【宮城県】日本三大船祭り「塩竈みなと祭」の見どころや歴史、神輿渡御をたずねるin鹽竈神社・志波彦神社・松島湾
仙台から車で約30分、マグロの町として有名な塩竈の夏は、海と神輿が交差する。潮風が吹き抜ける松島湾に、雅楽の音が響き、白衣の担ぎ手たちが二百二段の石段を駆け下りる。神輿は街を抜け、港へ向かい、御座船に乗せられて海へと漕ぎ出す──その一連の流れを目の当たりにしたとき、私は「祭りとは祈りの航路なのだ」と感じた。
塩竈みなと祭は、宮城県塩竈市で毎年7月の「海の日」に開催される。日本三景・松島湾を舞台に、鹽竈神社と志波彦神社の神輿が御座船「鳳凰丸」「龍鳳丸」に奉安され、約100隻の供奉船を従えて海上を巡幸する。陸上では「よしこの鹽竈」や「塩釜甚句」に合わせて市民が踊り歩き、前夜祭の花火大会が夏の始まりを告げる。
私はこの祭りに初めて足を運んだ。朝の表坂にはすでに人が集まり、神輿の発輿を待っていた。雅楽が鳴り響き、「御発ち!」の掛け声とともに、黒漆塗の鹽竈神社神輿と赤漆塗の志波彦神社神輿が石段を下りていく。その姿は、神々が人々の暮らしへと降りてくる瞬間のようだった。
港では御座船が待っていた。鳳凰丸の艶やかな装飾、龍鳳丸の龍頭の意匠──それぞれが神輿を乗せ、海へと漕ぎ出す。松島湾の島々を背景に、供奉船の大船団が進む様子は、まるで平安絵巻のような幻想的な光景だった。
この祭りは、単なる観光イベントではない。海と神輿、町と神社、祈りと暮らしが交差する、塩竈の記憶そのものだ。私はその空気を肌で感じながら、塩竈の夏を歩いた。
参考
塩釜市「第78回塩竈みなと祭」
塩釜市観光物産協会「塩竈みなと祭」
塩竈みなと祭の歴史
塩竈みなと祭が始まったのは昭和23年(1948)、戦後の混乱が続く中だった。港町塩竈の産業復興と、市民の心の再生を願って、地域の人々が力を合わせて立ち上げた祭りである。
当初は「海の記念日」に合わせて7月10日に開催されていたが、昭和38年からは盛夏の好機を選び、8月5日に変更。さらに昭和39年には水産業界の寄進により、志波彦神社の神輿と御座船「龍鳳丸」が加わり、祭りは一層華やかになった。
平成元年には「よしこの鹽竈」が導入され、市民参加型の陸上パレードが始まる。平成17年からは「海の日」に開催されるようになり、前夜祭の花火大会とともに、東北の夏祭りの先陣を切る存在となった。
平成18年には水産庁から「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に認定され、平成26年には「ふるさとイベント大賞」で内閣総理大臣賞を受賞。現在では「塩竈みなと祭」は、”日本三大船祭り”を称され、地域の祈りと誇りを今に伝える、海の感謝祭として定着している。
参考
日本三大船祭りとは?
日本三大船祭りとは、海を舞台に神輿や神事が行われる三つの祭典を指す。広島県の厳島神社「管弦祭」、神奈川県真鶴町の貴船神社「貴船まつり」、そして宮城県塩竈市の「塩竈みなと祭」がその三つである。
いずれも海と神社の深い関係を背景に持ち、神々を船に乗せて巡幸することで、海の安全や豊漁、地域の繁栄を祈願する。管弦祭は雅楽を奏でながらの船渡り、貴船まつりは漁業と水の神への感謝、塩竈みなと祭は鹽土老翁神を海へお連れする感謝の儀式──それぞれが地域の信仰と文化を体現している。
塩竈みなと祭は、松島湾という日本三景を舞台に、神輿を乗せた御座船が約100隻の供奉船を従えて海上を巡幸する。その規模と美しさは全国でも屈指であり、海と神事が織りなす祭典の魅力を存分に味わえる。
参考
塩竈みなと祭の見どころ「神輿渡御と御座船」
塩竈みなと祭の最大の見せ場は、神輿海上渡御である。鹽竈神社と志波彦神社の神輿が、御座船「鳳凰丸」「龍鳳丸」に奉安され、松島湾を巡幸する。その姿は、まるで平安時代の絵巻物を現代に再現したかのような幻想的な光景だ。
鳳凰丸は昭和23年の第1回みなと祭から中心行事として活躍してきた御座船で、現在の船は昭和40年に建造された二代目。絢爛豪華な装飾は全国にも知られ、仙台藩の御用船を原型とする威容を誇る。
龍鳳丸は昭和39年、辰年にちなんで龍頭をあしらって建造された。志波彦神社の神輿を乗せるために水産業界が寄進したもので、赤漆塗の神輿とともに、海上渡御に華を添える。
御座船を中心に、約100隻の供奉船が松島湾を進む様子は圧巻である。島々を背景に、神輿と船団が織りなす風景は、海と信仰が交差する塩竈ならではの文化の結晶だ。
日本三大荒れ神輿|鹽竈神社と志波彦神社の神輿の違い
塩竈みなと祭の神輿渡御は、東北屈指の迫力を誇る。その中心にあるのが、鹽竈神社と志波彦神社の二基の神輿である。特に鹽竈神社の神輿は「日本三大荒れ神輿」の一つに数えられ、京都の祇園祭・東京の神田祭と並ぶ格式と迫力を持つ。
鹽竈神社の神輿は享保18年(1733)に京都で造られたとされる黒漆塗の華麗な神輿で、重さは約1トン。担ぎ手は白衣をまとい、清紙で口を覆った無言の氏子たち。雅楽が鳴り響く中、表坂二百二段の急勾配をゆっくりと下りていく姿は、神事としての厳粛さと荒々しさが同居する。
一方、志波彦神社の神輿は昭和39年(1964)に水産業界の寄進によって奉納された赤漆塗の神輿。日光で新調され、龍鳳丸に乗せて海上渡御に加わる。鹽竈神社の神輿が古式に則った荘厳さを持つのに対し、志波彦神社の神輿は近代の塩竈の産業と地域の活力を象徴する存在だ。
両神輿は、みなと祭のときだけ一緒に渡御する。海と陸を巡るその姿は、塩竈の信仰と歴史、そして町の誇りを体現している。
よしこの鹽竈と塩釜甚句
塩竈みなと祭は、神輿渡御だけではない。陸上では市民による踊りと唄が町を彩る。「よしこの鹽竈」と「塩釜甚句」──この二つの民謡が、塩竈の記憶を今に伝えている。
「よしこの鹽竈」は平成元年(1989)に導入された新しい唄と踊り。音楽家・寺内タケシ氏が塩竈の伝統民謡「塩釜甚句」から着想を得て作曲した。江戸時代に流行した「よしこの節」という日本独特のリズムを取り入れ、マーチやサンバと並ぶ世界三大リズムの一つとも言われる。市内の小中学校や市民団体が参加し、約3,000人が踊り歩くパレードは、祭りの熱気を一気に高める。
一方、「塩釜甚句」は元禄期に鹽竈神社の社殿造営を祝う余興として生まれたとされる。「ハットセ」という掛け声が特徴で、明朗闊達な郷土民謡として親しまれてきた。婦人会による「ハットセ踊り」は、みなと祭の陸上パレードの定番であり、町の歴史と文化を体で表現する場でもある。
唄と踊りは、神輿と同じく祈りのかたち。塩竈の人々は、音と動きで神々と町をつなぎ続けている。
参考
MMTミヤギテレビ「OH!バンデス」
2025年塩竈みなと祭をたずねる
2025年7月21日、私は塩竈みなと祭の本祭に足を運んだ。朝9時過ぎ、鹽竈神社の表坂にはすでに多くの参拝者と見物客が集まり、神輿の発輿を待っていた。空は晴れ渡り、松島湾からの潮風が境内を吹き抜ける。雅楽が鳴り響き、「御発ち!」の掛け声とともに、黒漆塗の鹽竈神社神輿がゆっくりと石段を下りていく。続いて赤漆塗の志波彦神社神輿が降り、二基の神輿が市内へと繰り出す。
私は神輿を追って港へ向かった。西埠頭には御座船「鳳凰丸」と「龍鳳丸」が待機しており、神輿を乗せる準備が進められていた。鳳凰丸の艶やかな装飾、龍鳳丸の龍頭の意匠──どちらも神輿を奉安するにふさわしい威容を誇っていた。やがて神輿が船に乗せられ、供奉船約100隻を従えて松島湾へと漕ぎ出す。
私は事前に購入していた塩釜市の銘菓「しほがま」を取り出して潮の香と共にいただいた。同じく鹽竈神社の藻塩焼神事で作られた藻塩が入っている伝統的な和菓子だ。もちろん美味しいのだが、それ以上に塩釜文化を感じる。
湾内では、島々を背景に御座船が進む。桂島、寒風沢、野々島──神輿が海を渡る姿は、まるで神々が海を巡って人々の暮らしを見守るかのようだった。私は船着場からその様子を見守りながら、塩竈という町がいかに海とともに生きてきたかを実感した。
午後には市内で「よしこの鹽竈」パレードが始まった。小学生から高齢者まで、踊り手たちが笑顔で通りを練り歩く。「ハットセ!」の掛け声が響き、塩釜甚句のリズムが町を包む。神輿が還御する頃には、表坂下に再び人が集まり、担ぎ手たちが力の限り石段を上る姿に歓声が湧いた。
この祭りは、神輿と船、唄と踊り、そして人々の祈りが交差する場だった。塩竈みなと祭は、単なるイベントではない。海と町と神々がつながる、塩竈の魂そのものだと感じた。
まとめ
塩竈みなと祭は、単なる夏の風物詩ではない。それは、海と祈り、神と人、過去と現在が交差する、塩竈という町の記憶そのものである。神輿が表坂二百二段を下り、御座船に乗って松島湾を巡幸するその姿は、まるで神々が海を渡り、町を見守るかのような荘厳さを帯びている。
この祭りの中心には、鹽竈神社と志波彦神社という二つの神社がある。黒漆塗の鹽竈神社神輿と、赤漆塗の志波彦神社神輿──それぞれが異なる歴史と信仰を背負いながら、年に一度だけ並び立ち、海と陸を巡る。御座船「鳳凰丸」と「龍鳳丸」に奉安された神輿は、約100隻の供奉船を従えて松島湾を進み、その光景はまさに平安絵巻のような幻想を描き出す。
陸上では「よしこの鹽竈」や「塩釜甚句」が響き、市民が踊り歩く。唄と踊りは、神輿と同じく祈りのかたちであり、町の人々が自らの手で文化を継承している証でもある。前夜祭の花火大会から始まり、神輿の還御まで、塩竈の町全体が祭りの舞台となる。
この祭りが生まれたのは、戦後間もない昭和23年。港町の産業復興と市民の心の再生を願って始まった。以来、塩竈みなと祭は地域の誇りとして育まれ、平成には「ふるさとイベント大賞」内閣総理大臣賞を受賞するまでに至った。
塩竈みなと祭は、神輿を担ぐ力強さと、海を渡る静けさ、そして町を包む唄と踊りの温かさが共存する、稀有な祭りである。そこには、塩竈という町が海とともに生きてきた歴史と、神々への感謝が確かに息づいている。海と祈りが交差するこの祭りは、これからも塩竈の魂を映し出し続けるだろう。
