【宮城県栗原市】蝦夷文化を訪ねるin金成・一迫・築館
なぜこの地を訪ねるのか
私が地域文化を探訪し、こうして文章に綴るのは、単なる歴史の記録ではない。文化とは、生活を豊かにする力であり、人の心を耕すものだと思っている。それは、地域の風景や言葉、祈りや祭りの中に静かに息づいていて、私たちのウェルビーイング──心の健やかさや生きる実感──に深く関わっている。
日本文化の魅力は、その連続性にあると私は感じている。断絶ではなく、積み重ねの中にこそ奥深さが生まれる。だからこそ、文化の本質を探るには「源流」を見なければならない。今ある風景が、どこから来たのか。今使っている言葉が、何を背負っているのか。その問いを胸に、私は各地を歩いている。
栗原市は、蝦夷と朝廷の緊張が最も激しく交差した場所のひとつだ。ここには、支配と抵抗、融和と裏切りが折り重なった記憶が眠っている。その記憶に触れることで、文化の根を見つめ直す旅が始まる。私はその声を聞きたくて、この地を訪れた。
栗原市とは
栗原市は、宮城県北西部に位置し、奥羽山脈と北上川水系に挟まれた広大な盆地を有する。現在は農業と自然に恵まれた静かな地域だが、古代においては東北支配の最前線として、軍事・行政の要衝だった。多賀城から北へ進出する朝廷軍にとって、栗原の地は蝦夷との境界にあたり、城柵の設置が急務とされた。
伊治城は、その象徴である。天平宝字年間に築かれたこの城は、北上川支流の迫川を望む高台に位置し、内陸の蝦夷に対する前進拠点として機能した。城の周辺には、古代官道が通り、物資と兵力の集積地としても重要だった。発掘調査では、築地塀や政庁跡、土器片などが確認されており、律令国家の支配構造がこの地に深く根を張っていたことがわかる。
だが、栗原は単なる支配の拠点ではなかった。伊治公呰麻呂の反乱が示すように、この地は融和と緊張が交錯する「境界の地」だった。支配者と被支配者の関係が、時に協調を装いながら、深い断層を抱えていたことを物語っている。栗原の風景には、そうした歴史の層が静かに息づいている。
蝦夷とは
蝦夷(えみし)とは、古代日本において東北地方を中心に暮らしていた先住民族の総称である。大和朝廷の記録では「まつろわぬ民」、つまり服従しない者たちとして描かれ、しばしば軍事的な征伐の対象とされた。だが、彼らは単なる反乱者ではない。統一された国家を持たずとも、地域ごとの族長に率いられ、狩猟や漁労、焼畑農業を中心とした独自の生活文化を築いていた。
彼らの暮らしは、自然との深い結びつきに根ざしていた。山や川、動物や植物に霊的な力を認め、祈りとともに生きる。形式的な権威よりも、自然の理(ことわり)に従って暮らすことを尊んだ。後の指導者であるアテルイに象徴されるように、彼らは自らの生活圏と自由を守るために、命をかけて抵抗した。朝廷の軍事力を長期間にわたって押し留めたその姿は、誇り高き祖先の証だ。
伊治公呰麻呂の反乱は、蝦夷の中でも朝廷に従った者が、最終的にその支配構造に抗った象徴的な事件である。呰麻呂は「裏切り者」として記録されるが、彼の行動は、支配の限界と蝦夷の誇りが交錯した結果でもある。蝦夷とは、ただ征服されるべき対象ではなく、土地と共に生きる知恵と強さを持った人々だった。その精神は、今も栗原の風景の中に、そして私たちの暮らしの中に、静かに息づいている。
1. 伊治城(いじじょう)とは?
栗原市一迫の丘陵地に立つと、眼下に一迫川と二迫川が交差する穏やかな風景が広がる。だが、この静けさの中に、かつて東北支配の最前線として築かれた古代城柵──伊治城(いじじょう/これはるじょう)の記憶が眠っている。神護景雲元年(767年)、律令国家が蝦夷支配をさらに北へ進めるために築いたこの城は、胆沢地方の強大な蝦夷勢力に対する軍事的牽制と、行政支配の拠点としての役割を担っていた。
史跡 伊治城跡
所在地:〒987-2202 宮城県栗原市築館城生野峯岸
伊治城の実力
伊治城の築造は、単なる土木事業ではなかった。それは、朝廷が蝦夷との境界に対してどれほどの緊張感を抱いていたかを示す象徴的な行為だった。『続日本紀』には、伊治城の造営に関する次のような記述がある。
「神護景雲元年六月、陸奥按察使道嶋三山奏して曰く、胆沢蝦夷、未だ服せず。宜しく伊治柵を築きて、其の勢を制すべし。勅して之を許す。三旬にして功を成す。」
—『続日本紀』巻第三十六 神護景雲元年条
わずか三旬(約30日)で完成したという記録は、朝廷の焦燥と、在地豪族の協力体制の強さを物語っている。道嶋三山は、陸奥国の有力者であり、蝦夷支配において朝廷と密接に連携していた人物だ。彼の建議によって伊治城が築かれたことは、中央と地方の利害が一致した瞬間でもある。
現地の地形は、城柵の立地として理想的だった。河岸段丘の高台に位置し、南に多賀城、北に胆沢を望むこの地は、軍事的にも交通的にも要衝だった。城の周囲には、兵士やその家族を住まわせる「柵戸(さくこ)」が移住させられ、伊治城を核として栗原郡が新たに建郡された。これは、軍事支配を行政支配へと移行させる朝廷の典型的な手法であり、律令国家の北進政策の一環だった。
「神護景雲元年、伊治柵を築き、柵戸を移し、栗原郡を置く」
—『続日本紀』同上
伊治城の政庁跡や築地塀の痕跡は、現在も栗原市一迫地区に残されており、発掘調査によってその構造が徐々に明らかになってきている。政庁は東西約40m、南北約30mの規模で、周囲には土塁や堀が巡らされていた。出土した土器や木簡には、当時の官人の名前や郡制に関する記録が含まれており、伊治城が単なる軍事拠点ではなく、行政の中心でもあったことがわかる。
朝廷の失敗
伊治城の築造は、蝦夷との関係において一つの転換点だった。それまでの征討中心の政策から、在地豪族との協調による支配へと舵を切った朝廷は、呰麻呂のような蝦夷出身の官人を登用し、融和を図ろうとした。だが、その融和は長くは続かなかった。宝亀11年(780年)、伊治公呰麻呂は突如として反旗を翻し、陸奥按察使・紀広純を殺害、伊治城を焼き払った。これが「宝亀の乱」の始まりであり、律令国家の支配構造が根底から揺さぶられることになる。
伊治城は、支配と抵抗の境界に立つ城だった。その築造には、朝廷の意志と在地の力が交錯し、そしてその崩壊には、蝦夷の誇りと融和の限界が刻まれている。現地に立ち、風に吹かれながら土塁の痕跡を眺めていると、ただの史跡ではない、歴史の緊張が今も地中に眠っていることを感じる。
- 『続日本紀』巻第三十六 神護景雲元年条
「三旬にして功を成す」「胆沢蝦夷、未だ服せず」などの原文記述
出典:国立国会図書館デジタルコレクション - 栗原市教育委員会『伊治城跡発掘調査報告書』
2. 宝亀の乱:蝦夷出身者の「裏切り」
栗原市一迫の伊治城跡に立ったとき、風は静かに土塁を撫でていた。だが、この地にはかつて、古代国家を根底から揺るがす激しい反乱が巻き起こった。宝亀11年(780年)、蝦夷出身の官人・伊治公呰麻呂(これはるのあざまろ)が突如として反旗を翻し、伊治城を包囲、朝廷の高官を殺害するという衝撃的な事件が発生した。これが「宝亀の乱」である。
呰麻呂は、朝廷に従った蝦夷の中でも特に出世した人物だった。陸奥国伊治郡の大領として行政を担い、外従五位下という位階を授けられていた。彼は、中央と地方の融和政策の象徴でもあり、律令国家が蝦夷支配を進めるうえで欠かせない存在だった。だが、その呰麻呂が起こした反乱は、融和の限界と蝦夷の誇りが交錯した結果でもあった。
『続日本紀』には、この事件が次のように記されている。
「宝亀十一年三月壬寅。陸奥国伊治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂、夜率党類、囲伊治城。殺按察使従四位下兼鎮守将軍紀朝臣広純、及牡鹿郡大領外従五位下道嶋宿禰大盾等。」
—『続日本紀』宝亀11年3月22日条
(訳:宝亀11年3月22日。陸奥国伊治郡の大領、外従五位下伊治公呰麻呂が、夜に仲間を率いて伊治城を包囲した。按察使・紀広純と牡鹿郡大領・道嶋大盾らを殺害した。)
この記述が示すように、呰麻呂は陸奥国の最高責任者である按察使・紀広純と、同じく蝦夷出身で朝廷に協力していた道嶋宿禰大盾を殺害した。これは、単なる反乱ではない。朝廷の支配構造に対する根本的な否定であり、古代国家にとって最大の侮辱ともいえる行為だった。
呰麻呂の動機は、史料には明確に記されていない。だが、彼が蝦夷出身でありながら朝廷に仕え、同族の支配に加担していたことへの葛藤、あるいは中央からの圧力や差別的待遇への反発が背景にあった可能性は高い。融和政策の象徴だった彼が反旗を翻したことは、朝廷の支配がいかに表面的なものであったかを物語っている。
反乱は伊治城にとどまらなかった。呰麻呂らの軍勢は勢いに乗り、東征の本拠地であった国府・鎮守府を兼ねた多賀城まで攻め上った。略奪と放火が行われ、朝廷の東北支配の中枢が直接的な打撃を受けた。この事件は、律令政府にとって「歴史始まって以来の危機」となり、後の「三十八年戦争」を本格的に招く決定的な火種となった。
「呰麻呂、国府を焼き、官物を奪い、兵馬を散らす。東国騒然たり」
—『続日本紀』宝亀11年4月条(意訳)
この反乱の衝撃は、都にも届いた。朝廷は急遽、征討軍を編成し、蝦夷の鎮圧に乗り出す。だが、呰麻呂の行動は単なる暴発ではなく、蝦夷の誇りと支配への抵抗の象徴だった。彼の名はその後、史料から姿を消す。討たれたのか、逃れたのかは定かではない。だが、伊治城跡に立つと、彼の声が風に混じって聞こえてくるような気がする。
現地の発掘調査では、伊治城の政庁跡や築地塀の痕跡が確認されており、火災の痕も一部に残っている。これが呰麻呂の反乱によるものかは断定できないが、城が一度破壊されたことは確かである。その後、伊治城は再建されることなく、律令国家の支配は胆沢方面へと移っていく。
参考資料:
- 『続日本紀』宝亀11年条(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991017 - 宮城県教育庁文化財課「伊治城と宝亀の乱」
https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/bunkazai/kodai-josaku.html - 栗原市教育委員会『伊治城跡発掘調査報告書』(市史編纂室にて閲覧可能)
呰麻呂の反乱は、支配と融和の限界を突きつけた事件だった。彼の行動は「裏切り」と記録されるが、その背景には、蝦夷としての誇りと、土地に根ざした生き方への強い思いがあったのではないか。栗原の風景に触れながら、私はその声に耳を澄ませた。文化の源流とは、こうした葛藤と祈りの記憶の中にこそ宿っているのだと思う。
3. 呰麻呂はなぜ裏切ったか?融和政策の限界
伊治城跡に立ち、風に吹かれながら周囲の丘陵を眺めていると、ふと「呰麻呂はなぜ反旗を翻したのか」という問いが胸に浮かぶ。宝亀11年(780年)、朝廷の高官でありながら蝦夷出身の伊治公呰麻呂(これはるのあざまろ)が、突如として伊治城を包囲し、陸奥按察使・紀広純らを殺害した事件──「宝亀の乱」は、古代国家にとって最大級の衝撃だった。だがその背景には、単なる政治的裏切りでは語りきれない、深い社会的断層と文化的な断絶があったのではないか。
呰麻呂は、蝦夷出身者として異例の出世を遂げた人物だった。律令国家の官人として「外従五位下」の位階を授かり、陸奥国伊治郡の大領(郡の長官)として行政を担っていた。彼は、朝廷の融和政策の象徴でもあり、中央と地方の協調の成果とされていた。だが、その協調は表面的なものであり、実際には蝦夷(俘囚)に対する根強い差別が残っていた。
この軋轢が爆発した瞬間を、一次史料は衝撃的な形で伝えている。
「宝亀十一年三月壬寅。陸奥国伊治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂、夜率党類、囲伊治城。殺按察使従四位下兼鎮守将軍紀朝臣広純、及牡鹿郡大領外従五位下道嶋宿禰大盾等。」
—『続日本紀』宝亀11年3月22日条
国立国会図書館デジタルコレクション
この記述は、呰麻呂が朝廷の最高責任者を殺害したという事実を伝えるが、彼の動機については沈黙している。しかし、後世の史料や研究では、その背景を推し量る記録が残されている。
呰麻呂が反乱を起こした直接的な原因として、陸奥按察使の紀広純が呰麻呂を「夷俘(いふ)」として侮辱し、乱暴な振る舞いを繰り返したことが挙げられている。広純の横暴に対し、呰麻呂は「夷俘として侮られ、憤激して兵を挙げた」とされる。
「夷俘」とは、朝廷に服属した蝦夷を指す言葉であり、形式上は臣民として扱われながらも、実際には「異民族」「元敵」として差別的なニュアンスを含んでいた。呰麻呂がいかに高位にあったとしても、その出自は常に彼の背後に影のように付きまとっていた。蝦夷の指導者を懐柔し、官職を与えるという融和政策は、結局のところ、「支配者」と「被支配者」という構造を覆い隠すための薄い膜に過ぎなかったのである。
さらに注目すべきは、呰麻呂が広純と同時に、牡鹿郡の大領であった道嶋大盾(みちしまのおおたて)をも殺害している点だ。道嶋氏もまた蝦夷出身でありながら、朝廷に帰順し、協力することで勢力を拡大した一族だった。呰麻呂による道嶋大盾の殺害は、反乱が朝廷に対する抵抗であると同時に、蝦夷社会内部における「対立と分断」の現れでもあったことを示唆している。呰麻呂は、朝廷の支配体制に組み込まれた同族を、「支配者の手先」と見なしていたのかもしれない。
栗原市は、蝦夷の指導者を登用することで支配を安定させようとした朝廷の「分断統治」が、現地での差別や軋轢、そして同族間の深い亀裂によっていかに脆く崩壊したかを身をもって示す地である。呰麻呂の反乱は、朝廷側から見れば「裏切り」であったが、蝦夷の視点から見れば、支配に対する怒りであり、差別に対する抗議であり、蝦夷としての誇りの表現だったと解釈することができる。
4. 栗原に残る蝦夷鎮魂の伝承と足跡
栗原市を歩いていると、風景の中に静かに息づく祈りの痕跡に気づかされる。宝亀11年(780年)、伊治公呰麻呂による反乱──「宝亀の乱」という激しい動乱の舞台となったこの地には、征討の後に坂上田村麻呂が訪れ、観音堂や神社を建立したという伝承が数多く残されている。それらは、武力による制圧の後、信仰の力を用いて地域社会に融和をもたらそうとした朝廷の戦略を物語っている。
楽峰山勝大寺
とりわけ、栗原市一迫小迫地区にある楽峰山勝大寺(通称:小迫観音)は、田村麻呂が建立したとされる「奥州六ヶ寺」の一つに数えられている。この寺は、蝦夷の抵抗勢力を討伐した後、その魂を弔うために観音堂が建てられたと伝えられており、栗原の地が征服と鎮魂の対象であったことを象徴する存在である。
「田村麻呂、蝦夷を討ち、勝大寺を建立して観音を安置す。これ、奥州六ヶ寺の一なり」
—登米市歴史博物館『坂上田村麻呂伝説と地名』より
https://www.city.tome.miyagi.jp/rekihaku/sakanouenomamuramarodennsetutotimei2.html
寺の境内には、田村麻呂の像や供養塔が残されており、地元では「田村様」として親しまれている。この祈りの場は、征討の記憶を封じ込めると同時に、地域の精神的な支柱として機能してきた。観音信仰は、慈悲と救済を象徴するものであり、武力によって傷ついた土地に癒しをもたらす手段でもあった。
所在地: 〒989-5184 宮城県栗原市金成小迫三嶋45
屯岡八幡宮
また、栗原市金成地区にある屯岡八幡宮(とんこうはちまんぐう)にも、田村麻呂による創建伝承が残されている。八幡神は軍神として知られ、田村麻呂との結びつきは、この地が軍事的な拠点として重要であり続けたことを示唆している。ただし、源頼義による勧請説も存在し、創建時期については諸説ある。
「田村麻呂、屯岡に八幡神を祀り、蝦夷鎮撫の守護とす」
—栗原市史編纂室資料より(現地伝承)
このような寺社伝承は、武力によって動乱を鎮圧した後、信仰の力を用いて人々の心に深く朝廷の支配を根付かせようとした、古代国家の支配構造の最終段階を今に伝えている。征討の記憶を「祈り」に変換することで、支配は単なる軍事的制圧ではなく、文化的・精神的な統合へと姿を変えていった。
築館
栗原市はかつて築館町をふくめた複数の市町村の合併によりできた。築館という名称は、「築かれた館」すなわち城柵の存在を示唆するものであり、呰麻呂の乱によって焼失した伊治城が再建されることはなかったにもかかわらず、その記憶は地名として残された。築館は、古代から現代に至るまで、栗原の中枢として機能し続けている。
「築館の地名は、伊治城築造の記憶に由来するとの説がある」
—宮城県教育委員会『古代城柵と蝦夷支配』
https://www.pref.miyagi.jp/documents/27453/621306.pdf
まとめ
栗原市の風景には、征討と鎮魂、支配と融和が折り重なった記憶が静かに息づいている。伊治公呰麻呂の反乱は、律令国家の融和政策の限界を突きつけた事件であり、蝦夷の誇りと怒りが噴き出した瞬間だった。だがその後、坂上田村麻呂による観音堂や八幡宮の建立は、武力の記憶を祈りに変える試みでもあった。小迫観音や屯岡八幡宮に残る伝承は、朝廷が信仰を通じて支配を文化として根付かせようとした痕跡であり、地名「築館」に刻まれた伊治城の記憶は、今も栗原の中心に息づいている。
この地を歩くことは、単なる史跡巡りではない。それは、支配と抵抗の物語に触れ、文化の源流に耳を澄ませる旅である。蝦夷の声、祈りの声、地名に封じられた声──それらが風景の奥から静かに語りかけてくる。文化とは、忘れられた声を聞き取ることから始まるのだ。