【宮城県色麻町】蝦夷(えみし)文化を訪ねるin色麻柵・清水寺・飾磨
遠く離れた関西で「飾磨(しかま)」という名字の方と出会ったとき、私はふと、故郷・宮城県色麻町(しかまちょう)のことを思い出した。音は同じ「シカマ」。漢字は違えど、その響きが偶然とは思えず、胸の奥でくすぶっていた問いが静かに立ち上がった──この地名には、どんな古代の記憶が眠っているのだろうか。
教科書で習った「蝦夷(えみし)」は、どこか遠い存在だった。だが、東北に生まれ育った私にとって、彼らはこの地を開き、自然と共に生き、豊かな生活基盤を築いてくれた祖先の一人なのではないかと思うようになった。彼らの不屈の精神や、土地に根ざした暮らし方は、今も私たちの中に静かに息づいている。
この旅は、色麻町という舞台で繰り広げられた古代の物語を、単なる歴史の出来事としてではなく、自分自身のルーツとして掘り下げる試みだ。地名に宿る記憶を辿りながら、郷土に秘められた誇りを見つけたい──そんな思いで、私は「シカマ」の語源を追い始めた。
蝦夷とは
蝦夷(えみし)とは、古代日本において東北地方を中心に暮らしていた人々を指す呼称である。大和朝廷の記録では「まつろわぬ民」、つまり服従しない者たちとして描かれ、しばしば軍事的な征伐の対象とされた。だが、彼らは単なる反乱者ではない。統一された国家を持たずとも、地域ごとの族長に率いられ、狩猟や焼畑農業を中心とした独自の生活文化を築いていた。
彼らの暮らしは、自然との深い結びつきに根ざしていた。山や川、動物や植物に霊的な力を認め、祈りとともに生きる。形式的な権威よりも、自然の理(ことわり)に従って暮らすことを尊んだ。後の指導者であるアテルイに象徴されるように、彼らは自らの生活圏と自由を守るために、命をかけて抵抗した。朝廷の軍事力を長期間にわたって押し留めたその姿は、誇り高き祖先の証だ。
蝦夷は、征服されるべき対象ではなく、土地と共に生きる知恵と強さを持った人々だった。彼らの精神は、今も東北の風景の中に、そして私たちの暮らしの中に、静かに息づいている。
色麻町とは
宮城県北西部に位置する色麻町(しかまちょう)は、鳴瀬川の流域に広がる穏やかな町である。現在は農業を中心とした静かな地域だが、その地名には古代から続く深い歴史が刻まれている。「シカマ」という音は、東北の蝦夷語に由来するという説と、西国・播磨国の「飾磨(しかま)」からの移民によってもたらされたという説がある。どちらにせよ、この地が古代の人々の移動と文化の交差点だったことは間違いない。
色麻町には、坂上田村麻呂の勧請によると伝えられる清水寺(清水観音)があり、京都の清水寺との繋がりを示唆する伝承も残っている。また、古代の軍事・行政拠点である「色麻柵(しかまさく)」の存在も指摘されており、この地が蝦夷と朝廷の境界領域として重要視されていたことがわかる。
参考
1.坂上田村麻呂が色麻に残したもの
色麻町の中心部にある清水寺(通称:清水観音)は、地元の人々にとって親しみ深い存在だ。春には桜が咲き、秋には紅葉が境内を彩る。だが、この寺がただの地域の古刹ではないことを知ったのは、ある郷土史の資料に目を通したときだった。
「清水観音は坂上田村麻呂の勧請によると伝えられ、京都清水寺との関係が指摘されている」(色麻町史 通史編 第三章 民間信仰と寺社 p.145)
『色麻町史 通史編』(平成10年 色麻町教育委員会発行)
そこには「坂上田村麻呂勧請」と記されていた。蝦夷征討で知られる田村麻呂が、この地に観音を祀った──その事実は、色麻町が単なる通過点ではなく、古代の信仰と支配が交差した場所であることを物語っていた。
清水寺(坂上田村麻呂公勧請、奈良時代)
所在地:〒981-4101 宮城県加美郡色麻町清水西原北70
坂上田村麻呂とは
坂上田村麻呂は、延暦21年(802年)、征夷大将軍として蝦夷の地に赴き、胆沢城を築いた人物である。彼の軍事行動は、単なる征伐ではなく、朝廷の支配体制を東北に定着させるための政治的・文化的布石でもあった。田村麻呂が信仰したのは観音菩薩──慈悲と救済を象徴する存在だ。京都の清水寺は、彼が創建に関わったとされ、境内には「田村堂」が今も残る。
色麻町の清水寺が、京都の清水寺と同じ観音信仰を受け継いでいるという伝承は、偶然ではない。田村麻呂が蝦夷征討の過程で、戦いの地に観音を祀ったという事実は、この地を単なる占領地ではなく、文化と信仰によって支配する重要な拠点と見なしていたことを示している。武力による制圧だけではなく、仏教という精神的な枠組みを持ち込むことで、土地の人々の心に朝廷の存在を根付かせようとしたのだ。事実、清水神楽がこのお寺を中心に文化財として残っており、地域の方々の信仰の対象になっていることは間違いない。
清水寺観音堂
所在地:〒981-4101 宮城県加美郡色麻町清水西原南70
このような信仰の導入は、色麻町が軍事的な境界であると同時に、中央文化が強く根付いた「信仰のフロンティア」であったことを意味する。清水寺の境内に立つと、静かな空気の中に、遠い時代の緊張と祈りが交錯していたことを感じる。観音像の前に手を合わせるとき、そこには征服者の祈りだけでなく、土地の人々の願いも重なっていたのではないかと思う。
田村麻呂が色麻に残したものは、単なる寺ではない。それは、支配と信仰が交差する象徴であり、蝦夷の地に文化を根付かせようとした朝廷の意志の痕跡でもある。だが、その一方で、観音という存在が持つ慈悲の力は、支配の道具ではなく、土地の人々にとっての救いであり、祈りの対象でもあった。
参考
宮城県庁「きよみず - 色麻町清水地区に伝わる神楽です。」
2. 地名と古墳:古代から続く「シカマ」の二つのルーツ
色麻町という地名には、どこか不思議な響きがある。漢字で書けば「色麻」だが、音は「シカマ」。この音が、遠く離れた兵庫県の「飾磨(しかま)」と一致することに気づいたとき、私は偶然以上の何かを感じた。地名には、土地の記憶が宿る。そして「シカマ」という音には、古代から続く二つのルーツが重なっているように思える。
色麻町の由来・語源
ひとつは、蝦夷語──あるいはアイヌ語に近いとされる古代の言語に由来する説だ。たとえば「シカ・アプ」や「シカ・マ」は、「獲物の場所」「狩猟地」を意味する語として知られている。色麻町が山と川に囲まれ、狩猟に適した地形であることを考えれば、この説は理にかなっている。蝦夷は、自然と共に生きる民だった。彼らは山を神とし、川を神とし、獣を糧としながら暮らしていた。色麻という地名が、そうした蝦夷の生活圏を示す言葉だったとすれば、この土地は彼らの足跡が色濃く残る場所なのだ。
もうひとつは、播磨国(現在の兵庫県)からの移民によってもたらされたという説である。古代、朝廷は蝦夷征討のために西国の兵士を動員し、そのまま現地に住まわせる「柵戸(さくこ)」という移民政策を採った。播磨の兵士がこの地に移り住み、故郷の地名「飾磨(しかま)」を持ち込んだ──そう考えると、色麻町の「シカマ」という音は、中央からの移民と蝦夷の土地が交差した証とも言える。
この二つの説は、対立するものではない。むしろ、色麻町という土地が、蝦夷の生活圏でありながら、朝廷の支配と文化の流入を受けた境界領域だったことを示している。地名は、その土地に生きた人々の記憶の層を映し出す鏡だ。蝦夷語の「シカマ」と、播磨からの「シカマ」が重なり合うことで、この地の複雑な歴史が浮かび上がってくる。
蝦夷塚古墳
そしてもうひとつ、色麻町の古代を語る上で欠かせないのが「蝦夷塚古墳」の存在だ。町内の黒沢新木戸川地区に残るこの古墳は、古墳時代の終わり頃に築かれたとされる円墳で、地元では「蝦夷塚」と呼ばれている。その名が示す通り、この地に暮らしていた蝦夷の有力者を葬った塚である可能性が高い。
古墳は、ただの墓ではない。それは、土地に根ざした人々の信仰と権威の象徴であり、死者への祈りと、未来への継承の場でもある。蝦夷塚古墳がこの地に残っているという事実は、朝廷の支配が及ぶ以前から、色麻町が蝦夷の勢力圏に近く、独自の文化と精神性を持った人々が暮らしていたことを物語っている。
私はこの塚の前に立ったとき、風の音の中に、遠い祖先の声を聞いた気がした。彼らは、中央の権力に従うことなく、自らの暮らしと土地を守り続けた。その誇りは、土の中に、地名の響きに、そして私たちの暮らしの中に、今も静かに息づいている。
蝦夷塚古墳(古墳時代)
所在地:〒981-4111 宮城県加美郡色麻町黒沢新木戸川
3. 色麻柵と蝦夷
色麻町という土地に立つと、どこか静かな力を感じる。それは、風景の美しさだけではない。地名に刻まれた響き、寺の境内に漂う祈りの気配、古墳の土の匂い──それらが重なり合い、目には見えない「記憶の層」がこの地を包んでいるように思える。
「シカマ」という地名には、蝦夷語に由来する説と、播磨国からの移民による命名説がある。前者は、狩猟民として自然と共に生きた蝦夷の生活圏を示すものであり、後者は、朝廷の支配政策の痕跡としての移民定住を物語る。この二つの説は、色麻町が単なる辺境ではなく、文化と民族が交差する「境界の地」であったことを示している。
その境界には、常に緊張があった。蝦夷と朝廷の間には、支配と抵抗のせめぎ合いがあり、色麻町はその最前線だった。色麻柵の存在は、軍事的・行政的な拠点としての役割を担っていたことを示している。
「廿五日。将軍東人従多賀柵発。三月一日。帥使下判官従七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人。鎮兵四百九十九人。當國兵五千人。帰狄俘二百四十九人。従部内色麻柵発。即日到出羽國大室駅。」
出典:『続日本紀』巻第十二 天平九年四月条より
この記述は、将軍・大野東人が多賀柵(現在の宮城県多賀城市)を出発し、騎兵196人ほか約6000人の兵が色麻柵を経由して出羽国(現在の山形県方面)へ向かった軍事行動を記録したものです。色麻柵は、軍事的な中継拠点として機能していたことがわかります。だが、この地がただ征服されたわけではない。清水寺に祀られた観音信仰は、武力による支配の後に、文化と祈りによって土地を包み込もうとした朝廷の意図を映している。
最後に
それでも、色麻町の人々は、ただ受け入れるだけではなかった。蝦夷塚古墳に象徴されるように、この地には朝廷の支配が及ぶ以前から、独自の信仰と文化を持った人々が暮らしていた。彼らは、中央の価値観に飲み込まれることなく、自らの暮らしと誇りを守り続けた。その精神は、地名に、風習に、そして私たちの中に、今も静かに息づいている。
私は思う。色麻町の祖先たちは、時代の大きな流れの中で、常に自分たちの生活と誇りを守り抜いてきた。それは、強さというより「しなやかさ」だった。中央からの文化を受け入れながらも、自分たちの根を見失わない。信仰を通して祈りを捧げながらも、土地の神々を忘れない。そうした融合の姿勢こそが、色麻町の文化の本質なのではないか。
地名「シカマ」に込められた狩猟民の魂。清水観音に象徴される中央文化の波。色麻柵に刻まれた支配と抵抗の歴史──それらは、色麻町が歩んできた道のりを静かに語っている。そしてその道のりは、私たちが今ここに生きていることの意味を問いかけてくる。
祖先たちが残したものは、記録だけではない。それは、風景の中に、言葉の中に、そして私たちの心の中にある。色麻町は、そうした記憶を抱えながら、今も静かに息づいている。そして私たちは、その記憶を受け継ぐ者として、この地に生きている。