【宮城県】地名「白石市」の読み方や由来・語源をたずねるin神石白石・白石城・片倉小十郎
地名には、土地の記憶が宿っている。私は旅先で地図を眺めるたびに、ふと目に留まる地名に心を奪われることがある。仙台市から車で約1時間、宮城県南部に位置する「白石(しろいし)」も、そんな地名のひとつだった。白くて硬いものがそこにあるような、潔く澄んだ響き。だが、実際にその由来を知る人は少ないのではないか。私はその謎を確かめたくなり、白石市を訪ねることにした。
白石市は、蔵王連峰の東麓に広がる城下町である。白石城を中心に、武家屋敷や歴史的な町並みが残る一方、近代以降は北海道移住の拠点ともなった土地だ。だが、私が惹かれたのはその歴史よりも、地名そのものだった。なぜ「白石」と呼ばれるようになったのか。その語源は何か。地名の背後には、必ず何かしらの物語があるはずだ。
旅の始まりは、白石駅から歩いて10分ほどの沢端町。そこに、地名の由来とされる「神石白石」があるという。神の宿る石──その言葉に導かれるように、私はその石を目指して歩き始めた。秋の風が心地よく、城下町の静けさが足音に染み込んでいく。地名をたずねる旅は、風景の中に言葉の痕跡を探す旅でもある。私はその痕跡を、白石の町に見つけたかった。
参考
歴史のまち白石|白石城の変遷とロマン溢れる歴史スポット | しろいし旅カタログ
白石市の読み方や由来・語源
白石駅から歩いて10分ほど。沢端川と白石城の間に、ひっそりと佇む一つの石がある。直径1メートルを超えるその石は、「神石白石(しんせきしろいし)」と呼ばれ、白石という地名の由来とされている。灰褐色の凝灰岩で、かつては朱塗りの玉垣に囲まれ、神の宿る石として祀られていたという。今は簡素な囲いに守られながら、静かに時を見つめている。
この石には、ただの岩以上の存在感がある。風雨にさらされながらも、形を保ち続けてきたその姿は、まるで土地の記憶を抱えているかのようだ。藩政時代には、白石城の三の丸外堀にあたる沢端川の中間に位置し、城下の守護として祀られていたという。神石白石は、地名の由来であると同時に、町の精神的な支柱でもあったのだ。
私は石の前に立ち、そっと手を合わせた。石の表面には、長い年月の痕跡が刻まれている。人々がこの石に祈りを捧げ、町の安寧を願ってきたことが、静かに伝わってくる。地名が「白石」となったのは、この神石の存在があったからこそだろう。地名とは、風景に刻まれた祈りの痕跡なのだ。
近年では、神石白石は縁結びのスポットとしても知られている。石の根は地下深く、遠く仙台市泉区の「根白石」まで続いているという伝承があり、二つの地を結ぶ“縁の石”として信仰されている。地名の由来が、信仰と伝承を通じて今も生きている──それが神石白石の魅力である。
神石白石
所在地:〒989-0277 宮城県白石市沢端町6−33
仙台市泉区「根白石」とのつながり
神石白石には、もうひとつの物語がある。それは、仙台市泉区にある「根白石(ねのしろいし)」とのつながりだ。伝承によれば、白石市沢端町にある神石の根は、地下深くを通って根白石まで続いているという。地名に「根」がつくのは、その石の根が白石から伸びてきているから──そんな話を聞くと、地名が急に神秘的なものに思えてくる。
根白石は、仙台市泉区の北西部に位置する里山の町である。かつては白石市と同じく、信仰と農耕が交差する土地だった。両者の地名に「白石」が含まれているのは偶然ではなく、神石を中心とした伝承が背景にある。地名が語る“縁”とは、単なる言葉の一致ではなく、土地と土地、人と人を結ぶ物語なのだ。私は実際に根白石を訪れ、伝説となった巨石を見てきた。詳細は下記の記事を見てほしい。
私は神石白石の前で、根白石のことを思い浮かべた。地中でつながるという話は、科学的には証明されていないかもしれない。だが、地名に込められた信仰や祈りは、確かに人々の心をつないでいる。縁結びの石として知られるようになったのも、そうした伝承が今も生きているからだろう。
地名は、土地の記憶を言葉にしたものだ。白石と根白石──二つの地名が語るのは、地形や歴史だけでなく、人々の願いやつながりである。私はそのつながりを感じながら、石の前に立ち続けた。地名が語る“縁”の物語は、今も静かに息づいている。
根白石
所在地:〒981-3221 宮城県仙台市泉区
白石城をたずねる
白石城の石垣に手を添えたとき、私はふと「刈田」という古い地名を思い出した。今でこそ「白石市」として知られるこの町も、奈良時代には柴田郡から分かれた「刈田郡」として律令制の行政区画に組み込まれていた。地名の「刈田」は、稲作や農耕を意味する言葉であり、蔵王山麓の豊かな土地を象徴していたのだろう。
白石城の天守から城下を見下ろすと、その地形の広がりがよく分かる。白石川が町を貫き、遠くに蔵王連峰が霞んで見える。この地が古代から人々の暮らしと戦略の要地であったことが、風景からも伝わってくる。平安時代には源頼朝が奥州藤原氏を討つために阿津賀志山麓に着陣し、刈田郡はその戦略拠点となった。
やがて中世には刈田氏がこの地を治め、戦国期には伊達氏の勢力下に入る。その過程で、刈田氏は「白石氏」と名を改め、地名も「白石」へと変わっていった。地名の変化は、単なる呼び名の変更ではない。それは、土地の支配者が変わり、文化が塗り替えられ、記憶が積み重ねられていく過程そのものなのだ。
白石城の復元された木造の櫓に登ると、風が頬を撫でる。この城は、伊達政宗の家臣・片倉小十郎景綱が治めたことで知られ、江戸時代には一国一城令の例外として存続を許された。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の拠点となり、白石は再び歴史の表舞台に立った。
私は城の高欄に立ち、町の屋根越しに蔵王を眺めながら思った。「白石」という地名は、神石の伝承だけでなく、刈田から白石へと変遷してきた歴史の層を抱えている。地名とは、土地の記憶を言葉にしたものだ。白石城に立つことで、その記憶が風景とともに立ち上がってくるのを感じた。
参考
しろいし観光ナビ「白石城本丸」
所在地:〒989-0251 宮城県白石市益岡町1−16
白石城と片倉小十郎
白石という地名を語るとき、避けて通れないのが「白石城」とその城主・片倉小十郎景綱の存在である。伊達政宗の重臣として知られる景綱は、1602年、政宗から白石城と1300貫文の知行を与えられ、以来260年にわたり片倉家がこの地を治めた。白石は、伊達家の南の要衝として、また片倉家の城下町として発展していく。
白石城は、江戸時代の「一国一城令」においても例外的に存続を許された城である。通常、藩内に複数の城を持つことは禁じられていたが、白石城は伊達政宗の本拠・仙台城とは別に、特別に存続が認められた。これは、片倉小十郎の忠誠と軍略を高く評価した徳川家康の意向によるものとも言われている。
城は明治維新後に取り壊されたが、市民の熱意によって1995年に木造で復元された。現在の白石城は、三層三階の大櫓を中心とした平山城で、白漆喰の外壁といぶし瓦のコントラストが美しい。天守からは城下町が一望でき、かつての武家の息遣いが今も感じられる。
白石城の北側には、片倉家の家臣・小関家の武家屋敷が残されている。茅葺き屋根の素朴な建築は、城下の暮らしを今に伝える貴重な遺構だ。こうした建物や町並みの中に身を置くと、「白石」という地名が単なる地理的な呼称ではなく、武家文化とともに育まれてきた歴史の記憶であることが実感される。
片倉小十郎という人物の存在もまた、地名の重みを深めている。政宗の側近として数々の戦を支え、豊臣秀吉からの大名昇進の誘いを断ってまで政宗に仕えた忠義の人。その名は、白石の地に深く刻まれている。白石という地名には、神石の伝承とともに、武家の誇りと忠義の物語が静かに息づいているのだ。
まとめ
「白石(しろいし)」という地名の響きに惹かれて始まった今回の旅は、神話と歴史、そして人々の暮らしが織りなす重層的な物語へと私を導いてくれた。地名の由来とされる「神石白石」は、ただの岩ではなかった。風雨にさらされながらも変わらぬ姿で佇むその石は、かつて朱塗りの玉垣に囲まれ、神の宿る石として祀られていた。地名の「白石」は、この石に由来するという。
さらに興味深いのは、仙台市泉区の「根白石」とのつながりである。神石の根が地下深くを通って根白石まで続いているという伝承は、科学的な証明を超えて、人々の心の中で今も生きている。地名が語る“縁”の物語は、土地と土地、人と人を結びつける静かな力を持っている。
そして、白石の地名にはもう一つの顔がある。それは、白石城と片倉小十郎に象徴される武家の記憶だ。伊達政宗の重臣として白石を治めた片倉家の存在は、白石という地名に忠義と戦略の歴史を刻み込んだ。白石城は一国一城令の例外として存続を許され、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の拠点となった。城下町としての白石は、今もその面影を色濃く残している。
地名とは、単なる地図上の記号ではない。そこには、地形の記録だけでなく、信仰、歴史、暮らし、そして祈りが折り重なっている。神石白石に触れ、白石城を歩き、根白石とのつながりに思いを馳せることで、私は「白石」という地名の奥行きを感じることができた。
旅の終わりに、私はもう一度神石の前に立った。石の表面に手を当てると、ひんやりとした感触が掌に伝わってくる。その冷たさの奥に、何百年もの時が流れている。白石という地名は、今も静かに語りかけてくる。地名をたずねる旅は、土地の声に耳を澄ませる旅でもある。私はその声を、確かに聞いた気がした。
