【宮城県大崎市】地名「三日町・七日町・十日町」の由来・語源をたずねるin古川・道の駅おおさき・熊野神社
私は地域文化を記録する仕事をしている。制度や建築では見えてこない、暮らしの中に息づく地名や風習──それらを拾い上げ、現地の空気を吸い込みながら言葉にする。それが私の旅のかたちだ。
今回訪れたのは、宮城県大崎市古川。目的は、町名に残る「三日町」「七日町」「十日町」の由来を辿ることだった。これらの地名は、単なる住所ではない。400年以上前に始まった「御日市(おんにちいち)」、今の古川八百屋市の記憶を今に伝える、生きた文化財である。
私が幼い頃、祖母に連れられて熊野神社の境内で開かれていた八百屋市に通った記憶がある。露店の並び、野菜の香り、店主とのやりとり──それらは今も私の中に残っている。そしてその市が、三日町・七日町・十日町という地名の由来であることを知ったとき、地名が語る物語に惹かれた。
古川の町を歩きながら、私は地名に刻まれた市の記憶を辿った。
参考
大崎市「古川八百屋市」
レファレンス協同データベース「大崎市古川中心市街地の明治以降の歴史について知りたい 」
三日町・七日町・十日町とは?
古川の「三日町(みっかまち)」「七日町(なのかまち)」「十日町(とおかまち)」は、いずれも江戸時代以前から続く市の開催日に由来する町名である。現在も大崎市古川の中心部に地名として残っており、郵便番号や住所表記にも使われている。
三日町は、かつて稲葉村と呼ばれた地域に位置し、毎月3のつく日に市が立ったことから名付けられた。七日町は大柿村に属し、7のつく日に市が開かれた。十日町はその後に加わり、10のつく日に市が立つようになった。
これらの地名は、単なる数字の羅列ではない。市の開催日を示す“暮らしの暦”であり、地域の経済と交流のリズムを刻むものだった。現在でも、春の古川八百屋市は「3と7のつく日」に開催されており、地名と市の関係が今も息づいている。
読み方はそれぞれ「みっかまち」「なのかまち」「とおかまち」。地元の人々にとっては馴染み深い響きであり、買い物や通学、祭りの場面で自然に使われている。
地名は、土地の記憶を語る言葉である。三日町・七日町・十日町は、古川の市文化を今に伝える“語りの地名”なのだ。
所在地:〒989-6153 宮城県大崎市
三日町
七日町
十日町
地名「三日町・七日町・十日町」の由来と語源
三日町・七日町・十日町の由来は、1604年に始まった「御日市(おんにちいち)」にあると言われている。戦国時代末期、伊達政宗が古川城を家臣・鈴木和泉守元信に任せたことで、古川の町割が行われた。戦乱で疲弊した民に安住の地を与えるため、町を整備し、市を開くことで民心の安定を図った。
鈴木和泉守は、稲葉村三日町と大柿村七日町で、それぞれ3と7のつく日に市を開くことを許可した。これが古川八百屋市の始まりであり、地名の語源でもある。その後、十日町でも市が開かれるようになり、古川は交易の中心地として発展した。十日町に関しては記録があまりないが、おそらく三日と七日を足して十日になることから、十日町にしたのではないかと考えられる。
市は、物資の流通だけでなく、人と人が出会い、情報が交わされる場だった。地名に市の開催日を刻むことで、町の機能と文化が一体となった。三日町・七日町・十日町は、町割と市の記憶が融合した“暮らしの地名”である。
明治期には、街路取締規則により市の開催地が裏町(現在の浦町)へ移転。さらに熊野神社境内、そして現在の道の駅おおさきへと変遷したが、地名は変わらず残り続けている。
地名は、土地の記憶を語る最も身近な文化財である。三日町・七日町・十日町は、古川の市文化と町割の記憶を今に伝える“語りの地名”なのだ。
参考
大崎市「市長コラム令和6年4月」
三日町・七日町・十日町をたずねる
私は春の古川を歩いた。目的は、三日町・七日町・十日町という地名に刻まれた“市の記憶”を肌で感じることだった。古川八百屋市が開催されている「道の駅おおさき」から、かつて市が開かれていた「熊野神社」へ向かい、かつて祖父母たちと通った八百屋市の記憶を辿るように、町の空気を吸い込んだ。
道の駅 おおさき
所在地:〒989-6174 宮城県大崎市古川千手寺町2丁目5−50
三日町は、今も商店が並ぶ通りで、シャッターが閉まっている店が多いが、今でも日中開けているお店もある。通りの名は、かつて3のつく日に市が立ったことに由来する。私はふと、祖母が「今日は三日町の日だね」と言っていた声を思い出した。
七日町は、新設した大崎市役所や高層マンションがあり、商業施設や飲食店も進出するなど、今も地元の人々の生活の場として息づいている。かつての市の中心地だったこの通りには、常設の店舗が集まり、町の賑わいを支えていた。地名の響きに、暮らしのリズムが刻まれている。
十日町は、三日町・七日町に続いて市が開かれた場所。今では住宅地が広がっているが、通りの名は変わらず残り、町の記憶を静かに伝えている。
私は三つの町を歩きながら、地名が語る物語に耳を傾けた。市の開催日が地名になり、地名が文化を残す──それは、古川という町が人の営みとともに育ってきた証だった。
まとめ
古川の三日町・七日町・十日町は、単なる地名ではない。それは、400年以上前に始まった「御日市」、今でいう古川八百屋市の記憶を今に伝える“語りの地名”である。
1604年、古川城主・鈴木和泉守元信が町割を行い、稲葉村三日町と大柿村七日町で市を開くことを許可した。市は3と7のつく日に開催され、後に十日町にも広がった。市は物資の流通だけでなく、人と人が出会い、情報が交わされる場だった。
地名に市の開催日を刻むことで、町の機能と文化が一体となった。三日町・七日町・十日町は、町割と市の記憶が融合した“暮らしの地名”であり、今も大崎市古川の中心部に残っている。
私は春の古川を歩き、三つの町を訪ねた。通りの名に、祖母と歩いた記憶が重なり、地名が語る物語に耳を傾けた。市の空気、暮らしのリズム、町の温度──それらが地名に宿っていた。
三日町・七日町・十日町は、古川の市文化と人の営みを今に伝える“語りの地名”である。地名は、土地の記憶を語る最も身近な文化財なのだ。
