【宮城県】南蛮人に唯一日本最強の城と評された「仙台城」の秘密をたずねる|大手門や脇櫓・隅櫓・石垣など見どころ・歴史、いつなくなったのか等を解説
仙台市青葉区、青葉山の頂に築かれた仙台城——通称「青葉城」。伊達政宗が築いたこの城は、かつて南蛮人(スペイン人探検家セバスティアン・ビスカイノ)に「日本で最も優れた城」と評された堅城である。現在は仙台城跡・青葉城址として整備され、石垣や門跡、隅櫓の遺構が静かに往時の姿を伝えている。
私はこの仙台城の“最強”とされた理由を探るべく、実際に現地を歩き、石垣の構造や地形の工夫、そして南蛮人の記録を辿った。城というと天守閣のある華やかな建築を思い浮かべがちだが、仙台城には天守が存在しなかった。それでもなお、政宗が築いたこの城は、軍事的・地形的に極めて優れた構造を持ち、国際的にも高く評価された。
青葉山の急峻な地形を活かした天然の要害、切込接ぎや算木積みといった高度な石垣技術、そして本丸・二の丸・三の丸の巧みな配置。仙台城は、政宗の戦略的思考と美意識が融合した城であり、単なる防御施設ではなく、政治と文化の中心でもあった。
この記事では、仙台城の構造と歴史、南蛮人ビスカイノによる評価、そして現地に残る遺構の魅力を通じて、「なぜ仙台城は最強と呼ばれたのか?」を紐解いていく。
参考
観光スポット:仙台城跡(伊達政宗公騎馬像) - せんだい旅日和
仙台市「仙台城の紹介-仙台城の歴史」
青葉城本丸会館「伊達政宗公 - 仙台城」
所在地:〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1番地
仙台城とは何か
仙台城は、慶長6年(1601年)、伊達政宗によって築城が開始された。場所は仙台市青葉区、広瀬川を望む青葉山の頂。宮城県民からは、山の名称から「青葉城」、もしくは五橋から近いため「五橋城」とも呼ばれている。政宗はこの急峻な地形を活かし、天然の要害としての城を構想した。城の構造は、軍事的な堅牢さと政庁としての機能を兼ね備えたものだった。
仙台城には天守閣が存在しなかった。これは政宗が「見せる城」よりも「守る城」を重視したためとされる。代わりに本丸には政宗の居館が置かれ、二の丸・三の丸がそれを囲むように配置された。城の中心である本丸は、青葉山の頂にあり、周囲を断崖で囲まれているため、攻めるには極めて困難な構造だった。この断崖に城を作るという政宗の戦略は、かつて10年以上拠点としていた大崎市岩出山城でも同様で、政宗の城づくりの原点が見られれる。
石垣の技術も特筆すべき点だ。仙台城では「切込接ぎ」や「算木積み」といった高度な技法が用いられ、石材同士がぴたりと組み合わされている。これにより、地震にも強く、長年風雨にさらされても崩れにくい構造が保たれている。現在も本丸跡や大手門跡にその石垣が残されており、職人の技術の高さを実感できる。当時、大阪堺から石垣の職人が仙台城建設のため呼ばれており、そのまま仙台に移住した記録が残っている。事実、仙台市内には石垣町という町名が残っている。仙台城建設後も、石垣のメンテナンスや、若林城や藩内の軍事施設の建設に携わったのだろうか。
また、城の周囲には複数の門が設けられていた。大手門、巽門、清水門などがあり、それぞれが城の防御と出入りの役割を担っていた。特に大手門は、仙台城の正面玄関として重厚な構えを見せていたが、明治以降の軍用地化や戦災によって失われ、現在は石垣と門跡が残るのみとなっている。
仙台城は、単なる軍事施設ではなく、政宗の政治・文化の拠点でもあった。城下町の整備、寺社の配置、そして広瀬川を挟んだ都市計画は、政宗の先見性と統治理念を反映している。仙台城は、地形・技術・思想の三位一体によって築かれた、まさに“堅城”だったのだ。
仙台城 本丸北壁石垣
〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内
南蛮人探検家が「日本最強の城」と評した理由
仙台城が「日本最強の城」と評された背景には、南蛮人——スペイン人探検家セバスティアン・ビスカイノの訪問がある。慶長16年(1611年)、ビスカイノは徳川幕府の命を受けて日本を訪れ、太平洋航路の調査と外交交渉を行った。その際、仙台藩を訪れ、伊達政宗と面会している。
ビスカイノは仙台城を実際に視察し、その構造と立地に驚嘆した。彼の記録には
「この城は当国にある最強で最良の城のうちの一つである」
と記されており、特に青葉山の地形を活かした防御性と、石垣の技術に感銘を受けたとされる。政宗が築いたこの城は、南蛮人の目から見ても、戦略的・技術的に卓越していたのだろう。
この評価は、単なる建築的な驚きだけではない。政宗は、スペインとの外交に積極的であり、後年には大名の中で徳川以外では初めて遣欧使節団を派遣するなど、国際的な視野を持っていた。ビスカイノとの面会も、政宗の外交戦略の一環であり、仙台城はその舞台となった。
政宗は、城を単なる防御施設ではなく、外交と文化の発信地として位置づけていた。ビスカイノが見た仙台城は、堅牢さだけでなく、政宗の国際感覚と政治的野心を体現した空間だったのだ。
また、ビスカイノの記録は、仙台城の国際的価値を示す貴重な資料である。日本国内では「天守がない城」として地味に見られがちな仙台城だが、海外の視点から見ると、その構造と思想は極めて先進的だった。政宗の築いた仙台城は、まさに“世界に開かれた城”だったのである。
参考
仙台市「仙台城の紹介-仙台城について」
南蛮人探検家セバスティアン・ビスカイノとは
仙台城が「日本で最も優れた城」と評された背景には、スペイン人探検家セバスティアン・ビスカイノの訪問がある。彼は慶長16年(1611年)、徳川幕府の命を受けて来日し、太平洋航路の調査と外交交渉を目的に日本各地を訪れた人物である。
ビスカイノは、スペイン王フェリペ3世の使節として派遣され、駿府で徳川家康と面会した後、仙台藩を訪問。伊達政宗と謁見し、仙台城を実際に視察した。その際、青葉山の地形を活かした構造や石垣の技術に驚き、「日本で最も優れた城の一つ」と記録に残した。
彼の報告は、スペイン本国にも伝えられ、仙台城の国際的な評価を高める一因となった。政宗はこの機会を外交戦略に活かし、ビスカイノとの交流を通じて、後の遣欧使節団(支倉常長のローマ派遣)へと繋げていく。
ビスカイノは探検家であると同時に、外交官・地理学者としても優れた人物だった。彼の航海記録には、地形や城郭の詳細な描写が含まれており、仙台城の構造的優位性が客観的に記されている。特に、天守を持たずとも防御力に優れた設計、石垣の精緻さ、城下町との連携などが高く評価された。
仙台市博物館には、ビスカイノの来訪を記録した資料が展示されており、政宗との面会の様子や当時の外交の雰囲気を知ることができる。また、彼が持参した贈答品や地図の写しなども残されており、仙台城が国際的な舞台となったことを物語っている。
参考
主な収蔵品 12 支倉常長に関する資料(目次)|仙台市博物館
サン・ファン館「慶長遣欧使節と支倉常長」
仙台城の見どころ
仙台城跡を歩くと、政宗が築いた堅城の構造が今も地形に刻まれているのを感じる。本丸跡に立つと、広瀬川と仙台市街を一望できる。この眺望こそ、政宗が青葉山を選んだ理由のひとつだろう。天然の断崖と川が防御線となり、城を守る要害となっていた。
まず目に入るのは、本丸の石垣。切込接ぎの技法で積まれた石は、400年以上の風雪に耐え、今も美しい稜線を描いている。算木積みの角部は特に見事で、職人の技術の高さがうかがえる。石垣の上には伊達政宗騎馬像が立ち、仙台の象徴として観光客を迎えている。
本丸跡には「仙台城見聞館」があり、発掘調査の成果や城の構造を模型や映像で学ぶことができる。展示されている瓦や陶器、武具の破片は、城が単なる軍事施設ではなく、生活と文化の場でもあったことを物語っている。
仙台城見聞館
〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1−11
電話番号:0222148544
城の正面玄関である「大手門跡」は、かつて巨大な門と脇櫓が構えていた場所だ。現在は石垣と案内板が残るのみだが、往時の威容を想像するには十分な迫力がある。大手門は昭和20年の仙台空襲で焼失し、復元が待たれている。
巽門、清水門、辰巳門などの門跡も点在しており、それぞれが城の防御と出入りの役割を担っていた。特に巽門は、城下町と本丸を結ぶ重要な通路であり、政宗の居館へのアクセス路でもあった。
隅櫓や脇櫓の跡も見逃せない。これらは城の角や要所に設けられた防御施設で、敵の侵入を防ぐ役割を果たしていた。現在は礎石や石垣が残るのみだが、配置の巧みさから、政宗の戦略的思考が感じられる。
仙台城跡は、ただの観光地ではない。歩くことで、政宗の築いた都市構造と防御思想、そして職人たちの技術に触れることができる。石垣の隙間に草が揺れ、風が抜ける音に耳を澄ませると、城が生きていた時代の気配が静かに蘇る。
参考
仙台市「仙台城のみどころ-登城路<大手門から」
仙台城はいつなくなったのか
仙台城が「なくなった」と言われるのは、明治以降の歴史的変遷による。明治6年(1873年)、廃城令が発布され、全国の城が軍用地や公共施設に転用された。仙台城も例外ではなく、本丸は陸軍の施設として使用され、建物の多くが取り壊された。
昭和20年(1945年)の仙台空襲では、大手門や脇櫓などが焼失。城の象徴的な建築物は失われ、仙台城は「城跡」としての姿に変わっていった。戦後は市民の憩いの場として整備され、石垣や門跡が保存されるようになった。
平成以降、仙台市と市民団体による復元活動が進められ、石垣の修復や案内板の整備、見聞館の設置などが行われた。特に本丸の石垣は、震災後の復旧工事によって安全性と景観が両立され、今では多くの観光客が訪れる場所となっている。
大手門の復元については、現在も議論が続いている。文化財としての価値、景観との調和、そして市民の記憶をどう継承するか——それらをめぐって、行政と市民の間で意見交換が行われている。復元は単なる再建ではなく、歴史との対話でもある。
仙台城が「なくなった」とは、物理的な建物が失われたという意味であり、記憶としての城は今も生き続けている。石垣、門跡、資料館、そして市民の語り——それらが仙台城の記憶を支えている。
政宗が築いた仙台城は、時代の波に揉まれながらも、今も仙台の中心に静かに佇んでいる。城がなくなったのではない。形を変えて、記憶として残り続けているのだ。
参考
レファレンス協同データベース「青葉城が取り壊されたことについて,その時期と」
朝日新聞「政宗没後400年へ 仙台城大手門の復元に本腰 仙台」
まとめ
仙台城は、伊達政宗が築いた堅城であり、南蛮人セバスティアン・ビスカイノに「日本で最も優れた城」と評された歴史を持つ。青葉山の急峻な地形を活かした構造、天守を持たない合理的な設計、そして切込接ぎや算木積みの石垣技術——そのすべてが、政宗の戦略的思考と美意識を体現している。
私は実際に仙台城跡を歩き、本丸の石垣、大手門跡、隅櫓の遺構、そして仙台城見聞館を訪ねた。現地に残る石と地形は、城が単なる建築物ではなく、都市構造と政治思想の結晶であることを教えてくれる。
仙台城は、明治の廃城令と昭和の空襲によって建物の多くを失ったが、石垣や門跡、資料館を通じて記憶としての城は今も生きている。復元活動や市民の語りによって、政宗の築いた城は形を変えながらも、仙台の中心に息づいている。
南蛮人が驚いた仙台城の秘密は、構造の巧みさだけではない。それは、政宗の国際感覚と都市設計、そして職人たちの技術と誇りが融合した、唯一無二の城だったからだ。
仙台城を歩くことは、歴史と記憶に触れる旅である。石垣の隙間に風が通り、広瀬川の流れが聞こえるその場所に、政宗の野心と仙台の誇りが今も静かに息づいている。
