【宮城県加美町】地名「加美」の読み方・由来語源をたどり神(加美)の町をたずねるin薬萊山・東山官衙遺跡・賀美石神社
地名は、土地の記憶そのものだ。音の響き、漢字の形、そこに込められた意味──それらは、風景や暮らし、祈りと結びついている。私は地域文化を記録する仕事をしているが、地名の由来を探る旅は、いつも特別な感覚を伴う。今回訪れたのは、宮城県北西部に位置する加美町。奥羽山脈の裾野に広がるこの町は、田園と山岳、信仰と民俗が交差する場所であり、古代からの歴史が静かに息づいている。
「加美(かみ)」という地名は、宮城県内でも特異な響きを持つ。語源には諸説あるが、最も有力なのは「神(かみ)」に由来するという説。古代、この地が神々の鎮座する聖域と見なされていた可能性がある。町のシンボルである薬萊山(やくらいさん)は「加美富士」とも呼ばれ、山岳信仰の対象として地域の人々に崇敬されてきた。
また、加美町はかつて色麻町や中新田町などとともに加美郡を構成していた。郡名としての「加美」は、平安時代の『和名類聚抄』にも登場し、古代から地名として定着していたことが文献上からも確認できる。私はこの地名の背景を探るため、加美町を歩き、神社や川沿いの風景、古い集落を訪ねてみることにした。
加美町とは
加美町は、東西に約32km、南北に約28km、面積は約461平方キロメートルと、県内でも有数の広さを誇る。仙台市からは東北自動車道を使い車で約50分程度、西部は奥羽山脈を隔てて山形県尾花沢市に接し、南部は色麻町、北東部は大崎市に隣接している。地形は西部・北部・南部が山岳・丘陵地となっており、町の中央には一級河川「鳴瀬川」や田川が流れ、流域には肥沃な田園地帯が広がっている。
私は薬萊山の麓へ向かい、加美富士とも呼ばれるその美しい山容を眺めた。山の裾野には広大な田園が広がり、水田と畑が季節の色を映していた。薬萊山は標高553mとそれほど高くはないが、周囲の丘陵地からは端正な姿が際立ち、古くから山岳信仰の対象とされてきた。
町内には魚取沼(うとりぬま)などの湖沼も点在し、天然記念物「鉄魚」が生息するなど、生態系の豊かさも際立っている。寒暖差の大きい内陸型気候で、冬は豪雪地帯に指定されている地域もある。こうした自然環境が、加美町の農業・酪農・林業を支えてきた。
私は川沿いの土手に立ち、遠くに薬萊山を望みながら、「加美」という名が風景と密接に結びついていることを感じていた。
参考
加美町「加美町の概要」
加美町の語源・由来
「加美」という地名は、平安時代の『和名類聚抄』に記録されている。原文では次のように記されている。
陸奥国 加美郡 加美郷 加美 カミ
この記述は、加美郡という行政区分がすでに平安期に存在していたこと、そして「加美」という地名が「カミ」と訓まれていたことを示している。つまり、加美という地名は古代から定着していたものであり、音の変化はなく、漢字表記がそのまま継承されてきたことが文献上からも確認できる。
また、加美町の公式資料では「神の加護を受けた美しい土地」という解釈が紹介されており、地名に込められた精神性が地域のアイデンティティと深く結びついていることがわかる。薬萊山の信仰や、神社・祭り・伝承などの文化的背景は、この解釈を裏付けるものだ。
地名は、風景だけでなく、信仰・軍事・政治・民俗の記憶を内包している。私は文献と風景を照らし合わせながら、「加美」という名が、土地の歴史と人々の営みを静かに語る言葉であることを深く感じていた。
参考
加美町の由来となった神とは
加美町には、古くからの信仰が息づいている。薬萊山の山頂には薬萊神社が鎮座し、山岳信仰の中心として地域の人々に親しまれてきた。社殿は静かに佇み、山の神として五穀豊穣や家内安全を祈る場となっている。山そのものが神であるという感覚は、地名「加美=神の加護を受けた美しい土地」という解釈と響き合っている。
所在地: 〒981-4374 宮城県加美郡加美町上野目大宮7
電話番号: 0229-67-2312
また、町内には「城生柵跡(じょうのさくあと)」や「東山官衙遺跡」など、奈良・平安時代の役所跡とされる史跡が残されている。これらは、加美町が古代において陸奥国と出羽国を結ぶ交通・軍事の要衝であったことを示している。兵士や人馬の往来が激しく、文化の交流点でもあった。
東山遺跡/長者遺跡
所在地:〒981-4413 宮城県加美郡加美町鳥屋ケ崎
民俗文化としては、「中新田の火伏せの虎舞」「小野田の田植踊」「柳沢の焼け八幡」など、県指定の無形文化財に登録された伝統芸能が今も継承されている。これらの祭りは、土地の神への祈りと、自然との共生を願う人々の営みの表れだ。
私は神社の石段に腰を下ろし、風に揺れる木々を眺めながら、「加美」という名に宿る祈りのかたちを静かに感じていた。
賀美石神社を訪ねる
加美町の地名の由来を探る旅の中で欠かせないのが「賀美石神社(かみいしじんじゃ)」である。この社は、延喜式内社として記録される古社であり、町名・郡名の由来とも深く結びついていると言われている。主祭神は猿田彦神だが、本来は「石神社」と呼ばれ、巨石そのものを御神体とする神体石神であった。つまり、賀美石神社は古代の磐座(いわくら)信仰を色濃く残す場であり、土地の記憶を今に伝える存在なのだ。
磐座信仰とは、古代日本において巨石や岩を神の依り代とみなし、そこに神が降臨すると考えた信仰である。社殿を持たない時代、人々は自然の岩や山を神聖視し、祈りを捧げてきた。賀美石神社の「賀美石」もまさにその象徴であり、平成10年(1998年)に旧社地から現在の境内へ移されたこの神座石は、古代から続く信仰の痕跡を静かに伝えている。
由緒によれば、賀美石神社は延喜以前の古社であり、郡名・村名が神号に因んでいるとされる。平安期には「延喜式神名帳」に記載され、国幣小社に列せられた格式を持ち、郡の鎮守として尊崇を集めてきた。大正4年には町内の八坂神社、神明社、八幡神社と合祀され、現在の地に移されたが、本殿は安永8年(1779年)、拝殿は明治12年(1879年)の造営であり、歴史の重みを今に伝えている。
境内に立つと、薬萊山を仰ぐ風景と重なり、「加美=神の加護を受けた美しい土地」という解釈が実感を伴って迫ってくる。巨石を御神体とする賀美石は、古代の磐座信仰と地名の由来を結びつける鍵であり、加美町という名が単なる呼称ではなく、祈りと自然への畏敬を込めた言葉であることを示している。
私は境内の石に手を触れ、風に揺れる木々の音を聞きながら、この地名に宿る祈りのかたちを思った。加美町の由来は、まさにこの賀美石神社に息づいている。
賀美石神社
〒981-4411 宮城県加美郡加美町谷地森根岸91
電話番号:0222226663
参考
相生市図書館「相生市の伝説(06)-磐座(いわくら)神社の巨岩伝説」
大神神社「磐座について - 大和国一宮・三輪明神 大神神社 奈良県」
宮城県神社庁「賀美石神社(かみいしじんじゃ)」
境内由緒記
まとめ
加美という地名は、単なる呼称ではなく、土地の記憶そのものを映し出す言葉である。薬萊山の端正な山容、鳴瀬川の流れ、田園に広がる稲穂、そして神社に息づく信仰や農村の民俗行事──それらが幾重にも重なり合い、加美という名の奥行きを形づくっている。古代には「加美郡」として記録され、平安期の『和名類聚抄』にも「加美郷 加美 カミ」と記されている。地名の音は変わらず、漢字だけが時代とともに変化してきた。そこには「神の加護を受けた美しい土地」という意味が込められているとされ、実際に現地を歩いてみると、その解釈が風景と響き合っていることがよくわかる。
薬萊山の山頂に鎮座する薬萊神社は、山岳信仰の中心として地域の人々に親しまれてきた。山そのものが神であるという感覚は、加美という地名の精神性と響き合い、土地のアイデンティティを形づくっている。また、町内に残る城生柵跡や東山官衙遺跡は、加美町が古代において陸奥国と出羽国を結ぶ交通・軍事の要衝であったことを示しており、文化の交流点としての役割を果たしていた。こうした史跡は、地名が単なる地理的なラベルではなく、政治や軍事、信仰の記憶を内包していることを物語っている。
さらに、賀美石神社の存在は加美町の由来を語る上で欠かせない。延喜式内社として記録されるこの古社は、町名・郡名の由来とも深く結びついている。本来は巨石そのものを御神体とする「石神社」であり、古代の磐座信仰を色濃く残す場である。磐座信仰とは、巨石や岩を神の依り代とみなし、そこに神が降臨すると考えた古代日本の信仰である。賀美石神社の境内にある「賀美石」はその象徴であり、古代から続く祈りの痕跡を今に伝えている。境内に立ち、薬萊山を仰ぐとき、「加美=神の加護を受けた美しい土地」という解釈が実感を伴って迫ってくる。
民俗文化として継承される中新田の火伏の虎舞、小野田の田植踊、柳沢の焼け八幡などの芸能もまた、土地の神への祈りと自然との共生を願う人々の営みの表れである。加美町は、信仰と芸能が暮らしに根づいた場所であり、地名そのものが文化の器となっている。私は現地を歩きながら、地名が風景そのものであることを実感した。見えないものに触れる旅──それが地名の由来を探る旅の本質なのかもしれない。加美という名には、土地の歴史と人々の営み、そして祈りのかたちが確かに息づいているのである。
投稿者プロ フィール

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地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。
