【宮城県大崎市】地名「大崎市」の由来となった武将大崎氏の足跡をたどるin古川穂波・米倉鹿嶋神社
地名とは、土地の記憶を織り込んだ言葉だ。私は地域文化を記録する仕事をしている。地名の由来や語源、そこに生きた人々の営みを掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。
今回訪れたのは、宮城県大崎市古川米倉に鎮座する米倉鹿嶋神社。この神社は、戦国時代にこの地を治めた大崎氏の勧進によって創建されたと伝えられており、大崎市という地名の由来をたどる上で欠かせない場所である。
大崎氏は、清和源氏の流れを汲む足利一門・斯波氏の一族で、室町時代から戦国時代にかけて奥州管領・探題として大崎地方を治めた。家祖・斯波家兼の嫡子・直持が、先祖の領地であった下総国香取郡大崎(現・千葉県香取市大崎)に因んで「大崎」と改姓したことが地名のルーツとされている。鹿島神宮が近くにあるこの地との地縁が、米倉鹿嶋神社の信仰にもつながっているのだろう。
米倉鹿嶋神社では、毎年9月8日から10日にかけて「献饌行事」が行われる。これは宮城県指定無形民俗文化財にもなっている古式ゆかしい祭礼で、雌雉子やアワビなどを神に捧げる「献饌の儀」が中心となる。祭りの奉仕は男子に限られ、夜に行われる物静かな「お九日」の祭りとして知られている。
私はこの神社を訪ね、境内を歩きながら、大崎氏の記憶と土地の祈りに耳を澄ませた。桜並木が続く参道、彼岸花が咲く境内、石碑に刻まれた湯殿山や庚申塔──それらが、地名の奥にある物語を静かに語っていた。
参考
大崎市「大崎市の誕生」「第1章 大崎市の景観特性」
七十七リサーチ&コンサルティング「大崎市」
宮城県神社庁「神社検索」
大崎氏と穂波・米倉鹿嶋神社
大崎氏は、清和源氏の足利一門・斯波氏の一族であり、室町時代から戦国時代にかけて奥州管領・探題として陸奥国大崎地方を治めた名族である。家祖・斯波家兼は奥州管領として陸奥に下向し、その嫡子・直持が、先祖の領地であった下総国香取郡大崎に因んで「大崎」と改姓したことが地名の由来とされている。
戦国期には大崎義直・義隆らが当主として活躍したが、伊達氏との抗争や家中の内紛により勢力を失い、天正18年(1590)の小田原征伐に参陣しなかったことで豊臣秀吉により改易された。家名再興を願う遺臣たちは各地に散り、帰農して新たな生活を始めた。
米倉鹿嶋神社の創建は、境内の由緒書きを見ると、天文4年(1535)、義直の勧進によるものと伝えられている。大崎氏の没落後、祭礼は一時途絶えたが、慶長3年(1597)に旧臣の野村刑部・民部・采女(えりも)の三兄妹がこの地に帰農し、佐々木と改姓して社殿を復興。以後、佐々木家が中心となって祭礼を守り続けてきた。
昭和23年以降は、米倉地区の氏子を五班に分け、当宿(とうやど)制で交替に祭礼を担うようになった。このように、大崎氏の記憶は、地名だけでなく、神社の由緒や祭礼の形式にも色濃く残されている。
参考
宮城県「米倉鹿嶋神社の献饌行事」
穂波鹿嶋神社
所在地:〒989-6136 宮城県大崎市古川穂波8丁目17−10
電話番号:0229222558
米倉鹿嶋神社の献饌行事とは
米倉鹿嶋神社の「献饌行事」は、毎年9月8日から10日にかけて行われる物静かな夜祭りである。宮城県指定無形民俗文化財にも登録されており、地域の人々によって今も丁寧に守られている。
祭りの中心は「献饌の儀」。これは神に食物を捧げる儀式であり、神と人との交わりを象徴する重要な行事である。米倉では、雌雉子の肉やアワビなどを献饌の具として用い、古式に則った形式で儀式が進行する。祭りの奉仕は男子に限られ、厳粛な空気の中で行われる。
儀式の順序は以下の通り:
- 修祓之儀(清めの儀式)
- 献饌之儀(神への供物の捧げ)
- 祭主祝詞奏上(神への言葉)
- 陪膳之箸付之儀(供物の配置)
- 俵振り之儀(収穫の象徴)
- 堂実献之儀(神前への実物献上)
- 神酒拝頂之儀(神酒をいただく)
- 喜歌舞之儀(神への舞の奉納)
- 鬼祓之儀(災厄の祓い)
- 神饌撤下之儀(供物の下げ)
- 直会之儀(神人共食の場)
この祭りは、かつての新嘗祭の形式を色濃く残しており、初穂を神に捧げることで五穀豊穣と家内安全を祈願する。農村信仰としての鹿嶋信仰の核心が、ここに息づいている。
参考
神社本庁「神饌 | おまつりする | 神社本庁公式サイト」
古川穂波に今もある米倉鹿嶋神社をたずねる
私が米倉鹿嶋神社を訪れたのは、秋の彼岸の頃だった。大崎市古川穂波の住宅地の一角に、静かに佇むこの神社は、地元の人々にとっては馴染み深い場所だが、外から訪れる者にとっては、まるで時代の層が重なったような空間だった。
鳥居をくぐると、参道の両脇には桜並木が続いていた。春にはきっと見事な花のトンネルになるだろう。足元には彼岸花が咲いていて、赤い花が秋の空気に映えていた。境内は広くはないが、手入れが行き届いており、静けさの中に祈りの気配が漂っていた。
社殿の脇には、いくつかの石碑が並んでいた。湯殿山と刻まれた碑、庚申塔、山神社──それぞれが異なる信仰の痕跡を残しており、この地が多様な信仰の交差点であったことを物語っていた。
案内板には、献饌行事の由来が丁寧に記されていた。大崎義直の勧進による創建、三兄妹による社殿の案内板には、献饌行事の由来が丁寧に記されていた。大崎義直の勧進による創建、三兄妹による社殿の復興、佐々木家による祭礼の継承──そのすべてが、地名「大崎」の背後にある歴史の断片だった。
境内の端には、湯殿山と刻まれた石碑が静かに立っていた。出羽三山の一つである湯殿山は、修験道の聖地として知られ、東北地方の信仰の核でもある。庚申塔は、庚申信仰に基づく石塔で、人々が三尸の虫を封じるために夜通し語り合ったという民間信仰の痕跡だ。小牛田山神社の石碑もあり、さまざまな信仰への感謝と畏敬が刻まれていた。
これらの石碑は、米倉鹿嶋神社が単なる一社ではなく、複数の信仰が交差する場であったことを物語っている。農村の暮らしの中で、火伏せ、五穀豊穣、家内安全、山の恵みへの感謝──それらが一つの境内に集約されていた。
私は社殿の前で手を合わせ、静かに祈った。風が吹き抜け、彼岸花が揺れた。桜の葉が一枚、舞い落ちた。この地に生きた人々の祈りと営みが、今も静かに息づいていることを感じた。
まとめ──地名に宿る武家の記憶と祈りのかたち(約620字)
「大崎市」という地名は、単なる行政区分ではない。それは、かつてこの地を治めた戦国武将・大崎氏の記憶を今に伝える言葉である。米倉鹿嶋神社は、その記憶をたどる上で欠かせない場所であり、地名の由来と祈りのかたちが交差する空間だった。
神社の創建は天文4年(1535)、大崎義直の勧進によるものとされる。戦国末期に大崎氏が没落した後も、旧臣たちがこの地に帰農し、社殿を復興して祭礼を守り続けた。その祭礼は、今も「献饌行事」として継承され、宮城県指定無形民俗文化財として地域の人々に支えられている。
献饌の儀では、雌雉子やアワビなどを神に捧げ、神と人との交わりを象徴する儀式が厳粛に行われる。男子のみが奉仕を許されるこの夜祭りは、静けさの中に古代からの祈りのかたちを残している。
境内には桜並木が続き、春には花のトンネルとなる。秋には彼岸花が咲き、石碑には湯殿山、庚申塔、山神社といった多様な信仰の痕跡が刻まれていた。米倉鹿嶋神社は、火伏せ・五穀豊穣・家内安全といった農村信仰の中心であり、地名「大崎」に宿る歴史と文化を今に伝えている。
この地を歩くことで、地名の奥にある物語が立ち上がってくる。祈りと記憶が交差する場所──それが、米倉鹿嶋神社であり、大崎市という地名の本質なのだ。