焼

加美町「切込焼とは

所在地:〒981-4401 宮城県加美郡加美町宮崎切込一番

切込焼の由来と歴史

「切込焼(きりごめやき)」という名称は、加美町宮崎地区の切込という地名に由来する。澄川と田川の合流地に広がるこの地は、良質な陶石が採れる土地であり、江戸後期に窯が築かれた。創始については諸説あるが、最古の作例は天保6年(1835)の「染付石榴文湯呑茶碗」とされている。

切込焼は伊万里焼の技術を導入して発展し、仙台藩の御用窯として藩主に献上する上質な磁器を焼く一方、庶民向けの日用雑器も大量に生産した。つまり、切込焼は「御用品」と「雑瀬戸」という二つの顔を持っていたのである。

その歴史は大きく三期に分けられる。第Ⅰ期(1830年代)は白い胎土に藍で文様を描いた素朴な器が中心で、重ね焼きをせず一つひとつ丁寧に焼かれていた。第Ⅱ期には瑠璃釉や鉄釉が登場し、竜などの力強いモチーフが増える。第Ⅲ期(1860年代)には灰色がかった胎土に透明感のある青で文様を描き、量産を意識した粗製品も増えた。

しかし明治10年代、時代の変化とともに窯は廃絶する。大正期に一度再興が試みられたが成功せず、切込焼は「幻の磁器」と呼ばれるようになった。だが平成2年(1990)、旧宮崎町が町おこしの一環として復興を決断。切込焼資料館を設立し、伝統を現代に蘇らせた。

切込焼の歴史は、土地の名を冠した器が地域の誇りとなり、時代を超えて再び息を吹き返した物語でもある。

参考

かみたび「ふるさと陶芸館 | kami-tabi(かみたび)

切込焼の特徴と魅力

切込焼の魅力を一言で表すなら、「素朴さと藍の美」である。展示室に並ぶ器を見渡すと、白地に藍色で描かれた染付磁器が圧倒的に多い。松や菊、唐草、龍といった文様が、時に大胆に、時に繊細に描かれ、器の表情を豊かにしている。

有田焼のような純白の磁肌ではなく、やや灰色がかった胎土に描かれる藍は、どこか温かみを帯びている。完璧な白さではないからこそ、東北の風土に根ざした素朴さが感じられるのだ。器を手に取ると、厚みのある生地と藍の発色が調和し、日常の食卓に寄り添う力強さを持っていることがわかる。

代表的な作品のひとつが「らっきょう徳利」である。丸みを帯びた独特の形に、蛸唐草文が藍で描かれた姿は、切込焼を象徴する存在だ。また、三彩輪花小皿のようにトルコ青や茄子紺を用いた多彩な表現もあり、「東北陶磁の華」と称される所以となっている。

さらに、切込焼の絵付けは簡素で素朴なものが多い。輪郭を取らず、筆を走らせるように描かれた山水文や花文は、技巧を誇るというよりも、日常に寄り添う器としての親しみやすさを感じさせる。そこには「わびさび」の美意識が宿っている。

切込焼は、華美ではないが、確かな存在感を放つ器だ。藍の文様と素朴な胎土が織りなす調和は、加美町の自然や人々の暮らしを映し出している。資料館で器を前にしたとき、私は「この土地の空気をそのまま焼き込んだ器だ」と感じた。切込焼の魅力は、まさにその土地性にあるのだ。

参考

東北学院大学博物館「“KOREMITE-東北学院大学博物館収蔵資料図録-Vol.1

切込焼資料館を訪ねる

加美町宮崎地区の小高い丘を背に、静かに佇む「加美町ふるさと陶芸館・切込焼資料館」。館の前に立つと、杉木立の奥に眠る古窯の気配が漂ってくるようで、ここがかつて炎を上げ続けた土地であることを実感する。館内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは白地に藍で描かれた染付の器たち。茶碗、徳利、小皿──どれも素朴でありながら、確かな存在感を放っている。

展示室には、江戸後期から明治初期にかけて焼かれた切込焼の代表作が並ぶ。らっきょう徳利の丸みを帯びた姿は愛嬌があり、蛸唐草文が藍で描かれたその表情は、日常の中に華やぎを添えていたことを想像させる。三彩輪花小皿は、トルコ青や茄子紺が混ざり合い、東北陶磁の華と称されるにふさわしい鮮やかさを見せていた。

一角には、窯跡から出土した磁器片や陶石、鉱物資料が展示されている。欠片となった茶碗の破片を見つめていると、かつての職人たちが土を練り、炎と格闘しながら器を生み出していた姿が浮かんでくる。郷土史家・猪股哲夫氏が収集したコレクションや、考古学者・芹沢長介氏(父は人間国宝の型染家の芹沢銈介氏)の審美眼で選ばれた作品群も加わり、切込焼の全貌を立体的に理解できるのがこの資料館の魅力だ。

切込焼は明治に廃窯となり、一度は歴史から姿を消した。しかし平成2年(1990)、町おこしの一環として復興が試みられ、再び窯に火が入れられた。現在は三浦陶房が伝統を受け継ぎ、現代の暮らしに合う器を生み出している。展示室の最後に並ぶ現代の切込焼は、古窯の記憶を背負いながらも新しい息吹を感じさせ、過去と現在が交差する瞬間を体験できた。

資料館を後にするとき、私は「器は土地の記憶を宿す」という言葉を思い出した。切込焼はまさに加美町の歴史と暮らしを映す器であり、復興の炎は今も静かに燃え続けている。

参考

加美町「芹沢長介コレクション展示室 open!」「切込・伝世の美

所在地: 〒981-4401 宮城県加美郡加美町宮崎切込三番2
電話番号: 0229-69-5751

実際に歩いた加美町の風景

資料館を出て、加美町の町並みを歩いてみた。中新田の通りに足を踏み入れると、古い商家や蔵造りの建物が軒を連ね、かつての宿場町の面影を色濃く残していた。格子戸越しに差し込む光や、黒漆喰の壁に刻まれた時間の痕跡が、町の歴史を静かに物語っている。加美町は火伏せの虎舞や日本刀の製造技術で製作する中新田打刃物など伝統が根付くまちだ。

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さらに歩を進めると、古代の遺跡に出会う。加美町一帯は大和朝廷の支配が及んだ時代から蝦夷の人々が暮らしていた土地であり、遠見塚古墳や周辺の古墳群にその痕跡が残る。田畑の中にぽつりと残る墳丘を眺めていると、千年以上前の人々の営みが確かにここにあったことを実感する。蝦夷と大和の文化が交わり、やがて伊達藩の城下町文化へとつながっていった歴史の層の厚さに、思わず足を止めた。

町の中心部には、今も地元の人々が集う商店街があり、古い町並みと現代の暮らしが自然に溶け合っている。地元の方に声をかけると、「切込焼は昔は生活の器だったんですよ」と笑顔で語ってくれた。器は単なる工芸品ではなく、日常の中で使われ、家族の記憶を刻む存在だったのだ。

加美町の風景を歩くと、古代から近世、そして現代へと続く時間の流れを肌で感じることができる。中新田の町並みは江戸から明治の商業の息吹を伝え、古墳や遺跡はさらに古い時代の記憶を呼び覚ます。そして切込焼は、その歴史の中で人々の暮らしを支え、今もなお復興の炎を灯し続けている。

この町を歩くことは、単なる観光ではなく、歴史の層を一つひとつ踏みしめる旅だった。

まとめ

切込焼は、加美富士で有名な薬莱山のふもと宮城県加美町の地名を冠した磁器である。江戸後期に誕生し、伊達藩の御用品として藩主に献上される一方、庶民の日常を支える雑器としても広く用いられた。白地に藍で描かれる染付を中心に、瑠璃釉や三彩など多彩な表現を見せ、素朴で温かみのある器として人々に親しまれてきた。

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しかし明治10年代に廃窯となり、一度は歴史から姿を消す。大正期に再興が試みられたが成功せず、切込焼は「幻の磁器」と呼ばれるようになった。それでも平成2年(1990)、町おこしの一環として復興が果たされ、切込焼資料館が設立された。現在は三浦陶房が伝統を受け継ぎ、現代の暮らしに寄り添う器を生み出している。

切込焼の魅力は、華美ではなく素朴さにある。灰色がかった胎土に描かれる藍の文様は、東北の風土を映し出し、日常の食卓に温かみを添える。器を通じて土地の記憶が伝わり、歴史と暮らしが一体となっていることを実感できる。

加美町を歩けば、中新田の古い町並みや古代の遺跡が今も残り、歴史の層の厚さを感じることができる。その中で切込焼は、人々の暮らしを映す器として、過去と現在をつなぐ役割を果たしている。

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切込焼は単なる工芸品ではなく、加美町の歴史と文化を体現する存在だ。器を手に取ることは、この土地の記憶に触れることでもある。切込焼を訪ねる旅は、加美町そのものを知る旅にほかならない。

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