【宮城県仙台市】地名「作並」の読み方や由来・語源をたずねるin青葉区作並温泉一の坊・定義山・作並こけし
地名は土地の記憶を編み込んだ器である。そこには自然の姿や人々の営み、信仰や文化が折り重なり、時代を超えて伝えられてきた物語が宿っている。宮城県仙台市青葉区の山間に位置する「作並(さくなみ)」もまた、その一つである。読み方は一見して難しく、旅人を戸惑わせるが、そこにこそ地名の奥深さが潜んでいる。
作並は、仙台市街から車で40分ほど、関山街道沿いに広がる温泉地として知られる。広瀬川の渓谷に沿って旅館が並び、古くから「仙台の奥座敷」と呼ばれてきた。開湯は奈良時代に遡り、行基が発見したと伝えられるほか、源頼朝が奥州合戦の折に兵馬を休めたという伝承も残る。江戸時代には伊達家の庇護を受け、湯治場として栄えた。
また、作並は温泉だけでなく、こけしの産地としても知られる。素朴で力強い「作並こけし」は、正岡子規や土井晩翠といった文人たちが訪れた際に愛でたと伝えられ、土地の文化を象徴する存在となっている。
私は今回、この「作並」という地名の由来を探り、実際に温泉に浸かりながらその意味を体感する旅に出た。広瀬川の流れと渓谷の風景、そして温泉に身を委ねることで、地名が語る物語に触れることができるのではないかと考えたのである。
参考
宮城県観光連盟「作並・定義」
作並の読み方と由来語源
「作並」は「さくなみ」と読む。難読地名の一つとして知られるが、その語源については一次資料に乏しく、確定的な説は存在しないようだ。ここで述べるのは、あくまで郷土史関連書籍やインターネット上で紹介されている情報を整理したものである。
第一に挙げられるのは、広瀬川の流れに由来する説である。作並温泉は広瀬川の渓谷に沿って発展した温泉地であり、川幅が狭く急流が続くため、川面には絶えず波が立つ。その様子を「作られる波=作並」、もしくは作=狭で「狭い谷間の波が見える川=作並」と表現したのではないかとされる。実際、温泉街を歩くと川音が絶えず響き、谷間に波が立つような景観が広がっている。
第二に、開拓に由来する説がある。山間の未開地を切り開き、田畑を「作り」ながら集落を「並べ」ていったことから「作並」と呼ばれるようになったという。人々が自然と向き合いながら暮らしを築いた歴史を映す説である。
第三に、宿場町としての役割に関わる説もある。江戸時代、作並は関山街道の宿場町として栄え、旅人や商人が行き交った。街道沿いに家々が「並ぶ」様子が地名に反映された可能性もある。
いずれの説にしても、作並という地名は自然の地形と人々の営みが重なり合って生まれたものだといえる。川の波、開拓の歴史、宿場の賑わい──それらが一つの言葉に凝縮されているのである。
作並温泉と伊達家の関係
作並温泉は「仙台の奥座敷」と呼ばれ、古くから伊達家との関わりが深い温泉地である。開湯の伝承は奈良時代にまで遡り、行基が発見したとされるほか、源頼朝が奥州合戦の折に兵馬を休めたという逸話も残る。しかし、温泉が本格的に整備されるのは江戸時代後期、寛政8年(1796年)のことであった。地元の岩松喜惣治が仙台藩に願い出て、藩主・伊達斉村の許可を得て開湯に至ったと伝えられている。
伊達家はその後も作並温泉を庇護し、藩主や家臣が湯治に訪れた記録が残る。温泉は単なる療養の場ではなく、藩政を担う人々にとって心身を癒す重要な場であった。特に広瀬川沿いの湯は「かくし湯」とも呼ばれ、藩主が密かに利用したとも伝えられている。
また、作並温泉は文化人にも愛された。正岡子規や土井晩翠といった文人が訪れ、温泉に浸かりながら句や詩を残したことはよく知られている。伊達家の庇護によって温泉地としての基盤が整えられたからこそ、後世の文化人が訪れる舞台が生まれたといえるだろう。
今日、作並温泉は「美女づくりの湯」として親しまれ、宿泊施設や日帰り入浴施設が整備されている。その背景には、伊達家が守り育てた歴史がある。作並温泉を訪れることは、単に湯に浸かるだけでなく、伊達家の歴史と文化を体感する旅でもあるのだ。
参考
せんだい旅日和「作並温泉 | 【公式】仙台観光情報サイト」
作並温泉旅館組合「作並温泉の魅力」
作並温泉をたずねる
仙台駅から国道48号を西へ進むと、やがて山あいに広瀬川の流れが見えてくる。この広瀬川沿いに旅館が点在する一帯が、作並温泉である。私はその中でも名宿として知られる「作並温泉 一の坊」を訪ねた。
館内を抜け、露天風呂へと向かう。そこに広がっていたのは「鹿のぞきの寝湯」と呼ばれる名物の湯であった。50メートル以上の崖沿いの谷間に設けられた湯船は、まるで川と一体化するかのように広瀬川のすぐそばにある。寝転ぶように湯に身を沈めると、目の前には激しい流れが広がり、自分が谷間の広瀬川の中にいて、崖の上から鹿が覗き込んでくるような錯覚に陥る。
川音は絶え間なく響き、森から流れ込む水が一気に川へ注ぎ込み、白い波を立てていた。その光景を眺めながら、私は「作並」という地名の由来を思い出した。狭い渓谷に水が集まり、波が作られる──まさに「作並」という言葉がそのまま風景となって目の前に広がっていた。
湯に浸かりながら、伊達家の殿様もこの湯に身を委ねたという伝承を思い浮かべた。戦や政務に追われた日々の中で、広瀬川のせせらぎに耳を傾け、心身を癒したのだろう。温泉は単なる湯治場ではなく、自然と人を結ぶ場であり、歴史を紡ぐ舞台でもあった。
湯上がりには、作並こけしの工房を訪ねた。素朴で力強い木地人形は、温泉地に集う人々の手によって育まれた文化である。正岡子規や土井晩翠といった文人もこの地を訪れ、こけしに魅せられたと伝えられる。湯と文学、工芸が交差する場所としての作並の姿がそこにあった。
さらに足を延ばして定義山西方寺を訪れると、行基が開湯したと伝えられる歴史が今も息づいていることを実感した。門前町には参拝客が行き交い、名物の三角油揚げを頬張る人々の姿があった。温泉と信仰、そして日常の暮らしが重なり合う風景は、作並という土地の奥行きを物語っていた。
作並温泉一の坊で体感した鹿のぞき寝湯の迫力、こけしの素朴な美しさ、定義山の信仰の厚み──それらすべてが「作並」という地名の意味を立体的に浮かび上がらせていた。地名は単なる記号ではなく、自然と人々の営みを映す言葉である。そのことを、私は作並の湯に浸かりながら深く実感したのである。
まとめ
作並という地名を辿る旅は、単なる難読地名の解読ではなく、土地の自然と人々の営みを重ね合わせて理解する試みであった。広瀬川の渓谷に沿って「波が作られる」風景、山間を切り開いて集落を「並べ」た歴史、そして宿場町として人々が往来した記憶──それらが「作並」という言葉に凝縮されている。一次資料に乏しいため確定的な語源は示せないが、複数の説を照らし合わせることで、この地名が自然と文化の交差点であることが浮かび上がってきた。
実際に作並温泉一の坊を訪れ、鹿のぞき寝湯に身を沈めたとき、私はその由来を身体で理解した。崖沿いの谷間に広瀬川が流れ込み、激しい波を立てる光景は、まさに「作並」の名を体現していた。伊達家の藩主が湯治に訪れた歴史や、正岡子規や土井晩翠といった文人がこの地を愛した背景も、自然と人との距離感が生み出す独特の魅力にあったのだろう。
さらに、作並こけしや定義山西方寺といった文化的要素も、この土地の奥行きを形づくっている。温泉、信仰、工芸、文学──それぞれが重なり合い、作並という地名に厚みを与えている。
作並を訪ねることは、地名を通じて土地の記憶と文化を辿る旅である。川音と湯気、こけしの素朴な姿、寺院の祈り──それらすべてが「作並」という言葉の中に息づいている。難読地名を探訪することは、地域の新しい魅力を発見し、宮城の文化の奥深さを再認識する行為でもあるのだ。
