【宮城県塩釜市】日本三奇の1つ「御釜神社の四口の神釜」とは?読み方や松尾芭蕉との関係、藻塩や鹽竈神社をたずねる

塩竈市本町に佇む御釜神社(おかまじんじゃ)を訪ねたのは、夏の盛りを過ぎた頃だった。鹽竈神社の境外末社として知られるこの神社は、古代から「日本製塩起源の地」と伝えられ、塩竈という地名そのものの由来を担っている。境内に安置される四口の神釜は「日本三奇」の一つに数えられ、古来より人々の畏敬を集めてきた。

拝観料100円を納め、透塀の中に安置された神釜を静かに覗き込む。撮影は厳禁とされているため、目に焼き付けるしかない。釜の中には赤茶色の水が張られ、溢れることも枯れることもないと伝えられる。江戸時代には、この水が変色すると吉凶の前兆とされ、仙台藩へ報告された記録も残る。伊達政宗の病の折にも水の色が変わり、祈祷が行われたという逸話は、神釜が藩政にまで影響を与えたことを物語っている。

この神社を訪ねたのは、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で立ち寄った場所でもあるからだ。曾良の『旅日記』には、元禄2年(1689年)に芭蕉が「塩竈のかま」を見物した記録が残る。私もその足跡を追うように、神釜の前に立ち、静かに手を合わせた。

後日、7月に行われる藻塩焼神事も見学した。ホンダワラと呼ばれる海藻を刈り取り、海水を汲み、竹棚に広げて濃縮した鹹水を煮詰める。火打石で熾した忌火で塩を焼き上げる工程は、古代の製塩法をそのまま再現したものだ。出来上がった藻塩は御釜神社に供えられ、鹽竈神社例祭にも奉納される。塩竈の地名が単なる言葉ではなく、祈りと文化の結晶であることを、目の前で確かめることができた。

参考

塩釜市「「塩竈」についてのミニ知識

鹽竈神社「御釜神社 特殊神事藻塩焼神事|行事のご案内

松島観光ナビ「日本三奇の一つ「御釜神社」

所在地:〒985-0052 宮城県塩竈市本町6−1

御釜神社とは

御釜神社は、鹽竈神社の末社であり、鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)を御祭神として祀る。境内は古来「甫出の浜」と呼ばれ、日本で最初に塩がつくられた場所と伝えられている。ここで行われた製塩が「塩竈」という地名の由来となり、町のアイデンティティを形づくった。

創建時期は不明だが、古代から製塩が行われていたことは史料に残る。藩政期には御釜神社の神釜の水の変化が吉凶を占う手段とされ、仙台藩へ報告されるほど重要な役割を担った。伊達家の記録にも、神釜の水が変色した際に祈祷が行われたことが記されている。

また、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で訪れたことも有名で、曾良の『旅日記』には「塩竈のかま」を見物した記録が残る。御釜神社は、文学や歴史の舞台としても人々の記憶に刻まれている。

四口の神釜とは

御釜神社の象徴は、透塀の中に安置された四口の神釜である。鉄製の竈で、内部には常に水が張られている。この水は溢れることも枯れることもなく、古来より神秘とされてきた。江戸時代には水の色が変わると吉凶の前兆とされ、藩政に関わる重大な出来事の前触れとして記録された。

この四口の神釜は、兵庫県高砂市の生石神社「石の宝殿」、鹿児島県霧島市の霧島神宮「天逆鉾」と並び、日本三奇の一つに数えられる。変事の際には水が澄んだり濁ったりし、2011年の東日本大震災の際にも水の色が変わったと伝えられている。

拝観には初穂料100円を納める必要があり、撮影は厳禁。だからこそ、目に焼き付ける体験が尊い。神釜の前に立つと、古代から続く製塩の記憶と、地域を守り続けてきた祈りの重みを感じることができる。

作家の司馬遼太郎も、宮城県を訪れた際に御釜神社を訪れた。

参考

テレビ東京「水面に浮く巨石「石の宝殿」に、震災を予言した「四口の神釜」」

四口の神釜(御釜)
所在地:〒985-0052 宮城県塩竈市本町6−3

松尾芭蕉と曾良旅日記にみる御釜神社訪問の記録

『奥の細道』の旅に随伴した河合曾良の日記には、芭蕉とともに塩竈を訪れた日の様子が簡潔に記されている。原文は以下の通りである。

一 八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅より晴ル。仙台ヲ立。十符菅・壷碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもハくの橋・浮嶋等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。

引用:山梨県立大学「曾良旅日記

この記録は元禄2年(1689年)5月8日の出来事である。朝は小雨が降っていたが、昼前には晴れ、芭蕉と曾良は仙台を出立した。途中で「十符菅(とふすげ)※利府町あたり」や「壷碑(つぼのいしぶみ)」といった歌枕の名所を訪ね、午後には塩竈に到着している。ここで「湯漬など喰」とあるのは、塩竈で食事をとったことを示しており、旅の途中での素朴な昼食の様子がうかがえる。

【宮城県利府町】地名「利府」の読み方・由来語源をたどる旅in春日・十符の里パーク・加瀬沼公園

地名は、土地の記憶を映す鏡だ。音の響き、漢字のかたち、そこに込められた意味──それらは、風景や暮らし、祈りと結びついている。私は地域文化を記録する仕事をしている…

その後、二人は「末の松山」「興井」「野田玉川」「思ひの橋」「浮嶋」といった歌枕の名所を巡り歩いた。これらは古来より和歌に詠まれた景勝地であり、芭蕉が旅の目的とした「歌枕探訪」の一環である。そして「出初に塩竃ノかまを見ル」と記されている部分が、御釜神社の神釜を拝観したことを示している。曾良の日記は簡潔だが、芭蕉が御釜神社を訪れ、神秘の四口の神釜を目にしたことを裏付ける貴重な史料である。

この曾良の日記から分かるのは、御釜神社が当時すでに「塩竈の象徴」として認識されていたことだ。歌枕の名所を巡った後に「かま」を見たという記録は、御釜神社が文学的・宗教的な探訪の締めくくりにふさわしい場所であったことを示している。芭蕉が御釜神社を訪れたことは、塩竈の文化的価値を全国に広める契機となり、後世に「日本三奇」として神釜が語り継がれる背景にもつながっていると思われる。

参考

山梨県立大学「曾良旅日記

藻塩とホンダワラ

神釜の話をすると、必ずセットで語られるのが藻塩(もしお)の存在だ。藻塩とは、海藻を用いて塩を作る古代の製塩法であり、日本の製塩文化の起源とされる。現在では塩釜市の名産品になっている。特に用いられるのはホンダワラという海藻で、東北の海岸に豊かに繁茂する。藻塩の作り方は、まずホンダワラを刈り取り、乾かしてから海水を注ぎかける。すると藻が海水を吸い込み、濃度の高い鹹水(かんすい)ができる。それを釜で煮詰めることで塩が生まれる。

この方法は、鹽竈神社の御祭神である鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)が人々に伝えたとされる。古代の人々にとって塩は生命を支える必需品であり、保存食や調味料として欠かせない存在だった。岩塩が採れない日本では、海水から塩を得るしかなく、その知恵が藻塩という形で伝えられたのである。

藻塩は単なる調味料ではなく、神事においても重要な役割を果たす。御釜神社の例祭では、藻塩が神前に供えられ、鹽竈神社の例祭にも奉納される。つまり藻塩は、神と人をつなぐ供物であり、祈りの象徴でもある。

参考

公益財団法人塩事業センター「日本の塩づくりの歴史 | 塩のつくり方 | 塩百科

御釜神社を訪ねる

境内を訪ねると、まず透塀の中に安置された四口の神釜に目を奪われる。拝観料100円を納め、静かに覗き込むと、赤茶色の水が張られている。撮影は厳禁のため、目に焼き付けるしかない。その水は溢れることも枯れることもなく、古来より神秘とされてきた。江戸時代には水の色が変わると吉凶の前兆とされ、仙台藩へ報告された記録も残る。御釜神社は、単なる末社ではなく、藩政や人々の暮らしに直結する「神の声」を宿す場だったのだ。

参拝の際、私は静かに手を合わせ、塩竈の町を守ってきた神釜に祈りを捧げた。境内には「牛石」と呼ばれる霊石もあり、塩を運んだ牛が石に化したという伝承が残る。牛石は疫病除けや家内安全の象徴とされ、今も信仰を集めている。御釜神社は、塩と暮らしを守る祈りの場であり、地域の人々が代々大切にしてきた信仰の中心であることを実感した。

また、御釜神社の信仰は「塩」に直結している。藻塩焼神事で作られた藻塩は神前に供えられ、鹽竈神社の例祭にも奉納される。塩は人々の生活を支える必需品であり、同時に神事において清めや供物として欠かせない存在だ。御釜神社は、塩を通じて人々の暮らしと祈りを守り続けてきた。

参拝を終えると、神釜の水面に映る自分の姿が心に残った。撮影できないからこそ、その瞬間は記憶に深く刻まれる。御釜神社は、塩竈の地名の由来を体現する場所であり、塩と祈りの文化を今に伝える聖地だ。ここに立つことで、塩竈という町が「塩と信仰」で成り立っていることを、改めて理解することができた。

牛石藤鞭社(鹽竈神社境外末社)

所在地:〒985-0052 宮城県塩竈市本町6−5

藻塩焼神事・鹽竈神社・丹六園を訪ねる

御釜神社といえば、毎年7月に行われる藻塩焼神事が有名だ。古代の製塩法を今に伝えるこの神事については、すでに別記事で詳しく紹介しているので、ここでは簡潔に触れるにとどめたい。藻刈・水替・藻塩焼の三つの工程を経て、ホンダワラを用いた藻塩が生まれる。その塩は御釜神社に供えられ、鹽竈神社の例祭にも奉納される。まさに「塩竈」という地名の由来を体感できる神事だ。詳細は別記事をご覧いただきたい。

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今回の訪問では、御釜神社の雰囲気を味わった後、鹽竈神社にも参拝した。境内は広大で、志波彦神社と並び立つ社殿は荘厳そのもの。東北鎮護の一之宮としての威厳を感じながら、御釜神社で作られた藻塩がここにも供えられることに、塩と信仰の結びつきの深さを実感した。

参拝後は、塩竈の街歩きへ。老舗菓子舗丹六園に立ち寄り、藻塩を使った銘菓「しほがま」を購入した。白い落雁に藻塩の風味がほんのりと効いていて、口に含むと甘さの奥に海の香りが広がる。塩竈ならではの味わいで、藻塩が単なる調味料ではなく文化の象徴であることを感じさせてくれる。

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宮城県塩竈市の銘菓「しほがま(志ほがま)」を現地取材で紹介。藻塩や青じそ入りの軟落雁の魅力、丹六園での購入体験、和歌に由来する名前の意味、港町ならではの民俗学…

さらに港町らしい楽しみとして、寿司屋に入り、藻塩でいただく塩釜港のマグロを味わった。藻塩を軽く振るだけで、赤身の旨みが際立ち、海の恵みと古代の製塩文化が一皿の中で融合する。塩竈の町は、神事と食文化が見事に重なり合い、訪れる者に「塩の町」としての誇りを伝えてくれる。

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私は地域文化ライターとして、日本各地に根ざす食と風土の関係を探り、現地の空気を感じながら言葉にして伝える仕事をしている。制度や建築では見えてこない、暮らしの中…

藻塩焼神事を起点に、神社参拝、銘菓、港の寿司まで体験すると、塩竈という町が「塩と祈り」で成り立っていることが自然に理解できる。藻塩は神事の供物であり、菓子の味わいであり、寿司の旨みを引き立てる調味料でもある。塩竈の文化は、まさに藻塩に凝縮されているのだ。

参考

藻塩焼神事並びに御釜神社例祭|行事のご案内

伊達家と御釜神社の関係

御釜神社の四口の神釜は、古来より「水が溢れることも枯れることもない」とされ、さらに水の色が変わると吉凶の前兆と信じられてきた。江戸時代には、この神釜の水の変化が仙台藩の政に直結する重要な兆しとされ、藩政記録にも残されている。

特に有名なのは、伊達政宗公の病の折に神釜の水が変色したという逸話だ。寛永13年(1636年)、政宗が病に伏した際、御釜の水が澄んだ色から変化し、藩内に不安が広がった。祈祷が行われたものの、政宗はその年の5月に没した。水の変色は藩主の死を予兆したものと受け止められ、御釜神社の神釜は「藩政を映す鏡」として畏敬を集めるようになった。

その後も、藩政期には神釜の水の変色が幾度も記録されている。正保2年(1645年)、万治年間(1658〜1660年)、寛文年間(1670〜1671年)、延宝年間(1675年)、天和元年(1681年)、貞享年間(1684〜1685年)など、藩政に大きな出来事が起こる前には必ず水の色が変わったと伝えられている。御釜神社の神釜は、仙台藩にとって単なる信仰の対象ではなく、政治の安泰を占う「神の声」だったのである。

参考

塩竈町方留書

塩竈市史編纂委員会編『塩竈市史 資料編

まとめ

御釜神社を訪ねた旅は、単なる神社参拝ではなく、塩竈という町の成り立ちそのものを体感する時間となった。境内に安置された四口の神釜は「日本三奇」の一つに数えられ、古代から人々の畏敬を集めてきた。水が溢れることも枯れることもなく、時に色を変えて吉凶を告げると信じられた神釜は、仙台藩の政にも影響を与え、伊達家の歴代藩主が祈祷を行った記録も残る。松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で立ち寄り、曾良の日記に「塩竃のかまを見ル」と記したことも、この地の文化的価値を物語っている。

また、御釜神社は藻塩焼神事の舞台でもある。ホンダワラを刈り取り、海水を汲み、古代の製塩法で塩を焼き上げる一連の神事は、今も宮城県の無形民俗文化財として受け継がれている。出来上がった藻塩は御釜神社に供えられ、鹽竈神社の例祭にも奉納される。藻塩は銘菓「しほがま」や寿司の味わいにも生かされ、町の食文化を支える存在でもある。つまり、御釜神社は信仰と暮らし、歴史と食文化を結びつける中核なのだ。

参拝を終え、神釜の水面を覗き込むと、自分の姿が静かに映った。撮影禁止だからこそ、その瞬間は心に深く刻まれる。塩竈という地名が単なる地理的な呼称ではなく、古代から続く祈りと文化の結晶であることを、御釜神社は今も伝えている。ここに立つことで、塩と人との関わり、そして地域文化の厚みを改めて理解することができた。御釜神社は、まさに「日本製塩起源の地」を象徴する聖地であり、未来へと受け継ぐべき文化遺産である。

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