【宮城県大崎市】「古川」の読み方や由来・語源文化をたずねるin江合川・緒絶川・小野小町の墓
水の流れには、土地の記憶が宿る。世界四大文明はいずれも川から生まれ、日本の都市もまた河川のほとりに根を張ってきた。宮城県大崎市古川──この町には、江合川と緒絶川という二つの川が静かに流れている。江合川は奥羽山脈を水源とし、大崎平野を潤す命の川。緒絶川は、平安時代から「歌枕」として詠まれた雅な川であり、恋の伝説を今に伝える文化の水脈でもある。
古川という地名の由来には、江合川の旧河道に集落が形成されたことから「古い川の場所」=「古川」と呼ばれるようになったという説がある。また、緒絶川の名には「川の魂(緒)が絶えた流れ」という意味が込められているとも言われ、嵯峨天皇の皇子と白玉姫の悲恋伝説が今も語り継がれている。
江戸時代には、伊達政宗の国家戦略の一環として、川村孫兵衛による江合川と北上川の接続工事が行われた。岩出山大堰から分水された内川は、岩出山城下を流れる堀川として機能し、後に緒絶川や大江川の水源となった。政宗が築いた水運ルートは、江合川を通じて太平洋へと至る輸送経路を構想していた可能性もある。
緒絶川沿いには藤棚が整備され、春には紫の花が川面を彩る。市内には小野小町の墓とされる場所もあり、彼女の恋の歌がこの川の情緒と重なって響く。水は暮らしを支えるだけでなく、文化を育み、記憶を運ぶ。古川という地名には、まさにそのすべてが込められている。
参考
大崎市古川の由来・語源とは
「古川(ふるかわ)」という地名は、宮城県大崎市の中心部に位置する地域名であり、かつては古川市として独立していた。現在でも「古川駅」や「古川商店街」などの名称に残るこの地名の由来には、地域を流れる江合川の存在が深く関係しているとされる。
江合川(えあいがわ)は、奥羽山脈を水源とし、大崎平野を貫いて北上川と合流し、最終的には太平洋へと注ぐ大河である。この川の流域に町が形成されたことから、「古川」という地名が生まれたという説がある。つまり、古川とは「古くからある川辺の町」という意味を持つ可能性が高い。江合川は単なる地形の要素ではなく、地域の農業・水運・文化を支える命の川だった。
江戸時代には、伊達政宗の国家戦略の一環として、川村孫兵衛による大規模な灌漑工事が行われた。江合川と北上川を接続することで水運を整え、石高増強を図ったこの事業は、仙台藩の経済基盤を支える重要な施策だった。結果的に施策は大成功し、米の生産量は倍増。一時は江戸で食べる米のほとんどが仙台藩の米だったという逸話も残る。その米は江合川を通じて江戸へと運ばれた。
現在でも古川には「船」「港」といった地名が残り、かつての水運の活況をしのばせる。また、江合川流域には荒雄神社や緒絶川があり、平安の歌枕や醸造文化とも深く結びついている。水は、土地の記憶を運ぶ媒体──古川という地名は、その象徴的な存在である江合川を背景に生まれた、文化と暮らしの交差点なのだ。
参考
大崎市「古川市史の内容」
東北地方整備局「江合川の歴史」
川村孫兵衛とは
江戸時代、仙台藩の水運と農業を根本から変えた人物がいた。名を川村孫兵衛。伊達政宗が自らリクルートした水利のプロフェッショナルであり、江合川と北上川を接続する大規模な灌漑工事を指揮した人物である。
当時の政宗は、藩の石高を増やすことを国家戦略の柱としていた。水を制する者が土地を制する──その思想のもと、孫兵衛は江合川の流れを巧みに操り、北上川との接続によって水運を整え、農業生産力を飛躍的に高めた。この工事は、単なる土木技術ではなく、地域の未来を見据えた文化的インフラ整備でもあった。川村孫兵衛の偉業は、400年経過した今でも輝きは失われておらず、石巻市には川村孫兵衛の銅像がたっているほどだ。
この孫兵衛による河川工事により、古川を中心に大崎平野では新田が開墾され、米を水運で運搬する江合川の重要度があがった。
参考
農林水産省「治水の名手 川村孫兵衛」
宮城県「川村 孫兵衛重吉 -北上川の流れを変える」
もう一つの大崎市古川の由来・語源「緒絶川」
古川という地名の由来には、江合川だけでなく「緒絶川(おだえがわ)」も深く関わっている。かつて古川地域の中央を流れていた江合川は、度重なる氾濫によって川筋を変えた。その旧河道に水路が残り、そこに集落が形成されたことから「古い川の場所」=「古川」と呼ばれるようになったという説がある。そして、川としての魂(緒)が絶えた流れ──それが「緒絶川」と名付けられた理由のひとつだ。
緒絶川の由来
もう一つの由来は、平安時代の悲恋伝説にある。嵯峨天皇に愛された白玉姫が、皇后の嫉妬により都を追われ、陸奥の地まで逃れてきたが、ついに恋人に会えず、この川に身を投げたという。命(玉の緒)が絶えた川──それが「緒絶川」の名の由来となったという説もある。こうした物語は、緒絶川を単なる水路ではなく、文化と感情の象徴として位置づけている。
現在、緒絶川沿いには15基の藤棚が設置され、春には紫の花が川面を彩る。開花期間中にはライトアップも行われ、地元の人々や観光客に親しまれている。藤棚と川の風景は、まるで平安の歌枕を現代に再現したかのような情緒を漂わせる。
緒絶川の水源と伊達政宗
緒絶川の水源をたどると、その流れは岩出山の内川に行き着く。内川は、伊達政宗が拠点とした岩出山城下を流れていた堀川であり、城の防衛と生活用水を兼ねた重要な水路だった。自然の地形を巧みに利用したこの川は、政宗の治水・利水政策の原点とも言える存在である。
城下町において、堀や水路は防衛だけでなく、物資の運搬や生活の基盤として機能していた。内川もまた、岩出山城を囲む堀としての役割を果たすと同時に、周辺の農地を潤し、町の暮らしを支えていた。政宗が後に仙台へ拠点を移し、日本最長の貞山運河を築いたことを思えば、内川から緒絶川、江合川を経て太平洋へと至る水運ルートを構想していた可能性も十分に考えられる。
平安以降も歴史ロマンを感じる川だ。
参考
(一社)農業農村整備情報総合センター「宮城県 大崎西部農業水利事業」
緒絶橋をたずねる
私はその緒絶川のほとりに立ち、同じく歌枕となった「緒絶橋」と橋平酒造の酒蔵「醸室(かむろ)」を訪れた。かつての酒蔵をリノベーションしたこの施設は、古風な商業スペースとして開かれており、緒絶川と神蔵が並ぶ風景は、時代を超えた文化の交差点のようだった。酒造りもまた、水の文化の一部。緒絶川の水が、かつて人々の暮らしを支えていたことを思うと、風景がより深く見えてくる。
緒絶川は、古川という地名のもう一つの由来であり、悲恋の伝説、そして現代の観光と暮らしをつなぐ、静かで力強い水の記憶なのだ。
住所:〒989-6153 宮城県大崎市3
緒絶川・緒絶橋と平安時代の歌枕
緒絶川、市街地を静かに流れるこの川は、平安時代から「歌枕」として知られていた。歌枕とは、和歌に詠まれる名所のこと。遠く京の都の貴族たちが、この陸奥の地に想いを馳せて詩を詠んだという。
緒絶川には、悲恋の伝説が残っている。嵯峨天皇の皇子が陸奥へ赴いた際、恋人の白玉姫が後を追ってこの地まで来たが、皇子の行方はつかめず、姫は川に身を投げて命を絶った。人々はその哀れを思い、「玉の緒(命)が絶えた川」──緒絶川と呼ぶようになったという。
この伝承にちなんで、藤原道雅はこう詠んだ。
みちのくの をだえの橋や これならむ ふみみふますみ こころまとはす
ー藤原道雅 後拾遺集(ごしゅういしゅう)
この歌は、「これが噂に聞いた緒絶えの橋であろうか。踏むべきか、踏まぬべきか、心が迷う」という意味である。恋の歌枕として知られる緒絶川にちなみ、道に迷った自身の心情を、恋における迷いになぞらえて詠んだものである。
源氏物語にも緒絶川が登場し、悲恋の象徴として描かれている。後には松尾芭蕉もこの地に心を寄せ、『奥の細道』に緒絶川の名を記している。実際には道を誤って訪れることは叶わなかったが、奥の細道の日記にその想いを残している。
十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。
ー山梨県立大学 奥の細道石巻
この一節では、芭蕉が「平泉」を目指していたものの、途中で「あねはの松」や「緒絶えの橋」といった名所を訪れようとするも、道がわかりづらく、人通りも少ない山道で迷ってしまい、最終的に石巻の港に出てしまったという様子が描かれている。
そして、恋の歌といえば小野小町。市内には彼女の墓とされる場所がある。京の都を離れ、遠く奥州まで来た小野小町が、途中で果てたという伝説が残っている。彼女もまた、緒絶川の和歌を聞き、この地に想いを馳せてくれたのだろうか。
参考
小野小町とは
平安時代を代表する女流歌人、小野小町。その名は、恋の歌と美の伝説とともに、千年の時を越えて語り継がれている。市内には彼女の墓とされる場所があり、京の都を離れて遠く奥州まで旅をし、途中で果てたという伝説が残っている。
小町の歌には、恋に生き、恋に悩む女性の心が繊細に描かれている。たとえば
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを
ー小野小町
恋する人を夢に見た小町の歌。夢と知っていれば、目覚めずにいたかった──そんな切なさが、緒絶川の流れと重なって見える。緒絶川は、平安時代から歌枕として詠まれた川であり、悲恋の伝説が残る場所。小町もまた、この川の和歌を聞き、遠くから想いを馳せてくれたのかもしれない。
そんな小野小町だが、古川に小野小町の墓があるのでそちらも紹介しておきたい。
〒989-6226 宮城県大崎市古川新田熊野堂前29
荒雄神社と青沼家
市内にある荒雄公園や荒雄神社は、今では市民の憩いの場となっているが、周辺には「船」「港」といった地名が残っている。かつての江合川の大きさと、水運の活況をしのばせる。荒雄神社は立派な社殿を構え、風格がある。素封家・青沼家の寄進によるものだという。青沼家は醸造家で、酒造や味噌などを手掛けていたらしい。ようは仙台藩の肝煎や庄屋ということだろう。荒雄公園の位置にかつて屋敷があり、江合川の水運を活用していたのだろうか──そんな想像が自然と湧いてくる。
所在地:〒989-6105 宮城県大崎市古川福沼1丁目2−1
参考:宮城県神社庁
古川の上水道
古川の水文化を語るうえで、もうひとつ重要なのが上水道の歴史だ。かつては緒絶川の水をそのまま飲料水として使っていたが、明治期にコレラが流行。これをきっかけに、古川では全国に先駆けて上水道の整備が進められた。なんと、明治43年には日本最速級で近代的な水道施設が完成している。
この背景には、地域の危機に対する迅速な対応と、水への深い理解があった。水はただの資源ではなく、命を守るもの。古川の人々はそれを知っていたからこそ、緒絶川の水を守り、次の時代へとつなげていったのだ。
※参考
まとめ
古川という地名は、単なる地理的な呼称ではない。そこには、土地の記憶と文化の層が幾重にも重なっている。宮城県大崎市古川には、江合川と緒絶川という二つの川が流れており、それぞれがこの町の成り立ちと文化を支えてきた。江合川は奥羽山脈を水源とし、大崎平野を潤す命の川。緒絶川は、江合川の旧河道に由来する水路であり、平安時代から歌枕として詠まれた雅な川でもある。
江戸時代、伊達政宗は仙台藩の経済基盤を強化するため、川村孫兵衛を登用し、江合川と北上川を接続する大規模な灌漑工事を行った。この工事により、岩出山大堰から分水された内川が誕生し、古川地域の水路網の基盤となった。内川は岩出山城下を流れる堀川として、城の防衛と生活用水を担い、後に緒絶川や大江川の水源ともなった。政宗が築いた水運ルートは、江合川を通じて太平洋へと至る輸送経路を構想していた可能性もある。
緒絶川には、嵯峨天皇の皇子と白玉姫の悲恋伝説が残されており、「玉の緒(命)が絶えた川」として名付けられたという説もある。藤原道雅の和歌や源氏物語、松尾芭蕉の『奥の細道』にも登場し、文学的な情緒を今に伝えている。市内には小野小町の墓とされる場所もあり、彼女の恋の歌がこの川の流れと重なって響く。
さらに、古川は明治期に全国に先駆けて上水道を整備した町でもある。緒絶川の水を飲料水として利用していたが、コレラ流行を機に近代的な水道施設が完成し、水を命として守る姿勢が地域に根づいた。現在では、緒絶川沿いに藤棚が整備され、春には紫の花が川面を彩り、観光と暮らしをつなぐ風景となっている。
古川という地名には、江合川と緒絶川という二つの川の記憶が宿っている。水は暮らしを支えるだけでなく、文化を育み、記憶を運ぶ。この町の本質は、まさに「川」にある。水の流れに耳を澄ませば、政宗の治水思想、平安の恋の歌、そして現代の暮らしが静かに語りかけてくる。古川は、水と文化が交差する、静かで力強い町なのだ。
