【宮城県大崎市】難読地名「尿前」の由来・語源をたどる旅in鳴子温泉・尿前の関
地名は、土地の記憶を編み込んだ器だ。私は地域文化を記録する仕事をしている。各地の地名の由来や伝承、神社の祭神、産業の背景を掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。
今回訪れたのは、宮城県大崎市鳴子温泉地域にある「尿前(しとまえ)」という峠の地名。初見では驚きを覚えるこの名に、私は強く惹かれた。峠の名に「尿(しと)」が冠されるのは珍しく、何かしらの民俗的・地形的背景があるはずだと思った。
尿前峠は、鳴子温泉郷の北西に位置し、江戸時代には出羽街道の難所として知られていた。松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途上で越えた峠でもあり、句「蚤虱 馬の尿する 枕もと」が詠まれた場所としても知られている。私はその句の情景と地名の由来を確かめるため、峠道を歩いた。
峠の空気はひんやりとして、杉木立の間から遠く山形との境が見えた。地名が語る風景は、今も静かに息づいていた。
参考
大崎市「尿前の関(尿前御番所跡)」
「おくのほそ道 散策マップ~出羽街道中山越 芭蕉の道を訪ねて~」
尿前の読み方
「尿前」は「しとまえ」と読む。初見では驚きを覚える地名だが、鳴子温泉郷の北西に位置する峠の名として、江戸時代から記録に残る由緒ある呼称である。出羽街道の難所として知られ、松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途上で越えた峠としても有名だ。
地元では「しとまえ峠」「しとまえの関」などと呼ばれ、鳴子から山形方面へ抜ける交通の要所だった。現在も「尿前御番所跡」として史跡が整備されており、峠の文化的・歴史的価値が見直されている。
読み方の「しと」は、古語の「しとど(しっとり)」や「しとしと(雨の音)」に通じる柔らかな響きを持ち、峠の湿潤な空気感とも重なる。地名の印象は強烈だが、実際には風土と文学が交差する静かな峠である。
尿前の語源・由来
「尿前(しとまえ)」という地名は、古くから峠の名として記録されている。江戸期の地誌や街道図にも「尿前峠」の名が見られ、鳴子から山形方面へ抜ける出羽街道の要所であった。語源には諸説あるが、有力なのは「しと(尿)」=水の流れや湿地を意味する古語に由来するという説。峠道に湧水や湿地が多く、馬や旅人が立ち止まって用を足す場所だったことから「尿前」と呼ばれるようになったとも言われる。
また、「しと」は「湿(しめ)」に通じ、湿潤な地形を指す場合もある。峠の地形は水捌けが悪く、雨や雪解けでぬかるむことが多かった。旅人にとっては「しとど(しっとり)」とした難所であり、馬の尿や人の排泄が目立つ場所でもあった。地名に「前」が付くことで、「しと(湿地・尿場)の手前」=峠の入り口という意味合いも加わる。
さらに、源義経の子が鳴子温泉で生まれ、この尿前ではじめて尿をしたから、という説もある。事実、鳴子温泉の最古旅館である姥の湯には、鳴子温泉の由来が、源義経の子の産声である、という言い伝えがある。
このように、尿前という地名は、峠の地形と旅人の身体性が交差する民俗的な記憶を宿している。地名は、風景と暮らしの痕跡を言葉にしたものだ。尿前──その名には、峠の湿地と旅の生理が静かに息づいている。
所在地:〒989-6827 宮城県大崎市鳴子温泉尿前
松尾芭蕉の句「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿する 枕もと」
松尾芭蕉が尿前峠を越えたのは、元禄2年(1689)5月16日。『おくのほそ道』の旅の途上、芭蕉は旧有路家住宅 封人の家に泊まり、翌朝この峠を越えて出羽国(現在の山形)へ向かった。その夜に詠まれた句が、
蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと
である。
この句は、旅の疲れと粗末な宿の情景を、写実的かつ滑稽に描いたもの。蚤(のみ)と虱(しらみ)に悩まされ、馬がすぐそばで尿をする──そんな不衛生で騒々しい環境の中で眠る旅人の姿が浮かび上がる。芭蕉はこの句を、尿前峠の手前の宿で詠んだとされ、峠の名と句の内容が奇妙に響き合っている。
「尿前」という地名が、馬の尿と枕元という句の情景をより生々しく感じさせる。峠の湿地、馬の足音、旅人の疲れ──それらが交差する一夜の記憶。芭蕉はその不快さを笑いに昇華し、旅のリアリティを句に刻んだ。
私は峠道を歩きながら、芭蕉が見たであろう風景を想像した。杉木立の間に湧水が流れ、馬の足跡がぬかるみに残る。地名と句が重なり合うことで、尿前という言葉は、旅の身体性と風土の記憶を静かに語り始める。
参考:山梨県立大学「奥の細道尿前の関」
所在地:〒999-6106 山形県最上郡最上町堺田59−3
まとめ
尿前という地名は、峠の地形と旅人の身体性が交差する、民俗的な記憶の器である。鳴子温泉郷の北西に位置する尿前峠は、江戸時代の出羽街道の難所として知られ、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で越えた場所でもある。芭蕉が詠んだ句「蚤虱 馬の尿する 枕もと」は、尿前の名と響き合い、旅の不快さと滑稽さを写実的に描いている。
「尿前」という名には、湿潤な地形、湧水、馬の尿──旅人が立ち止まり、用を足し、疲れを癒す場所としての峠の風景が刻まれている。「しと」は古語で湿地や水の流れを意味し、「前」は峠の入り口を示す。地名は、風景と暮らしの痕跡を言葉にしたものだ。
さらに、源義経の子が鳴子温泉で生まれ、尿前で初めて尿をしたという伝承も残る。鳴子温泉の最古の宿「姥の湯」には、義経の子の産声が温泉の由来とされる物語があり、尿前という名にもその記憶が重なる。
私は尿前峠を歩きながら、芭蕉が見たであろう風景を想像した。杉木立の間に湧水が流れ、馬の足跡がぬかるみに残る。地名と句が重なり合うことで、尿前という言葉は、旅の身体性と風土の記憶を静かに語り始める。
「尿」は単なる排泄ではなく、水の記憶でもある。「前」は旅の始まりでもある。尿前──その名には、湿地と風土、旅と身体、そして詩と笑いが静かに息づいている。