【宮城県仙台市】難読地名「南鍛冶町」の読み方・語源由来をたずねるin若林区・仙台箪笥門間屋・三宝荒神社

地名とは、土地の記憶を織り込んだ言葉だ。私は地域文化を記録する仕事をしている。地名の由来や語源、そこに生きた人々の営みを掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。

今回訪れたのは、仙台市若林区にある「南鍛冶町(みなみかじまち)」という地名。初見では「なんかじちょう」や「みなみかじちょう」と読んでしまいそうだが、正しくは「みなみかじまち」。地図で見かけるたびにその響きが気になっていた。読み方も意味も分からず、ただその名が記憶に残っていた。

南鍛冶町という地名は、江戸時代の仙台藩において鍛冶職人たちが集住した町に由来する。藩主・伊達政宗が仙台城下を築いた際、武器や農具、日用品の製造を担う鍛冶職人たちの居住地として町割りされたのが「鍛冶丁(かじちょう)」であり、その南側に位置するこの町は「南鍛冶町」と呼ばれるようになった。

私はその由来を確かめるため、そして現代の南鍛冶町の空気を感じるため、実際に町を歩いた。そこには、静かな住宅街の奥に、鉄と火の記憶が静かに息づいていた。

所在地:〒984-0061 宮城県仙台市若林区

参考

仙台市「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(《元鍛冶丁》通り)」「町名に見る城下町

南鍛冶町の読み方・語源由来、「丁」から「町」へ

「南鍛冶町(みなみかじまち)」という地名は、仙台藩の城下町整備において職人たちの居住区として設けられた「鍛冶丁(かじちょう)」に由来する。伊達政宗が仙台に開府した当初、鍛冶職人たちは「元鍛冶丁」に集められていたが、後にその地が侍屋敷に転用されたため、職人たちは北と南に分かれて移住し、それぞれ「北鍛冶町」「南鍛冶町」と呼ばれるようになった。

「丁(ちょう)」という表記は、江戸時代の町割りにおいて武士や職人の居住区を指す言葉だったが、明治以降の地名整理や住居表示制度の中で、より一般的な「町(まち)」へと表記が統一されていった。仙台市でも、かつての「鍛冶丁」は「鍛冶町」となり、現在の若林区にその名残をとどめている。

町の構造は、旧奥州街道(現在の荒町通り)に沿って東西に伸び、東には足軽屋敷の「五十人町」や「三百人町」、西には「弓ノ町」や「畳屋丁」など、かつての職人町の名残を感じさせる地名が今も点在している。私は町を歩きながら、こうした地名の響きに耳を澄ませた。まるで、かつての職人たちの声が、今も石畳の下から聞こえてくるようだった。

仙台箪笥門間屋と三宝荒神社

南鍛冶町を歩いていると、町の一角にひときわ重厚な建物が現れた。黒漆喰の壁に格子窓、堂々とした屋根──それが、仙台箪笥の老舗「門間屋(もんまや)」の本店だった。築100年を超えるこの建物は、国の登録有形文化財にも指定されており、外観からもその歴史と風格が伝わってくる。

門間屋の創業は明治5年。初代・門間民三郎は、伊達藩の足軽でありながら、内職として箪笥づくりを始めたという。仙台箪笥は、指物(木工)、塗(漆)、金具(鍛冶)の三位一体の技術が求められる伝統工芸であり、特に重厚な金具は、まさに鍛冶職人の技の結晶だ。

私はその金具を見ながら、ふと想像した。もしかすると、かつてこの南鍛冶町に住んでいた鍛冶職人たちが、仙台箪笥の金具を打っていたのではないか──と。

以前、大阪の堺を訪れた際、堺打ち刃物の職人に話を聞いたことがある。彼らの祖先は鉄砲鍛冶だったが、時代の変化とともに刀鍛冶や包丁鍛冶へと転じていったという。仙台でも、武器製造の需要が減った後、鍛冶職人たちは生活道具や箪笥金具の製作へと仕事を変えていったのではないか。そんな想像が、門間屋の建物の前で静かに広がった。

㈱門間箪笥店

〒984-0061 宮城県仙台市若林区南鍛冶町143

町の奥には、火の神を祀る「三宝荒神社」も残されていた。境内には湯殿山神社や小牛田の山神社の石碑があり、歴史を感じる場所だった。鍛冶職人たちは、火を扱う仕事ゆえに、火の神への信仰が篤かったという。私はその社の前で手を合わせ、かつてこの町に響いていた槌音と火の匂いに思いを馳せた。

三寳大荒神

〒984-0056 宮城県仙台市若林区南鍛冶町

余談だが近隣には古城という地名がある。伊達政宗が当代を譲ってから院政を行った場所だと言われている。この若林区に、軍事産業である鍛治町や弓ノ町という地名が残っているのは、これが理由かと思った。

他にもある、仙台市の難読地名たち

仙台市には、読み方や由来が一見して分かりにくい「難読地名」が数多く存在する。たとえば「名掛丁(なかけちょう)」は、藩主が名を懸けて選んだ侍の屋敷町に由来し、「蒲生(がもう)」は湿地の植物「蒲(がま)」にちなむとされる。「蛇台原(さらいばら)」や「愛子(あやし)」など、読み方に驚かされる地名も多い。

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まとめ

仙台市若林区の難読地名「南鍛冶町(みなみかじまち)」は、ただの住宅街の名前ではない。それは、藩政時代に鍛冶職人たちが集住した町であり、鉄と火を扱う技術者たちの誇りと暮らしが刻まれた地名である。

町を歩くと、かつての職人町の名残を今に伝える地名が点在していた。「弓ノ町」「畳屋丁」「五十人町」──それぞれが、かつての職能集団の暮らしを物語っていた。

そして、仙台箪笥の老舗「門間屋」の文化財建築が、今もこの町に静かに佇んでいる。指物・塗・金具の三技術が融合した仙台箪笥。その金具を打ったのは、もしかするとこの町の鍛冶職人たちだったのかもしれない。

地名とは、風景と人の記憶が交差する場所に生まれる言葉である。南鍛冶町は、仙台の歴史と文化、そして職人たちの誇りを静かに語り続けている。

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