【宮城県栗原市】難読地名「金成」の読み方・語源由来・歌枕「姉歯の松」を追うin炭焼藤太・白山神社
金成の読み方
栗原市にある金成とは「かんなり」と読む。
地名には、土地の記憶と祈りが刻まれている。とりわけ難読地名には、語られずに残された物語が潜んでいることが多い。「金成(かんなり)」──宮城県栗原市に属するこの町名も、そのような記憶の器である。漢字の意味は明快であるが、読み方は特異であり、語源を辿る価値があると感じた。
金成町は、栗駒山の南麓に広がる山間の町であり、古代から金の産出地として知られてきた。奈良時代には陸奥国から朝廷へ金が献上され、天平21年(749年)には東大寺の大仏建立に用いられたという史実が残っている。その後、金成は奥州藤原氏の支配下に組み入れられ、平泉の黄金文化の源流として重要な位置を占めるようになる。
本稿では、金成という地名の語源と歴史、炭焼藤太伝説に見る砂金の記憶、歌枕「姉歯の松」に刻まれた別れの情、そして白山神社や常福寺に伝わる祈りの痕跡を辿りながら、地名に宿る風景と信仰の重層性を紐解いていく。栗原の地を歩きながら、地名が語る物語に耳を澄ませる旅が始まる。
次は、金成という地名の語源と歴史的背景について詳しく見ていく。
金成の語源──金が成る土地と祈願成就の伝承
「金成」という地名の由来について調べると、いくつかの説があるようだ。最も有力なのは、当地が古代より金を産出した土地であるという説である。栗駒山周辺には金山が点在し、奈良時代には陸奥国から朝廷へ金が献上された記録も残っている。特に天平21年(749年)、陸奥国から献上された金が東大寺の大仏建立に用いられたという史実は有名である。
その後、金成は奥州藤原氏の支配下に組み入れられ、陸奥の入り口として重要な位置を占めるようになる。奥州藤原氏は平泉に金色堂を建立し、黄金の阿弥陀仏を造立するなど、金と深く関わる文化を築いた。彼らは大陸との交易も盛んに行い、金色堂には琉球産の夜光貝を用いた螺鈿細工が今も拝観できる。金成は、そうした黄金文化の源流のひとつであった。
また、「成」の字については、単なる語尾ではなく「成就」「成立」「功徳が成る」といった仏教的意味合いを帯びていた可能性がある。金が産出されるだけでなく、祈りが叶う土地としての性格が、地名に込められていたと考えられる。
参考
炭焼藤太伝説──砂金と祈りの物語
金成町には「炭焼藤太」の伝説が残されている。藤太は清水観音のお告げにより都から訪れた於古屋姫と結ばれ、裏山で砂金を発見して長者となったと語られている。この物語は、金成が金の産地であったことを裏付ける民間伝承であり、地名の由来と信仰の交差点を象徴するものである。
藤太夫婦の墓は町内の常福寺裏山にあり、正徳5年(1715年)に佐々木氏によって碑が建立された。寺の境内には伝承を記した案内板も設置されており、地域の人々がこの物語を大切に守り続けていることが伝わってくる。
炭焼藤太夫婦の墓
所在地:〒989-5111 宮城県栗原市金成日向14−3
参考
姉歯の松へ──歌枕に詠まれた風景を歩く
金成町を訪れたからには、古代から歌枕として知られる「姉歯の松」にも足を運ばねばならない。町の南端、姉歯地区にあるこの松は、かつて旅人が道中の無事を祈り、別れを惜しんだ場所として知られている。『伊勢物語』には以下のような一首が見える。
栗原や 姉歯の松の 人ならば 都のつとに いさといわましを
この歌は、栗原の姉歯の松に住む人であれば、都に帰る旅人に「急いでお帰りなさい」と言っただろうに、という別れの情を詠んだものである。姉歯の松は、旅の節目に立ち寄る名所として、古代から文学に刻まれてきた。
現在の姉歯の松は、かつての松が枯れた後に植え継がれたものであるが、周囲の風景は今も静かにその記憶を宿している。筆者は松の根元に立ち、風に揺れる枝の音に耳を澄ませた。地元の方が手入れを続けている様子からも、この地名が単なる記号ではなく、地域の誇りとして守られていることが伝わってきた。
所在地:〒989-5173 宮城県栗原市金成梨崎南沢6−1
参考
岩手大学リポジトリ「歌枕<姉歯の松>の形成過程 - 岩手大学リポジトリ」
松尾芭蕉『奥の細道』と姉歯の松
松尾芭蕉もまた、この姉歯の松に強い憧れを抱いていた。『奥の細道』には、以下のような記述がある。
十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがへて、石の巻といふ湊に出。
芭蕉は元禄2年(1689年)5月12日、平泉を目指して旅を続ける中で、「姉歯の松」や「緒絶の橋(大崎市古川)」といった歌枕の地を訪れようとした。しかし、道は人跡稀で、雉や兎、柴を刈る人々が行き交うばかりで、道筋も定かではなく、ついには道を踏み違えて石巻の港に出てしまった。
その後、芭蕉は金花山を海上に望み、宿を探すも見つからず、ようやく小家に一夜を明かす。翌朝も道に迷いながら、袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などを眺めつつ、長沼に沿って戸伊摩(といま)に宿泊し、ようやく平泉に到着する。姉歯の松は、芭蕉にとって「聞き伝えた名所」であり、実際には訪れることが叶わなかった幻の歌枕であった。
この記述は、歌枕の地が単なる観光地ではなく、文学的憧れと旅の困難が交差する象徴であったことを示している。芭蕉は姉歯の松にたどり着けなかったが、その名を記すことで、旅の情緒と文化的記憶を読者に伝えようとしたのである。
参考
山梨県立大学「奥の細道石巻」
白山神社と常福寺──祈りの場としての金成
町内には白山神社や常福寺など、古代からの信仰を伝える寺社が点在している。白山神社は坂上田村麻呂が戦勝祈願のために勧請したと伝えられ、後に源頼朝も奥州藤原氏追討の際に参拝したとされる。現在でも、坂上田村麻呂にちなんだ白山神社の「小迫の延年行事」が金成地区で継承されており、武神信仰と芸能文化が融合した民俗行事として知られている。
常福寺には炭焼藤太夫婦の墓が残されており、地域の史跡として今も顕彰されている。これらの寺社は、金成が単なる鉱山の町ではなく、祈りが息づく土地であることを物語っている。
筆者は白山神社の社殿に手を合わせ、常福寺の裏山に登って藤太の墓を訪ねた。風景の中に物語が溶け込み、地名の意味が静かに立ち上がってくるように感じられた。
白山神社
所在地:〒989-5184 宮城県栗原市金成小迫山神77
電話番号:0228421823
参考:小迫の延年|宮城県栗原市
まとめ文
金成町(かんなりちょう)は、宮城県栗原市に属する山間の町であり、奈良時代から金の産出地として知られてきた。天平21年(749年)には陸奥国から献上された金が東大寺の大仏建立に用いられ、後には奥州藤原氏の支配下に組み込まれた。平泉の金色堂に見られる黄金文化や螺鈿細工は、金成を含む陸奥の産金によって支えられていた。
地名「金成」は、金の産出を意味する「金」に加え、「成就」「成立」といった仏教的な意味合いを持つ「成」が重ねられた可能性がある。炭焼藤太伝説に見られる砂金の発見と観音信仰は、金と祈りが交差する土地としての金成の性格を物語っている。
また、姉歯の松は『伊勢物語』に詠まれた歌枕として知られ、都人と陸奥の女性との別れの情が刻まれている。「栗原や 姉歯の松の 人ならば 都のつとに いさといわましを」という歌は、都の男が田舎の女性に対し「もしあなたが姉歯の松のような名高い美人であったなら、都への土産に連れて帰ったのに」と皮肉を込めて詠んだものである。女はその意味を理解せず、喜んで受け取ったという哀切な物語が背景にある。
金成町には白山神社や常福寺など、古代からの信仰を伝える寺社も点在しており、地名に宿る祈りの痕跡が今も息づいている。黄金の伝説と文学的記憶が交差するこの地を歩くことで、地名が語る物語の深さを実感することができた。