【宮城県】地名「亘理町」の読み方や由来・語源をたずねるin亘理城跡・四方山展望台
宮城県南部の亘理町を訪ねる旅は、地名の由来を探る小さな歴史散歩でもある。仙台から南へ約26キロ、太平洋と阿武隈川(あぶくまがわ)に抱かれたこの町は、冬は温暖で夏は海風が心地よく、暮らしやすい土地として知られている。町の中央には肥沃な水田地帯が広がり、周囲を住宅地が囲む田園都市の風景が続く。
「亘理(わたり)」という地名は、阿武隈川を渡る場所に由来すると伝えられている。川を「渡る地」=「わたり」と呼んだことが、町名の始まりである。古代の文献『続日本紀』には「曰理郡」として登場し、すでに奈良時代にはこの地名が記録されていた。時代を経て「曰理」から「亙理」、そして現在の「亘理」へと漢字表記が変遷していった。
今回私は亘理城跡、別名臥牛城跡・亘理要害跡を歩いた。伊達政宗の重臣・伊達成実が亘理伊達氏を率いて築いた城であり、城下町として栄えた亘理の歴史を今に伝えている。城跡に立つと、阿武隈川の流れと太平洋の広がりが一望でき、交通の要衝としての必然性を肌で感じることができた。地名の由来と城跡の歴史が重なり合い、亘理という町のアイデンティティを形づくっていることを実感する旅となった。
亘理町の読み方と由来・語源
亘理町の読み方は「わたりちょう」である。その由来は、阿武隈川の南岸に位置し、川を渡る場所として「わたり」と呼ばれたことにある。古代の交通の要衝であり、人々が川を渡る地点として認識されたことが地名に結びついた。
文献上の初見は奈良時代の『続日本紀』(718年)で、「曰理郡」として登場する。以後、地名の漢字表記は時代とともに変遷し、江戸時代には「亙理」と書かれるようになり、近世以降は現在の「亘理」と定着した。いずれも「わたり」と読むが、川を渡るという意味を持つ「亙」の字が使われたことから、交通の要衝としての性格が強調されていたことがうかがえる。
亘理町は江戸時代に亘理伊達氏の城下町として栄え、町の中心には亘理城が築かれた。地名の由来が川を渡る場所であることと、城下町としての歴史が重なり合い、亘理は古代から近世に至るまで地域の拠点であり続けたのである。
参考
レファレンス協同データベース「「わたり」(地名)の漢字表記が、「曰理」から「亘理」と変遷しているが、いつごろこのような変化が起きたのか知りたい。」
エンジョイ亘理「亘理町とは - Enjoy WATARI」
亘理城跡を訪ねる
亘理町を訪ねた際、最も印象的だったのは亘理城跡(臥牛城跡・亘理要害跡)である。慶長年間、伊達政宗の重臣である伊達成実が亘理城主となり、亘理伊達氏の拠点として城下町を築いた。城は阿武隈川の南岸に位置し、川と海を望む要害の地に築かれていた。臥牛城の名は、城の地形が牛が臥している姿に似ていることに由来するとされる。
城跡を歩くと、郭や堀の痕跡が残り、往時の姿を偲ばせる。特に印象的なのは、城跡の中心に鎮座する亘理神社である。明治12年(1879年)、亘理伊達家の居城跡に建立され、伊達成実公を武早智雄命として祀っている。境内には戊辰戦争や日露戦争、太平洋戦争の戦没者を慰霊する忠魂碑が並び、「亘理招魂社」とも呼ばれてきた。城跡と神社が重なり合うことで、亘理の歴史と人々の祈りが一体となっていることを強く感じる。
亘理神社は、単に伊達成実を祀る場ではなく、町の歴史そのものを体現する場所である。境内には郷土の発展に尽力した偉人の碑や銅像が建ち、亘理の人々が先人の功績を大切に受け継いできたことが伝わってくる。城跡を歩き、神社に参拝すると、地名「亘理」が川を渡る場所に由来することと、伊達氏の治世が町の基盤を築いたことが重なり合い、亘理という町のアイデンティティを実感できる。
亘理城下町は、伊達氏の支配のもとで商業や文化が栄え、今も町の随所にその風情が残っている。城跡を歩きながら、地名「亘理」が川を渡る場所に由来することを思い返すと、城と地名が一体となって町の歴史を形づくっていることに気づかされる。亘理城跡は、地名の由来を体感できる歴史の舞台であり、亘理町を理解する上で欠かせない場所である。
参考
亘理町「亘理町の沿革 | 町政情報」「文化財をめぐろう!(亘理編)」
亘理城跡(臥牛城跡・亘理要害跡)
所在地:〒989-2351 宮城県亘理郡亘理町旧舘
亘理町の地勢と暮らし
亘理町を歩いてみると、まずその地勢の豊かさに目を奪われる。東には太平洋が広がり、西には標高200メートル前後の阿武隈高地の丘陵地帯が連なる。そして北には阿武隈川が悠々と流れ、肥沃な沖積平野を形成している。私は亘理町を一望したく、阿武隈高地にある四方山展望台へと向かった。この展望台からは、亘理町と太平洋はもちろん、北は牡鹿半島、西の蔵王連峰や角田市まで360度見渡せる大パノラマだ。ここからの景色を見た時、あまりの絶景のしばし言葉を失った。
町の面積は約73.6平方キロメートル、南北に長い形をしており、中央部には水田地帯が広がり、その周囲を住宅地が取り囲む。まさに「田園都市」という言葉がふさわしい風景である。秋の収穫期に来たら、黄金の稲穂の海が美しいだろう。
気候は東北の中でも比較的温暖で、冬は雪が少なく、夏は海風が暑さを和らげてくれる。平均気温は11.8度、年間雨量は1117ミリと安定しており、農業に適した環境が整っている。町を歩くと、イチゴ畑や水田が広がり、季節ごとに豊かな実りを感じることができる。
暮らしの面でも、隣町は名取市、また仙台市まで電車で約30分という利便性があり、都会の便利さと田園の穏やかさを両立できる。町の中心部には商店街があり、沿岸部には「鳥の海」などの観光スポットも点在する。海の幸や郷土料理「はらこ飯」など食文化も豊かで、自然と歴史、そして暮らしやすさが調和した町であることを実感した。
参考
亘理町「四方山(しほうざん) | 観光・イベント」
四方山展望台
所在地:〒981-1501 宮城県亘理郡亘理町吉田
電話番号:0224632120
まとめ
亘理町を訪ねる旅は、地名の由来を体感する時間でもあった。「亘理(わたり)」という読み方は、阿武隈川を渡る場所に由来するとされる。古代の交通の要衝として人々が川を渡った地が「わたり」と呼ばれ、奈良時代の『続日本紀』には「曰理郡」として登場する。時代を経て「亙理」「亘理」と漢字表記が変遷しながらも、読み方は一貫して「わたり」であり続けた。川を渡るという行為そのものが町のアイデンティティとなり、地名に刻まれているのである。
町を歩くと、その由来が単なる言葉ではなく、地勢と歴史に裏打ちされていることを実感する。亘理城跡(臥牛城跡・亘理要害跡)に立つと、阿武隈川と太平洋を望む景色が広がり、交通と防衛の要衝であったことが理解できる。伊達政宗の重臣・伊達成実が亘理城主となり、亘理伊達氏の城下町を築いた歴史は、町の随所に残る風情とともに今も息づいている。
さらに、亘理町の暮らしは自然と調和している。東に太平洋、西に阿武隈高地、北に阿武隈川という立地は、農業や漁業に恵みをもたらし、郷土料理「はらこ飯」やイチゴなどの名産品を育んできた。気候は温暖で、冬は雪が少なく、夏は海風が心地よい。仙台市まで電車で約30分という利便性もあり、都会の便利さと田園の穏やかさを両立できる町である。
亘理町の地名の由来を探る旅は、土地の歴史と文化を理解するきっかけとなった。川を渡る場所としての必然性、城下町としての栄華、そして自然と暮らしの調和。すべてが「亘理」という名に込められている。地名を知ることは、その土地の記憶を知ることでもある。亘理町は、古代から現代に至るまで人々の暮らしを支え続けてきた田園都市であり、訪れる者に深い感慨を与えてくれる。
