【宮城県栗原市】希少!国指定芸能「小迫の延年」を楽しむin白山神社・金成春まつり・坂上田村麻呂
私は地域文化ライターとして、土地に根ざした芸能や信仰のかたちを探り、現地の空気を吸いながら言葉にして伝える仕事をしている。制度や建築では見えてこない、暮らしの中に息づく文化の輪郭──それは、舞の一挙手一投足や、祈りの声にこそ宿っていると信じている。今回訪れたのは、宮城県栗原市金成町。目的は、白山神社で毎年奉納される「小迫の延年」をこの目で見ることだった。
延年とは、仏教儀礼に由来する芸能であり、祈りと舞が一体となった文化のかたちである。小迫の延年は、東北地方に残る数少ない延年芸能のひとつであり、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。私はこの舞を通じて、金成町という土地の記憶と、白山神社という祈りの場の奥深さに触れたかった。
小迫の延年とは
小迫の延年(おばさまのえんねん)は、宮城県栗原市金成町小迫地区に伝承される宗教儀礼的な舞楽であり、仏教由来の芸能として「延年舞楽」とも呼ばれる。延年とは本来、寺院の法会において舞を奉納し、長寿や繁栄を祈願する儀礼で、「延年益寿」の語にその願いが込められている。
この地における延年は、鎌倉時代に白山権現の信仰がもたらされたことを契機に始まったとされ、700年以上にわたり地域の人々によって守り継がれてきた。舞は仏教的な詞章と舞楽的な所作を組み合わせた構成で、「御山開き」「御法楽」「入振舞」「飛作舞」「田楽舞」「馬乗渡し」などの演目が順に奉納される。舞台上では、静謐な祈りと華やかな動きが交錯し、神仏への敬意と土地の誇りが表現される。
舞手は、地域の保存会を中心とした熟練者が務めており、舞台に立つまでには数ヶ月にわたる稽古が重ねられる。手のひらの向き、足の運び、間合いの取り方に至るまで、所作の一つひとつに仏教的な意味が込められており、舞は祈りのかたちそのものである。
参考
指定文化財〈重要無形民俗文化財〉小迫の延年 - 宮城県公式ウェブサイト
金成町とは
金成町(かんなりちょう)は、宮城県栗原市の南西部に位置する地域であり、古くから白山信仰とともに歩んできた土地である。町名の「金成」は、かつて金を産出したことに由来するとされ、鉱山の町としての歴史も持つ。現在は栗原市に編入されているが、金成という地名は今も地域の人々に親しまれている。
この地域は、奥羽山脈のふもとに広がる自然豊かな土地であり、山岳信仰と仏教文化が交差する場所でもある。白山神社を中心に、延年や祭礼が今も続いており、地域の人々が文化を守り継いでいる。金成町は、信仰と芸能が暮らしの中に息づく土地であり、延年はその象徴的な存在である。
金成町の白山神社とは
小迫の延年が奉納されるのは、栗原市金成町小迫に鎮座する白山神社。加賀白山信仰を源流とし、鎌倉時代に創建されたと伝えられるこの神社は、山岳信仰と神仏習合の文化が色濃く残る祈りの場である。境内には白山権現を祀る社があり、かつては真言宗の寺院と一体となって機能していた。
延年はこの神社の春の例祭に合わせて奉納される。舞台は拝殿前に設けられ、舞の前には神職による祝詞が奏上され、神仏習合の名残を感じさせる厳かな空気が漂う。延年は、神への奉納舞であると同時に、地域の人々の祈りと誇りを体現する文化のかたちである。
所在地: 〒989-5184 宮城県栗原市金成小迫山神77
電話番号: 0228-42-1823
坂上田村麻呂との伝承──武将が残した祈りの舞
小迫の延年には、坂上田村麻呂との関係を伝える地元の言い伝えが残っている。田村麻呂は平安時代初期の征夷大将軍であり、蝦夷征討の際に東北各地に仏教文化を広めた人物とされる。伝承によれば、田村麻呂がこの地に立ち寄った際、戦勝祈願のために白山権現を勧請し、延年の舞を奉納したことが始まりとされている。それが戦勝祈願の舞とされる入振舞だ。
この伝承は、延年が単なる寺院儀礼ではなく、武士の祈りや土地の守護と結びついた文化であることを示唆している。田村麻呂の名が語られることで、延年は地域の誇りと歴史の象徴として位置づけられている。
参考
なぜ白山神社で延年が続いているのか
小迫の延年が白山神社で今も続いている理由は、神社の宗教的性格と地域との結びつきにあると思う。明治期の神仏分離令以降、多くの寺院では延年が儀礼としての役割を失い、芸能としても継承が困難になった。一方、白山神社では、地域住民と保存会が一体となって延年を守り続けている。
神社が地域の精神的中心であり続けていることが、延年継承の大きな要因となっているのだろう。舞台設営、稽古、衣装の準備など、地域全体が延年を支える仕組みが今も息づいている
小迫の延年in金成春まつり
白山神社の境内に立ったとき、私はただ舞を見に来たのではなく、何かもっと深いもの──土地に宿る記憶のようなものに触れたいと思っていた。2025年4月6日、金成春まつりの日。春の光が差し込む山あいの神社の境内には地元の人々が集まり、舞台の設営を終えた拝殿前には、装束をまとった踊り手たちが静かに待機していた。舞の始まりを告げる太鼓の音が鳴ると、空気が一変し、観客の視線が舞台に集中する。
最初に舞われたのは「御山開き」。神域を開く儀礼的な舞であり、舞手の所作には緊張感と神聖さが漂っていた。続く「飛作舞」では、胡蝶のように舞う踊り手の姿が印象的で、舞台に春の風が吹き込んだような感覚を覚えた。「田楽舞」では、笛と太鼓の囃子に合わせて舞手がゆったりと動き、観客の間には静かな感動が広がっていた。
参考
宮城県「栗原市」「金成春まつり(小迫の延年) '25.4.6(日)」
最後に
その場に立ち会いながら、私は言葉にならない神秘を感じていた。
なぜこの山奥で、700年以上も延年が守り継がれてきたのだろう。なぜ白山信仰なのか──その問いが頭をよぎったとき、ふと源義経の伝承が思い浮かんだ。京都から日本海沿いを北上し、福井、越後、そして奥州平泉へと落ち延びた道筋。平泉の地名は、福井の白山信仰の拠点・平泉寺から伝わったとも言われている。白山信仰もまた、北陸を源流とし、修験道や山岳信仰とともに東北へと広がっていった。
金成町の白山神社も、加賀白山権現を勧請したとされる古社であり、坂上田村麻呂が戦勝祈願をしたという伝承も残る。この地に白山信仰が根づいた背景には、単なる宗教的布教ではなく、古代から続く北陸と宮城の文化交流があったのではないか──そんな想像が膨らんだ。交易、信仰、軍事、そして芸能。人々は山を越え、海を渡り、祈りと物語を運んできた。
延年の舞は、そうした歴史の断片を今に伝える「語りのかたち」なのかもしれない。舞台の上で舞う姿は、単なる芸能ではなく、土地に宿る神々と人々の記憶を呼び起こす儀礼だった。私はその場に立ち会いながら、舞が語るものの深さに静かに心を揺さぶられていた。