【宮城県大崎市】田尻の加護坊山訪問記
「加護坊山」という名前に、私はずっと引っかかっていた。坊が加護する山──僧侶が守る山とは、いったいどんな由来なのか。地名には、土地の記憶が刻まれている。そう信じている私は、実際にその場所に足を運ぶことにした。
加護坊山があるのは、宮城県大崎市田尻地区。東北の中でも古代の文献が乏しい地域だが、現地には確かな痕跡が残っている。田尻では、縄文時代の遮光器土偶が出土しており、文化庁の文化遺産データベースにも登録されている。この土偶は、縄文晩期(紀元前1000〜400年頃)に作られたもので、様式化が進んだ造形からも、当時の人々の精神性が垣間見える。
人が文明を築いた痕跡が残るということは、その土地が人間にとって理想的な場所だった証だ。水があり、食べ物が採れ、風が通る。そんな場所に人は集まり、文化が生まれる。今でこそ地方は過疎化が進んでいるが、文化という視点で見れば、こうした歴史の深い土地こそが“文化資源の宝庫”なのではないか。
蝦夷と朝廷と田尻
加護坊山のふもとには、蝦夷の横穴群がある。蝦夷──古代日本において、大和朝廷に属さなかった人々。東北地方には、彼らの文化が根付いていたとされる。田尻には、五大柵のひとつ「新田柵」が置かれていた。これは奈良時代に築かれた軍事拠点で、朝廷が蝦夷との境界に設けた施設だった。
新田柵の発掘調査では、築地塀や八脚門、竪穴住居跡などが確認されており、当時の緊張感が地形に刻まれている。征夷大将軍・坂上田村麻呂が派遣された時代、この地にも朝廷軍が駐屯していた可能性は高い。加護坊山の地形を見れば、それも納得がいく。
山頂に広がる芝生と大崎平野の眺望
加護坊山の登山道を歩きながら、私はふもとの横穴群に思いを馳せた。なぜ蝦夷はこの場所に住んだのか。山頂に近づくにつれ、視界が開けてくる。最後の丘を登りきると、そこには天然の芝生が広がっていた。まるで楽園のような風景。風が抜け、鳥の声が響く。丘の上からは、大崎平野が一望できた。
加護坊山が戦いの舞台となった背景には、地形的な優位性がある。標高223mの山頂からは、大崎平野を360度見渡すことができ、軍事的な監視拠点として理想的だった。東西南北、どこから敵が来てもすぐにわかる。ここを陣取れば、戦略的にも優位だっただろう。蝦夷がふもとに住んだ理由も、地形を見れば納得がいく。
古代、朝廷が蝦夷との境界に築いた五大柵のひとつ「新田柵」が田尻に設けられたのも、この地形を活かすためだっただろう。
征夷大将軍・坂上田村麻呂が派遣された時代、この地には朝廷軍が駐屯し、蝦夷との戦闘が繰り広げられたとされる。加護坊山のふもとに残る横穴群は、蝦夷の居住跡とも考えられており、戦乱の記憶が地形に刻まれている。国家安楽寺が建立されたのも、こうした戦いの犠牲者を弔うためだったという説がある
田尻と箟岳丘陵の戦略的価値
加護坊山が戦いの場となった背景には、地形や蝦夷との境界というだけでなく、もっと根源的な“資源”の存在があったのではないか──そう考えると、すべてがつながって見えてくる。
天平21年(749年)、陸奥国守・百済王敬福が朝廷に黄金900両を献上したという記録が『続日本紀』に残されている。この黄金は、奈良の東大寺盧舎那仏(大仏)の鍍金に使われたとされ、日本史上初の産金記録として知られている。産出地は箟岳丘陵──加護坊山もその一角に位置している。
この出来事は、単なる鉱物資源の発見ではなく、国家的な吉兆と受け止められた。聖武天皇は元号を「天平」から「天平感宝」に改め、大伴家持は万葉集にこう詠んだ。
天皇(すめろき)の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に黄金花咲く
黄金の出現は、国家の繁栄と仏法の加護を象徴する“花”だった。このような象徴性を持つ資源が、辺境の地から献上されたことは、朝廷にとって大きな意味を持ったはずだ。
では、その黄金の地を朝廷がどう扱ったか。田尻には、奈良時代に築かれた五大柵のひとつ「新田柵」が設置された。これは、蝦夷との境界に築かれた軍事拠点であり、支配の拡大を目的とした城柵だった。発掘調査では、築地塀、八脚門、掘立柱建物、竪穴住居、炉跡などが確認されており、8世紀後半の軍政拠点としての機能が明らかになっている。
ここで注目すべきは、砂金の献上が天平21年(749年)、新田柵の設置が天平9年(737年)と、時期が近接していることだ。つまり、朝廷はこの地に軍事拠点を築いた後、産金地としての価値を認識し、より強固な支配体制を敷いた可能性がある。
蝦夷との戦いは、単なる文化的対立ではなく、資源をめぐる争いでもあったのではないか。加護坊山のふもとに残る蝦夷の横穴群は、彼らがこの地に根を張っていた証であり、朝廷がその土地を奪取するために軍事的圧力を強めたと考えるのは自然だ。
黄金という国家的資源を確保するために、田尻は“本格的に取られた”のではないだろうか──その痕跡が、加護坊山の地形、国家安楽寺の建立、そして新田柵の遺構に刻まれている。戦いの記憶と祈りの跡が重なり合うこの地は、まさに“文化の交差点”であり、“資源と信仰の境界”だった。
参考
国家安楽寺跡──祈りの場としての加護坊山
山頂には「国家安楽寺跡」と刻まれた石碑が立っていた。合併前の田尻町が建立したものらしい。国家安楽寺は、天武天皇の時代に建立されたと伝えられ、戦乱の犠牲者を弔うための寺院だった。比叡山に似た山容から「東比叡山」とも称されたという。
現在では寺は消失し、跡地だけが残っているが、涌谷町の箟岳山にある「金峰寺(こんぽうじ)」がその流れを継いでいる。天台宗の寺院であり、加護坊山とのつながりを感じさせる。
加護坊山から見える文化的風景──イグネと耕土
山頂からの眺望は格別だった。眼下には世界農業遺産にも登録された大崎耕土が広がり、蕪栗沼の水面が陽光にきらめいていた。蕪栗沼は国内最大級の渡り鳥の飛来地であり、冬には数万羽のマガンが舞い降りるという。
その風景の中に、点在する小さな森が見えた。これは「イグネ」と呼ばれる大崎地域独自の防風林。ヤマセと呼ばれる冷たい風を防ぐために、家の周囲に果樹などを植えたものだ。今では独自の生態系を育み、自然との共存の象徴となっている。
最後に
加護坊山を訪れてみて、私は改めて「文化とは何か」を考えさせられた。地名の由来に惹かれて足を運んだこの山には、想像以上に多層的な歴史が刻まれていた。縄文時代の遮光器土偶、新田柵の軍事遺構、蝦夷の横穴群、そして国家安楽寺跡──それぞれが異なる時代の記憶を語っている。
特に印象的だったのは、箟岳丘陵から産出した黄金の存在だ。天平21年、陸奥国から献上された砂金は、奈良の大仏の鍍金に使われたとされ、国家的な吉兆として万葉集にも詠まれた。朝廷がこの地に軍事拠点を築いた背景には、蝦夷との境界というだけでなく、資源を確保する意図があったのではないか。田尻が“本格的に取られた”という仮説は、地形と歴史を重ねることで説得力を持ってくる。
山頂に広がる芝生と大崎平野の眺望は、まるで楽園のようだった。風が抜け、鳥の声が響く中で、私はこの土地の静けさと、そこに流れる長い時間を感じていた。眼下には世界農業遺産・大崎耕土が広がり、点在する「イグネ」が自然との共存の知恵を物語っていた。
加護坊山は、戦いと祈り、資源と信仰が交差する場所だった。語られていない物語が、風景の中に静かに息づいている。文化は、語ることで力を持つ。この地の記憶を、もっと多くの人に伝えていきたい。