【宮城県大崎市】伊達政宗の城下町「岩出山」の由来・歴史を訪ねる|岩出山城や城山公園、しの竹細工、酒まんじゅう、凍み豆腐など紹介
地域文化ライターとして宮城の町々を歩くと、地名や伝承、職人技や芸能にこそその土地の魅力が凝縮されていることを実感する。文化は目に見える建物や祭りだけでなく、町の背景にあるストーリーに宿るものであり、それを知るには現地を訪れ、歩き、観察し、人々の声を聞くことが欠かせない。私にとってフィールドワークは旅であり、町を行脚することで文化の水脈を掘り起こす作業でもある。
宮城県大崎市岩出山は、その典型とも言える町である。農業の町という印象が強い大崎市の中にあって、岩出山はかつて伊達政宗が居所を構えた城下町であり、今も静かに武士の文化が息づいている。城山に築かれた岩出山城跡は、仙台の青葉城址を思わせる自然の要塞であり、そのふもとには日本最古の藩校建築「有備館」が佇む。さらに本町通りには、京都から伝わったしの竹細工や大阪由来の酒まんじゅうの店が並び、武士の副業文化が今も息づいている。冷泉家の姫が嫁いだ雅な記憶も残り、都との文化交流を物語る。
岩出山を歩くと、政宗が見据えた未来──文化による統治と地域の自立──が町並みに刻まれていることを感じる。静かな町並みの奥に、歴史の声が響いている。文化を知ることは地域の魅力を知ることに直結する。岩出山はそのことを教えてくれる町である。
参考
大崎市「時代(とき)を伝え 未来(とき)を拓く」
目次
岩出山の由来・歴史とは
岩出山は、かつて「岩手沢」と呼ばれていた地である。中世には大崎氏の重臣である氏家氏が居城を構え、地域の拠点として栄えた。天正19年(1591)、豊臣秀吉の命により伊達政宗が米沢から移封されると、この地は「岩出山」と改められ、政宗の居城として新たな歴史を刻み始めた。政宗はここに12年間居住し、城下町の町割りを行い、江合川沿いに広がる町場を整備した。岩出山は仙台藩成立以前の重要な拠点であり、政宗の青年期を支えた城下町であった。
地名の由来には諸説がある。城山の岩肌が露出した地形から「岩が出る山」と呼ばれたとする説、アイヌ語の「イワタイ(岩の枝脈)」に由来する説、さらには奈良時代の史料に見える「石沢」が転訛したものとする説などが伝わる。松尾芭蕉も『おくのほそ道』の旅で岩出山宿に泊まり、「いはでやま」と詠んだ記録が残る。地名そのものが土地の記憶を宿し、文化資産として今に伝わっている。
江戸時代に入ると、岩出山は伊達政宗の四男・宗泰を祖とする岩出山伊達家の領地となり、一門の中でも有力な分家として藩政に関わった。城下には藩校「有備館」が設けられ、教育と文化の拠点となった。庭園は仙台藩の茶道頭によって作庭され、城山の断崖を借景とする廻遊式池泉庭園として今もその姿を残している。冷泉家から二代にわたって姫が嫁ぎ、都の雅を奥州に伝えたことも岩出山の文化的厚みを示す出来事であった。
近代に入ると、戊辰戦争の余波で岩出山伊達家は北海道移住を余儀なくされ、町も大きな転換期を迎えた。明治期には度重なる自然災害からの復興を経て、昭和29年に1町3村が合併して岩出山町が誕生。平成18年には大崎市に合併され、現在はその一部となっている。
参考
大崎市「岩出山町史の内容」
岩出山城跡・城山公園を訪ねる
岩出山城跡は、現在「城山」と呼ばれる丘陵に残る。岩出山城跡一帯は現在「城山公園」として整備され、地域住民や観光客の憩いの場となっている。公園内には本丸・二の丸・三の丸跡が残り、往時の縄張りを想像することができる。
中世には氏家氏の居城で「岩手沢城」と称されていたが、天正19年(1591)、豊臣秀吉の命により伊達政宗が米沢から移封され、この地を「岩出山」と改め居城とした。政宗はここで12年間を過ごし、城下町の町割りを行い、江合川沿いに広がる町場を整備した。城は川に囲まれた天然の要塞であり、仙台の青葉城と同様に自然の地形を巧みに利用した防御拠点であった。現在は建物こそ残っていないが、城山の断崖や曲輪跡から往時の姿を偲ぶことができる。
城山には伊達政宗像が立ち、遠くを見据えるその姿は、政宗がこの地から未来を見ていたことを象徴しているようだ。周辺には「要害」「舘」など、かつての軍事拠点を示す地名が今も残っており、戦国期の緊張感が地名の中に息づいている。伊達政宗がなぜこの地に拠点を設けたのか、その一遍を感じれる。
岩出山城跡 (岩出山要害跡)
所在地: 〒989-6437 宮城県大崎市岩出山城山
有備館を訪ねる
城山のふもとに佇む有備館は、日本最古の藩校建築として知られる。江戸時代、伊達政宗が教育の重要性を認識し、藩士の子弟を育成するために設立した施設である。質素ながらも品格ある建物は、武士の精神修養の場として機能し、庭園は仙台藩茶道頭によって作庭された廻遊式池泉庭園で、城山の断崖を借景とする美しい景観を今に伝えている。
有備館には、京都の公家・冷泉家に関する資料も展示されている。冷泉家は藤原定家を祖とする和歌の名門であり、江戸時代には二代にわたって姫が岩出山伊達家に嫁いだ。姫たちが持参した調度品や和歌の資料は、奥州の地に都の雅を運び、岩出山に文化的厚みをもたらした。これは単なる婚姻ではなく、政宗が奥州に雅を根付かせようとした意志の表れであり、岩出山が都と奥州をつなぐ文化の架け橋であったことを示している。有備館を訪れると、教育と文化交流の拠点としての岩出山の姿が鮮やかに蘇り、政宗の「文化による統治」の思想を体感することができる。
参考
有備館
住所:〒989-6433 宮城県大崎市岩出山上川原町6
電話番号:0229721344
冷泉家の姫がもたらした雅
有備館には、京都の公家・冷泉家に関する資料も展示されている。冷泉家は、今も京都に残る唯一の公家の家柄であり、岩出山伊達家には二代にわたって姫が嫁いできたという。姫たちが持参した調度品や和歌の資料は、岩出山に都の香りを運んだ証でもある。
この文化交流は、単なる婚姻ではなく、政宗が奥州に雅を根付かせようとした意志の表れだったのかもしれない。冷泉家の姫を迎えるということは、伊達家の格式と仙台藩の文化的な厚みを全国に示す意味もあった。岩出山は、都と奥州をつなぐ文化の架け橋だった。
参考
大崎市「京都冷泉家と岩出山伊達家の交際〜 - へ ︑ 北 へ」「冷泉家と岩出山の文化交流資料(大崎市)」
冷泉家とは
冷泉家(れいぜいけ)は、藤原定家を祖とする和歌の名門であり、現在も京都に残る唯一の公家の家柄として知られている。代々、和歌と古典文化を継承し、宮中の歌会や儀礼に関わってきた家系だ。そんな冷泉家から、江戸時代に二代にわたって姫が岩出山に嫁いできたという事実は、伊達家の格式と仙台藩の文化的厚みを物語っている。
岩出山の有備館には、冷泉家に関する資料が展示されており、姫たちが持参した調度品や和歌の巻物などが静かに並ぶ。都から遠く離れた奥州の地に、雅な文化がもたらされた背景には、政宗の「文化による統治」への深い理解があったのだろう。冷泉家の姫が見た岩出山の風景は、どこか都の庭園にも通じる静けさを湛えていたに違いない。
しの竹細工を訪ねる
城跡を後にし、岩出山の城下町の中心である本町通りへと向かう。かつて武士たちが副業として手がけた職人仕事が今も残っている。その1つが岩出山「しの竹細工」だ。岩出山「しの竹細工は「大崎市竹工芸館」で見ることができる。京都から職人を招いて導入された岩出山「しの竹細工」は、300年以上の伝統を持ち、宮城県知事指定の伝統的工芸品となっており、日用品としても美術品としても高い評価を受けている。
館内では竹の魅力を身近に感じられる展示があり、繊細な編み目に職人の技と美意識が宿っていた。竹は、軽くて丈夫で、湿気にも強い。農具や生活道具として重宝される一方で、武士の美意識にも通じる素材だった。竹工芸は、岩出山に根付いた「用の美」の象徴でもある。
参考
宮城県「宮城の伝統的工芸品/岩出山しの竹細工」
大崎市竹工芸館
所在地:〒989-6436 宮城県大崎市岩出山二ノ構115
電話番号:0229731850
約300年の歴史「花山酒まんじゅう」を訪ねる
岩出山本町通りを歩くと、城下町の面影を今に伝える「花山酒まんじゅう店」が目に入る。暖簾をくぐると、ふっくらと蒸し上がった酒まんじゅうの香りが漂い、どこか懐かしい気持ちにさせられる。大阪から伝わった酒まんじゅうの技術を受け継ぎ、地元の米と酒を用いて仕上げられるその味は、岩出山ならではの文化交流の結晶である。
江戸期、武士の副業や職人導入が盛んだった岩出山では、外からもたらされた技術が土地に根付き、地域の味として定着した。花山酒まんじゅうもその一例であり、城下町文化の厚みを物語る存在だ。皮はふっくらと柔らかく、口に含むとほんのり酒の香りが広がる。甘さは控えめで、素朴ながらも深い味わいがあり、米と酒が育んだ土地の記憶が舌に伝わってくる。
一口頬張れば、岩出山の歴史と職人文化が凝縮された味わいを感じることができる。花山酒まんじゅうは、単なる菓子ではなく、文化交流と地域の暮らしが織りなす物語を今に伝える存在であり、岩出山を訪ねる旅の中で欠かせない一軒である。
参考
大崎市「酒まんぢう」
花山酒まんじゅう店
住所:〒989-6436 宮城県大崎市岩出山二ノ構147
凍み豆腐を訪ねる
岩出山の冬を象徴する食文化のひとつに「凍み豆腐」がある。厳しい寒さの中で豆腐を凍らせ、乾燥させることで保存性を高めた食品であり、江戸時代から続く伝統の味だ。記録によれば、天保年間に奈良で氷豆腐の製法を学んだ斎藤庄五郎が岩出山に伝えたのが始まりとされる。以来、岩出山の気候や風土に合わせて改良が重ねられ、独自の製法が確立された。
凍み豆腐は、丸大豆100%を用い、自然乾燥によって仕上げられる。凍らせて熟成させた豆腐を一度水に浸して解凍し、水分を絞ることで雑味を取り除き、豆腐本来の旨味を際立たせるのが特徴だ。冬の寒さを利用した製法は、農村の知恵であり、保存食としてだけでなく、貴重なタンパク源として人々の暮らしを支えてきた。
現在も岩出山では凍み豆腐が生産され、煮物や汁物に用いられている。ふっくらと戻した凍み豆腐は、出汁をよく吸い込み、噛むほどに滋味が広がる。素朴ながらも深い味わいは、岩出山の冬の記憶そのものである。日本一の来客数となった岩出山の道の駅「あ・ら・伊達な道の駅」にて販売されている。
参考
農林水産省「凍り豆腐(こおりどうふ)について教えてください。」
所在地: 〒989-6405 宮城県大崎市岩出山池月下宮苗代目4−1
電話番号: 0229-73-2236
まとめ
岩出山を歩いてみると、文化とは単に目に見える建物や祭りだけではなく、町の背景にあるストーリーに宿るものであることを強く感じる。伊達政宗が居所を構えた城下町としての歴史、武士の暮らしや教育、都との文化交流、そして農村の知恵が織り重なり、岩出山は独自の文化的厚みを今に伝えている。フィールドワークとして町を行脚することは、こうした文化の水脈を掘り起こす作業であり、地域の魅力を理解するために欠かせない営みである。
城山に築かれた岩出山城跡は、川に囲まれた天然の要塞であり、政宗が青年期を過ごした舞台である。現在は城山公園として整備され、政宗公騎馬像が大崎平野を見守る姿は、未来を見据えた政宗の眼差しを象徴している。ふもとにある有備館は日本最古の藩校建築であり、教育と文化交流の拠点として政宗の「文化による統治」の思想を体現する場であった。庭園は城山の断崖を借景とした廻遊式池泉庭園で、冷泉家の姫が嫁いだ雅な記憶とともに、奥州に都の香りを運んだ。
本町通りには、京都から伝わった「しの竹細工」や大阪由来の「花山酒まんじゅう」が今も息づいている。竹工芸は武士の副業文化として根付き、「用の美」を体現する伝統工芸品となった。酒まんじゅうは地元の米と酒を活かした素朴な味わいで、文化交流の結晶として城下町文化の厚みを物語る。さらに冬の食文化として「凍み豆腐」がある。厳しい寒さを利用した保存食であり、農村の知恵が凝縮された味覚は、岩出山の冬の記憶そのものである。
岩出山の歴史は、中世の氏家氏の居城「岩手沢城」から始まり、政宗の移封によって「岩出山」と改められ、仙台藩成立以前の重要な拠点となった。江戸時代には岩出山伊達家が領地を治め、教育や文化政策を推進した。近代には戊辰戦争や北海道移住、度重なる自然災害を経て、昭和29年に岩出山町が誕生し、平成18年には大崎市に合併された。こうした歴史の積み重ねが、町の文化的厚みを形づけている。
投稿者プロ フィール

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地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。
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