【宮城県女川町】地名「女川」の読み方・由来語源をたどる旅in黒森山・女川橋(おながわばし)
三陸の入り江へ
地名は、土地の記憶を映す鏡だ。音の響き、漢字のかたち、そこに込められた意味──それらは、風景や暮らし、祈りと結びついている。私は地域文化を記録する仕事をしている。各地の伝統産業や民俗、地名の由来を掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。
今回訪れたのは、宮城県牡鹿郡女川町。三陸沿岸のリアス式海岸に抱かれたこの町は、海とともに生きる漁業の町として知られている。東日本大震災で甚大な被害を受けながらも、復興の歩みを進めるこの地に、私は地名の由来を探る旅として足を運んだ。
「女川(おながわ)」という名には、どこか柔らかく、そして神秘的な響きがある。私はその言葉の背景にある風景と記憶を探るため、女川湾を望む高台に立ち、川の流れをたどり、町の人々の語りに耳を傾けてみることにした。そして、地名の由来となった「女川」をこの目で見ようと、女川港の駐車場に車をとめ、女川橋まで歩いて向かった。潮風に吹かれながら、川の流れと町の記憶を重ねるような時間だった。
参考
女川町「女川町誌 206/1094」
女川町「町の紹介」
女川の読み方・語源由来
女川とは、「おながわ」と読む。女川の由来語源は、女川町の西方、黒森山の麓にあたる奥地に「安野平(あのたいら)」から流れ出る渓流──それが「女川」の名の由来とされている。
女川町誌によれば、平安時代の前九年の役の際、安倍貞任の軍勢が隣村の稲井(現在の石巻市稲井)に寄り、源氏方と戦った。そのとき、一族の婦女子を安全地帯であった安野平に避難させたという。そこから流れ落ちる小川を、人々は「女川」と呼ぶようになった──そう伝えられている。
この伝承は、地名が単なる地形の記述ではなく、人々の記憶と祈りの重なりであることを物語っている。避難の地、命を守る場所──「女川」という名には、静かな力が宿っている。
私はその由来に触れたとき、どうしても実際の「女川」を見てみたくなった。女川港の駐車場に車をとめ、女川橋まで歩いて向かう。橋の上から見下ろす女川は、海へと注ぐ穏やかな流れを見せていた。周囲には復興した町並みが広がり、川の両岸には人々の暮らしの気配がある。かつてこの川が、命を守る避難の記憶を宿していた──そのことを思いながら、私はしばらく橋の上に立ち尽くしていた。
〒986-2282 宮城県牡鹿郡女川町宮ケ崎川尻24−1
参考:女川町観光協会「女川の魅力 | おながわたび|女川町観光協会」、宮城県「二級河川 雄勝・牡鹿・女川圏域河川整備計画」
藩政時代の女川
江戸時代、女川は仙台藩領に属していた。藩では領内を南方、北方、中奥、奥の四つに区分しており、女川がある牡鹿郡は中奥に属していた。さらに牡鹿郡は陸方と浜方に分かれ、浜方は狐崎組、十八成組、女川組に細分され、それぞれに大肝入が置かれていた。
この「女川組」は、藩政時代の行政単位であり、女川浜はその中心地だった。1889年の町村制施行により、女川組に属する20浜の各村が合併して女川村となった。村名に「女川」が選ばれたのは、女川浜が大肝入の居住地であり、全地域が女川組としてまとめられていたこと、そして地の利を得ていたことによるとされている。
私は旧女川組の浜を歩きながら、地名が行政と暮らしの記憶を重ねていることを実感した。浜ごとに異なる風景と語りがあり、漁業と信仰が交差する場所に、地名の力が宿っている。女川という名は、単なる川の名ではなく、地域の中心としての記憶を背負っているのだ。
女川湾
女川町の中心に広がる女川湾は、三陸沿岸でも特に水深が深く、天然の良港として知られてきた。外海にでればすぐに潮目で、ギンザケやサンマが全国の漁港の中でも大量にとれる。現在でも郷土料理は「サンマのすりみ汁」やカツオの刺身、ホヤなどが有名。湾はリアス式海岸の入り組んだ地形に抱かれ、外洋からの波を和らげる構造を持つ。私は女川港の岸壁に立ち、静かな水面を眺めながら、この湾が長く人々の暮らしと歴史を支えてきたことを思った。
かつて塩釜港や石巻港が整備される以前、日本海軍の艦船が女川湾に停泊していたという。その深さと地形が、大型船舶の碇泊に適していたからだ。昭和初期には軍港誘致の請願も行われ、第二次世界大戦中には横須賀鎮守府隷下の「女川防備隊」が設置され、艦艇が配置された。1945年8月9日には連合国軍機による空襲を受け、海軍艦艇7隻が撃沈されたという記録も残っている。
この湾は、漁業の港であると同時に、戦争の記憶を抱えた場所でもある。私は岸壁に立ち、復興した港の風景を眺めながら、地名「女川」が持つ二重の意味──命を守る渓流の記憶と、海の防衛線としての歴史──を静かに感じていた。
湾の奥には女川橋が架かり、その下を女川が流れている。私は再び橋の上に立ち、川と海が交差する場所を見下ろした。そこには、地名の語源となった風景が、今も静かに息づいていた。
まとめ
女川という地名は、ただの呼び名ではない。それは、渓流と避難の伝承、浜の行政区分、そして海と軍港の記憶が交差する場所に生まれた言葉だ。安野平から流れ出る小川に、一族の命を託した人々の記憶──それが「女川」という名の始まりだった。
藩政時代の女川組、そして町村制以降の女川村・女川町へと続く地名の変遷は、土地の構造と人々の営みを静かに映している。女川浜が大肝入の居住地であったこと、行政の中心であったこと──それらが地名として選ばれた背景には、地勢と人の動きが重なっている。
そして女川湾。漁業の港であり、戦争の記憶を抱えた港でもあるこの場所は、地名の響きに深みを与えている。私は女川港から女川橋まで歩き、実際に女川の流れを見た。その穏やかな水面に、かつての避難の記憶と、今を生きる町の姿が重なっていた。
語源の正確な答えは、時代の層の中に埋もれている。だが、現地を歩き、風景に触れ、語りを聞くことで、地名が生まれた背景に少しずつ近づくことはできる。女川──その名は、海と川と人の営みが織りなす、静かで力強い記憶の器だった。