【宮城県仙台市】「広瀬川」の読み方や由来・源流とは?どこからどこまで流れる?河川敷で芋煮、仙台城との関係を紹介
仙台市を流れる「広瀬川(ひろせがわ)」は、ただの河川ではない。市民の暮らしに寄り添い、都市の歴史を刻み、文化を育んできた仙台の象徴的存在だ。川沿いを歩けば、ランニングする人、芋煮を囲む家族、夕暮れに佇む恋人たち——それぞれの時間が、広瀬川の流れとともに静かに過ぎていく。
私は地域文化ライターとして、地名や自然に宿る記憶を辿ることをライフワークとしている。人類の文明は川からはじまっており、日本も例外ではない。地域文化は川沿いにこそ深く根付いている。今回の探訪は、仙台のシンボル「広瀬川」の読み方と語源、源流から市街地までの流れ、そして市民に愛される理由を探る旅だった。川の歴史を紐解きながら、実際に河川敷を歩き、芋煮を味わい、さとう宗幸の『青葉城恋唄』に耳を傾けることで、広瀬川が仙台にとってどれほど特別な存在かを実感した。
広瀬川は、仙台城の外堀としての役割を担い、水運や防火用水としても活用された。江戸時代には「四ツ谷用水」などの導水路が整備され、利水の悪い仙台市街地に水を供給する重要なインフラでもあった。都市の発展とともに、川は単なる自然の存在から、暮らしと文化を支える基盤へと変化していった。
この記事では、「広瀬川の読み方と語源」「流域と源流」「仙台城との関係」「市民の暮らしとのつながり」を軸に、仙台の川に宿る記憶と文化の魅力を紐解いていく。
参考
仙台市広瀬川ホームページ「広瀬川ホームページ」「広瀬川の特長」
仙台市「広瀬川創生プラン」
環境省「宮城県/仙台市 広瀬川 - 環境省選定 名水百選/詳細ページ」
所在地:〒989-3212 宮城県仙台市青葉区芋沢滝ノ瀬
広瀬川の読み方・語源・由来
「広瀬川」と書いて「ひろせがわ」と読む。仙台市民には馴染み深い地名だが、初めて目にする人には読みづらいかもしれない。この川の名は、古代から続く地名「広瀬郡」に由来するとされる。広瀬郡は、現在の仙台市西部から大和町・富谷市にかけて広がっていた地域で、奈良時代の『続日本紀』にもその名が登場する。
「広瀬」という言葉は、「広く瀬(せ)」がある場所、つまり水が浅く流れる広い川原を意味するとされる。瀬とは、川の流れの中でも水深が浅く、流れが速い部分を指す言葉であり、古代の人々が川の性質を的確に捉えて名付けた地名だ。広瀬川はその名の通り、仙台市街地を流れる中で、浅瀬と深みが交互に現れ、季節によって表情を変える。
また、広瀬川の名は、単なる地形的特徴だけでなく、地域の歴史とも深く結びついている。仙台城の築城に際して、伊達政宗はこの川を外堀として活用し、城下町の防衛と水運の要として整備した。江戸時代には、広瀬川から市街地へ水を引く「四ツ谷用水」が整備され、飲料水・防火用水・産業用水として活用された。これにより、利水の悪い仙台市街地は潤いを得て、都市としての発展を遂げた。
現在では暴れ川としての性格は消え、仙台市民のシンボルとして使われている。杜の都・仙台(杜王町)を舞台にした漫画ジョジョの奇妙な冒険4部では、支倉町や花京院といった町名と共に、重要キャラクターの名前に広瀬川が使われている。
地名としての「広瀬川」は、古代から現代まで、仙台の地理・歴史・暮らしをつなぐ言葉であり、都市の記憶を刻む水の名前でもある。
参考
仙台市広瀬川ホームページ「人との関わり(ひととのかかわり)」
オリコンニュース「仙台聖地巡礼ッ!「ジョジョの奇妙な冒険」登場キャラのルーツ 」
広瀬川はどこからどこまで流れる?源流と流域
広瀬川は、仙台市の西部を起点に市街地を貫いて流れ、名取川に合流する一級河川である。全長は約40km。源流は山形県との県境に位置する関山峠の南斜面にあり、ここから流れ出す大倉川・新川・芋沢川などの支流を集めながら、仙台市青葉区の大倉地区を通って広瀬川本流となる。
川は青葉山の北側を縫うように流れ、仙台城の外堀としての役割を果たしながら市街地へと進む。その後、宮沢橋・広瀬橋・仲の瀬橋などをくぐり、太白区の郡山地区で名取川に合流する。名取川はさらに太平洋へと注ぎ、広瀬川の水はやがて海へと至る。
流域は仙台市の中心部を含み、青葉区・太白区・泉区の一部を通る。特に青葉区では、広瀬川が都市の景観を形づくる重要な要素となっており、川沿いには遊歩道や公園が整備され、市民の憩いの場として親しまれている。春には桜が咲き誇り、秋には芋煮会が開かれるなど、季節ごとの風物詩が川の流れとともにある。
また、広瀬川は水源としての役割も担っている。上流域には大倉ダムがあり、仙台市の水道水の一部を供給している。このダムは、洪水調整や水資源の安定供給を目的として建設されたもので、都市のインフラとしても欠かせない存在だ。
地形的には、広瀬川は河岸段丘を形成しながら流れており、仙台市街地はこの段丘の上に築かれている。川の流れが都市の構造に影響を与え、景観や交通網にも関わっていることは、地図を眺めるだけでも明らかだ。
広瀬川の流れは、仙台の自然と都市の境界をなぞるように続いている。
関山峠
〒989-3431 宮城県仙台市青葉区作並
広瀬川と仙台城
仙台城(青葉城)の築城にあたり、伊達政宗が最も重視したのが地形と水の配置だったという。1601年、政宗は大崎市岩出山城から仙台の地に城を築く際、青葉山の自然地形を活かし、広瀬川を外堀として利用することで、堅固な防御線を構築した。川は城の西側を流れ、天然の堀として機能し、敵の侵入を防ぐ役割を果たした。岩出山城も同様に城山の上に城を築き、内川を外堀としている。堀を作らずに自然地形を利用する城郭設計は伊達政宗の基本戦略だったのかもしれない。
広瀬川はまた、水運の要でもあった。江戸時代、仙台城下では物資の輸送に川を活用し、上流から木材や農産物を筏で流す「川流し」が行われていた。広瀬川の流れは、仙台の経済活動を支える動脈でもあり、城下町の発展に欠かせない存在だった。
さらに、広瀬川は仙台市街地への導水にも活用された。仙台は扇状地に位置し、地下水が乏しく、都市の利水環境は決して良好とは言えなかった。そこで政宗は、広瀬川から市街地へ水を引く「四ツ谷用水」を整備した。これは、広瀬川の水を取り入れ、城下町の各所へと分配する人工水路であり、飲料水・防火用水・産業用水として活用された。この名残りは今でもパピナ名掛丁など市街地に残されている。
四ツ谷用水は、仙台市内に網の目のように張り巡らされ、町人地や武家屋敷、寺社などに水を供給した。特に防火用水としての役割は重要で、木造建築が密集する城下町において、火災の被害を最小限に抑えるための備えでもあった。用水はまた、庭園や池の水源としても利用され、仙台の都市景観を形づくる一因となった。
このように、広瀬川は仙台城の防衛・経済・生活のすべてに関わる存在だった。政宗の都市設計において、川は単なる自然の要素ではなく、戦略的な資源として位置づけられていた。広瀬川の流れは、仙台という都市の骨格を形づくり、人々の暮らしを支えてきた。
現代においても、広瀬川の流れは仙台市民の記憶に深く刻まれている。川沿いの遊歩道や公園は、かつての用水路の名残を感じさせ、都市と自然が共存する風景を今に伝えている。広瀬川は、仙台城の外堀としての役割を超えて、都市の文化と暮らしをつなぐ水の記憶なのだ。
仙台城跡(青葉城址)
所在地:〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1番地
広瀬川と市民の暮らし——ランニングコース・河川敷で芋煮・青葉城恋唄
広瀬川は、仙台市民の暮らしに深く根ざした存在である。都市の中心を流れるにもかかわらず、川沿いには豊かな自然が残り、四季折々の風景が人々の心を癒してくれる。特に河川敷は、市民の憩いの場として親しまれており、朝夕にはランニングや散歩を楽しむ人々の姿が絶えない。
私が訪れたのは秋の晴れた日。広瀬川の河川敷には、芋煮会を楽しむグループが点在していた。東北地方では、秋になると河原で芋煮を囲むのが風物詩。仙台では仙台味噌仕立てが主流で、里芋、牛肉、こんにゃく、ネギなどが煮込まれ、川風に乗って香ばしい匂いが漂っていた。市内に日本最古の味噌蔵「御塩噌蔵」があり、仙台と言ったら味噌なのだ。私も地元の方に誘われて一椀いただいたが、広瀬川の風景とともに味わう芋煮は格別だった。
広瀬川が市民に愛される理由は、こうした日常の風景だけではない。文化的な象徴としても、広瀬川は仙台の心を映す存在だ。その代表が、さとう宗幸の『青葉城恋唄』である。1978年に発表されたこの曲は、「広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず」という歌詞で始まり、仙台の風景と郷愁を見事に表現している。今でも市民の間で広く親しまれ、仙台の“第二の市歌”とも言われるほどだ。
この歌に登場する広瀬川は、単なる風景ではなく、人生の記憶を重ねる場所として描かれている。恋人との別れ、青春の思い出、家族との時間——それらが広瀬川の流れとともに心に刻まれている。川は、記憶の容れ物であり、感情の通り道でもあるのだ。
また、広瀬川沿いには江戸時代から続く伝統行事「広瀬川灯ろう流し」などのイベントも開催され、地域の人々が集い、祈りや感謝を捧げる場にもなっている。川は、個人の記憶だけでなく、地域の文化や共同体の絆を育む場でもある。
川沿いには遊歩道が整備され、ベンチや芝生が点在する場所もある。ランニングを楽しむ人、犬の散歩をする人、読書にふける学生——それぞれが思い思いの時間を過ごしている。川の流れは穏やかで、秋の陽射しが水面に反射し、キラキラと輝いていた。私は歩きながら、広瀬川が仙台市民にとってどれほど身近な存在かを実感した。
途中、青葉山を望むポイントに差し掛かると、仙台城跡の石垣が遠くに見えた。かつてこの川が外堀として機能していたことを思い出し、歴史の重みを感じる。都市の成り立ちと自然の流れが、ここでは一体となっている。かつて私が大学生時代に住んでいた五橋近くにある愛宕大橋を通過した。学生時代の淡い想い出が蘇る。ゼミの交友会やサークルの新入生歓迎会、友人たちと芋煮。かつての友人たちとは卒業を機に交流が途絶えてしまったが、この川のせせらぎや風景が想い出を優しくしてくれた。川は、ただの水の通り道ではなく、記憶を運ぶ存在なのだ。
広瀬川を歩くことは、仙台という都市の輪郭をなぞることでもある。都市計画、歴史、文化、そして人々の暮らし——それらが川の流れに沿って配置され、交差し、溶け合っている。川沿いの風景は、都市の表情を映す鏡であり、自然と人間の営みが共鳴する場でもある。
歩き終えたとき、私は広瀬川が仙台の“心の川”と呼ばれる理由を、身体で理解していた。
参考
仙台市広瀬川ホームページ「vol.1 シンガーソングライター さとう宗幸さん」
まとめ
広瀬川は、仙台市民にとって単なる河川ではない。それは、都市の成り立ちとともに歩んできた「水の記憶」であり、暮らしと文化をつなぐ象徴的な存在だ。源流は山形県境の関山峠南斜面にあり、大倉川・新川・芋沢川などを合わせて仙台市街地を縦断し、名取川へと合流する。全長は約40km。仙台城の外堀としても機能し、城下町の防衛と水運を担ってきた。
江戸時代には、利水の悪い仙台市街地に広瀬川から導水する「四ツ谷用水」が整備され、飲料水・防火用水・産業用水など多目的に利用された。この用水網は市内に網の目のように張り巡らされ、地下水を涵養し、夏の暑さを緩和する役割も果たしていた。
現代の広瀬川は、市民の憩いの場として親しまれている。河川敷ではランニングや散歩を楽しむ人々が行き交い、秋には芋煮会が風物詩となる。私も実際に河川敷を歩き、芋煮を味わった。芋の甘みと味噌の香りが広瀬川の風と混ざり合い、仙台の秋を五感で感じるひとときだった。
そして忘れてはならないのが、さとう宗幸の『青葉城恋唄』に歌われた広瀬川の存在。「広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず」——この一節は、仙台市民の心に深く刻まれている。広瀬川は、風景であり、記憶であり、そして人々の心をつなぐ川なのだ。
仙台の魅力を語るとき、広瀬川を抜きにしては語れない。歴史、文化、暮らし——そのすべてが、この川の流れとともにある。