【宮城県仙台市】大きさ県内2位「遠見塚古墳」、東北屈指の大古墳は誰の墓?被葬者や出土品は?若林区・遠見塚二丁目東公園をたずねる

仙台市若林区の住宅街を歩いていくと、突然目の前に広がる緑の丘がある。それが「遠見塚古墳」だ。墳丘長約110メートル、後円部の高さ6.5メートルを誇る前方後円墳で、宮城県内では名取市雷神山古墳に次ぐ第2位、東北地方でも第5位の規模を持つ。国道4号仙台バイパスが前方部を横切っているため、現代の交通と古代の遺跡が交差する不思議な光景を目にすることができる。

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この地は古代から肥沃な仙台平野の中心であり、広瀬川の流れが運んだ土砂によって形成された自然堤防の上に立地している。稲作に適した土地は弥生時代から人々の生活を支え、南小泉遺跡などの集落跡が周辺に広がっている。古墳時代前期には、この豊かな土地を基盤に強力な首長が現れ、広域的な支配を行った。その象徴が遠見塚古墳である。

現地を訪れると、墳丘の大きさに圧倒されるだけでなく、史跡公園として整備された空間が市民の憩いの場となっていることに気づく。桜や緑に囲まれ、子どもたちが遊び、散歩する人々が行き交う風景は、古代の権力者の墓が現代の暮らしに溶け込んでいることを示している。雷神山古墳と並んで県内最大級の古墳がこの地域に存在することは、仙台平野が古代から政治的・経済的に重要な拠点であったことを物語る。

遠見塚古墳を歩くと、古代の首長が見渡したであろう平野の景色と、現代の街並みが重なり合う。伊達政宗が院政を行った若林城跡も近くにあり、古代から近世まで「支配者の拠点」として選ばれ続けた土地の連続性を感じる。仙台平野の肥沃な大地、広瀬川の流れ、そして大和政権との関係を示す前方後円墳の形態。すべてがこの地の歴史的必然を語っている。遠見塚古墳を訪ねることは、宮城の古代史を体感し、土地の記憶に触れる旅であった。

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参考

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宮城県「指定文化財〈史跡〉遠見塚古墳 - 宮城県公式ウェブサイト

所在地:〒984-0823 宮城県仙台市若林区23

遠見塚古墳とは

遠見塚古墳は、仙台市若林区遠見塚に位置する前方後円墳である。墳丘長約110メートル、後円部径63メートル、高さ6.5メートルを測り、宮城県内では雷神山古墳に次ぐ第2位、東北地方でも第5位の規模を誇る。築造は古墳時代前期の4世紀末から5世紀初頭と推定され、国の史跡に指定されている。

墳丘は後円部が二段築成で、周囲には馬蹄形の周溝が巡っていた。葺石や埴輪は確認されていないが、墳丘の規模から広域的な支配を行った首長の墓であることは明らかである。戦後には米軍の霞目飛行場拡張工事で後円部の北半分が削られるなど破壊の危機にさらされたが、1968年に国の史跡に指定され、保存整備が進められた。現在は史跡公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれている。

遠見塚古墳は、仙台平野中央部に築かれた大型前方後円墳として、同時期に築造された雷神山古墳と並び、古代東北の政治的中心を示す重要な遺跡である。

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誰の墓?被葬者は?

遠見塚古墳の被葬者は、仙台平野一帯を支配した豪族の首長と考えられている。後円部には竪穴墓壙が設けられ、その内部に粘土槨2基が据えられた。槨の内部には割竹形木棺が安置されていたと推定され、東槨からは管玉1点、ガラス小玉4点、黒漆塗竪櫛20点が出土している。これらは装身具としての副葬品であり、被葬者が社会的に高い地位を持っていたことを示している。

出土品は数こそ少ないが、墳丘の規模から見れば被葬者は広域的な支配権を持つ首長であったことは間違いない。前方後円墳という形態は、大和政権との関係を示唆しており、仙台平野が中央政権の影響下にあったことを物語る。周溝からは土師器が検出され、7世紀頃まで祭祀が行われていた痕跡も確認されている。

つまり遠見塚古墳は、古代東北における政治的中心地の象徴であり、被葬者は仙台平野を治めた有力首長であった。その存在は、名取市の雷神山古墳と並び、古代東北の広域支配構造を考える上で欠かせない証拠となっている。

参考

仙台市「遠見塚古墳 - 仙台市の遺跡」「古墳は物語る

名取市の雷神山古墳との関係

遠見塚古墳と名取市雷神山古墳は、宮城県内で第1位・第2位の規模を誇る前方後円墳であり、いずれも古墳時代前期(4世紀末〜5世紀初頭)に築造されたと考えられている。両者は仙台平野を挟んで南北に位置し、広瀬川名取川という二つの大河を境に対峙するように築かれている点が注目される。

研究者の間では、どちらが先に築かれたかについて諸説がある。遠見塚古墳が先行した場合は、この地を支配した首長が仙台平野の中心に権力を築き、その後に雷神山古墳がより大規模に築かれたと考えられる。一方で、雷神山古墳が先行または同時期に築かれたとすれば、遠見塚古墳は雷神山古墳に従属する首長の墓であった可能性もある。いずれにせよ、両古墳が同時期に存在することは、仙台平野が古代東北における政治的・経済的な中心地であったことを物語っている。

つまり、遠見塚古墳と雷神山古墳は、古代東北の広域支配構造を示す双璧であり、宮城県が古墳文化の北限における重要な拠点であったことを示す象徴的存在といえる。

参考

名取市「③雷神山古墳

出土品は?

遠見塚古墳の後円部からは、二つの粘土槨が確認され、そのうち東槨から副葬品が出土している。出土品は、碧玉製の管玉1点、ガラス製の小玉4点、黒漆塗りの竪櫛(たてぐし)20点である。これらは装身具や髪飾りとして用いられたもので、被葬者が高い身分を持つ人物であったことを示している。

また、周溝からは土師器(はじき※素焼きの土器のこと)が検出されており、築造後の7世紀頃まで祭祀が行われていた痕跡がある。これは、古墳が単なる墓ではなく、祖先崇拝や共同体の祭祀の場として機能していたことを示唆している。出土品の数は規模に比べて少ないが、それは被葬者の権力が武力や財宝ではなく、土地支配や農業生産力に基づいていたことを物語っているのかもしれない。

参考

文化遺産オンライン「遠見塚古墳 - 文化遺産オンライン

遠見塚古墳を訪ねる

実際に遠見塚古墳を訪ねてみると、まずその立地に驚かされる。仙台駅からほど近い若林区の住宅街に突如として現れる墳丘は、まるで時代の層を切り取ったかのように存在感を放っていた。国道4号バイパスが前方部を横切っているため、古代の遺跡と現代の交通が同居する光景は独特の迫力を持っている。

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墳丘に近づくと、緩やかな斜面が広がり、芝生や桜の木々に囲まれた史跡公園として整備されていることがわかる。春には桜が咲き誇り、花見を楽しむ人々で賑わうという。古代の首長の墓が、今では市民の憩いの場として親しまれていることに、土地の記憶の連続性を感じて胸が熱くなった。

墳丘の上に立つと、広瀬川の流れや仙台平野の広がりを望むことができる。肥沃な大地が眼下に広がり、古代の首長がこの地を支配した理由が直感的に理解できた。稲作に適した土地と水の恵み、そして交通の要衝としての地理的条件。これらが揃った仙台平野は、大和政権が北方に勢力を伸ばす上で重要な拠点であったに違いない。

また、若林区には伊達政宗が院政を行った若林城(古城)跡もあり、古代から近世に至るまで「支配者の拠点」として選ばれ続けた土地であることを実感する。遠見塚古墳と雷神山古墳という二つの巨大古墳が隣り合う仙台平野・名取平野に築かれたことは、仙台名取が古代東北の政治的中心であったことを如実に物語っている。

原っぱは草が伸び放題だったがそれが古代を感じれて逆に良い。雑草や植物は、水・土・日光があればどんなところでも生える。古代の古墳もきっとこうだったろう。現地を歩きながら、仙台平野を支配した古代の首長が見渡したであろう景色と、現代の街並みが重なり合う瞬間に立ち会えたことは、まさに「古代のロマン」を体感する経験だった。遠見塚古墳は、宮城の歴史を語る上で欠かせない場所であり、訪れる者に深い感慨を与えてくれる。

遠見塚二丁目東公園

所在地:〒984-0823 宮城県仙台市若林区遠見塚2丁目21

若林区の歴史的背景と地政学的意義

遠見塚古墳が築かれた仙台市若林区は、古代から近世に至るまで「支配者の拠点」として選ばれ続けた土地である。広瀬川が運んだ土砂によって形成された自然堤防の上に位置し、仙台平野の中央に広がる肥沃な大地は、弥生時代から稲作に適した環境を備えていた。南小泉遺跡をはじめとする集落跡からは、稲作の痕跡や鉄器、祭祀用具などが出土しており、この地域が早くから農業生産と祭祀を基盤にした共同体の中心であったことがわかる。

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古墳時代前期には、この豊かな土地を背景に強力な首長が現れ、遠見塚古墳を築いた。前方後円墳という形態は大和政権との関係を示唆し、仙台平野が中央政権の勢力圏に組み込まれていた可能性を物語る。さらに、名取市の雷神山古墳と並んで県内最大級の古墳が存在することは、この地域が古代東北における政治的・軍事的な要衝であったことを裏付けている。

時代が下って戦国期には、伊達政宗が若林城(古城)を築き、院政を行った。古代の首長が選んだ土地を、近世の大名もまた拠点としたことは、若林区の地政学的優位性を如実に示している。広瀬川の水運、仙台平野の生産力、そして外部勢力との接点としての地理的条件。これらが揃った若林区は、古代から近世に至るまで「権力を握る者が必ず目を付ける土地」であったといえるだろう。

まとめ

遠見塚古墳を訪ねる旅は、仙台平野の歴史的厚みを体感する時間であった。墳丘長110メートルという規模は、宮城県内で雷神山古墳に次ぐ大きさを誇り、古代東北における権力の象徴である。後円部に設けられた粘土槨からは、碧玉管玉やガラス小玉、黒漆塗竪櫛といった副葬品が出土し、被葬者が高い身分を持つ首長であったことを示している。

現地を歩くと、古墳の巨大さに圧倒されるだけでなく、史跡公園として整備され、市民の憩いの場となっていることに心を打たれる。桜の木々に囲まれ、子どもたちが遊び、散歩する人々が行き交う風景は、古代の権力者の墓が現代の暮らしに溶け込んでいることを示している。古墳の上に立ち、広瀬川と仙台平野を見渡すと、古代の首長がこの地を支配した理由が直感的に理解できる。

また、遠見塚古墳と雷神山古墳という二つの巨大古墳が同時期に築かれたことは、仙台平野が古代東北の政治的中心であったことを物語る。どちらが先に築かれたかは定かではないが、両者の存在は広域支配の証であり、大和政権との関係を示す重要な手がかりとなっている。

さらに、若林区には伊達政宗が院政を行った若林城跡があり、古代から近世に至るまで「支配者の拠点」として選ばれ続けた土地であることを実感する。肥沃な大地と水運の利、そして外部勢力との接点としての地理的条件。これらが揃った仙台平野は、古代から現代に至るまで人々を惹きつけてやまない。

遠見塚古墳は、単なる遺跡ではなく、古代のロマンと現代の暮らしが交差する場所である。訪れることで、宮城の歴史と文化の奥行きを体感し、土地の記憶に触れることができる。雷神山古墳とともに、遠見塚古墳は「東北の古代を語る鍵」であり、未来へと受け継がれるべき貴重な文化遺産である。

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