【宮城県仙台市】地名「石垣町」の読み方や語源・由来をたずねるin若林城跡
仙台市若林区にある「石垣町」。地元の人には馴染み深いこの地名も、県外から訪れる人にとっては難読地名のひとつだ。「石垣町」と書いて「いしがきまち」と読む。読み方は素直だが、その由来には仙台城下町の歴史と職人たちの営みが深く関わっている。
私はこの地名の背景を探るべく、実際に石垣町を歩き、古地図や文献を紐解きながら、町の成り立ちと語源を探訪した。仙台城の築城とともに広がった町割、そこに住んだ石垣職人たちの暮らし、そして町名に込められた記憶——それらは、単なる地名以上の物語を語っていた。
石垣町は、広瀬川に向かって緩やかに下る坂道の途中に位置し、藩政時代には石垣職人の屋敷が置かれていたとされる。町名の由来は、まさにその職人たちの存在にある。仙台城や若林城の石垣を築いた彼らの住まいがこの地に集められたことから、「石垣町」と名づけられたのだ。
この記事では、「石垣町」の読み方と語源、仙台城下町の町割の背景、そして実際に現地を歩いて感じた空気を通して、地名に宿る職人たちの記憶を紐解いていく。
所在地:〒984-0064 宮城県仙台市若林区
仙台市石垣町の読み方と語源・由来
「石垣町」は「いしがきまち」と読む。読み方自体は難しくないが、その由来には仙台城下町の形成と密接な関係がある。仙台市若林区の公式資料によれば、石垣町は若林城の築城に伴い、寛永5年(1628年)頃に町割されたと考えられている。
町名の由来は、藩政時代にこの地に「石垣職人の屋敷」が置かれたことにある。仙台城や若林城の石垣を築いた職人たちが住んだ町——それが「石垣町」なのだ。城の防御や美観を支えた石垣は、単なる構造物ではなく、職人の技術と誇りの結晶であり、その職人たちの暮らしが町名として残されたことは、仙台という都市の成り立ちを物語っている。
仙台城は、伊達政宗が慶長5年(1600年)に築城を開始した城であり、青葉山の地形を活かした堅固な構造を持つ。その石垣は、自然石を巧みに組み合わせた「野面積み」や「打ち込み接ぎ」などの技法が用いられ、当時の技術の粋を集めたものだった。
石垣町は、広瀬川に向かって緩やかに下る地形にあり、城下町の南端に位置する。この地形は、石材の運搬や加工に適していたと考えられ、職人たちが集住するには理想的な場所だった。町名に「石垣」と付けられたのは、単なる地形的特徴ではなく、そこに住んだ人々の職能を示すものであり、城下町の機能分化を反映している。
仙台市の「町名に見る城下町」資料では、石垣町のほかにも「畳屋丁」「堰場」「染師町」など、職人の町名が多数存在する。これらは、藩政時代の町割が職能別に行われたことを示しており、石垣町もその一環として成立したと考えられる。
参考
仙台市「町名に見る城下町」「第23集 仙台の由緒ある町名・通名 辻標のしおり」
レファレンス協同データベース「旧宮城町の旧家 石垣家・庄司家について知りたい。広瀬」
石垣町を歩く
石垣町を歩くと、仙台城下町の記憶が静かに息づいているのを感じる。広瀬川に向かって緩やかに下る坂道は、かつて石垣職人たちが石材を運び、加工していた道筋だったのだろう。舗装された現代の道路の下に、職人たちの足音が響いていた時代が確かにあった。
町の北には荒町の毘沙門堂があり、西へ行くと五橋や愛宕橋、南へ下ると土樋町へと続く。この通りは藩政時代の主要な生活動線であり、職人たちが仙台城の工事に向かうために通った道でもある。道幅や曲がり具合には、町割の痕跡が残っており、城下町の構造が今も地形に刻まれている。
石垣町の隣には「石名坂(いしなざか)」という地名がある。こちらも「石」に関する地名であり、石材の運搬や加工に関わる職人たちが住んでいたとされる。坂の名に「石」が含まれていることからも、この一帯が石工の拠点であったことがうかがえる。石垣町と石名坂——二つの地名が並ぶことで、仙台城の築城に関わった職人たちの生活圏が浮かび上がってくる。
さらに南へ足を延ばすと、石垣町の由来となった若林城跡——通称「小泉古城」の石碑がひっそりと立っていた。周囲は住宅地に変わっているが、石碑の前に立つと、かつてこの地が伊達政宗の隠居所であり、院政を敷いた場所であったことが思い出される。NHK人気番組「ブラタモリ」で紹介されていたその話を思い出しながら、私はしばし足を止めた。
政宗は晩年、仙台城を息子・忠宗に譲った後も、実権を握り続けたという。若林城はその拠点であり、政宗が政治を動かし続けた場所だった。石垣町から若林城跡までの道のりは、まるで政宗の足跡を辿るような感覚だった。
石碑の前で風に吹かれながら、私は思いにふけった。この町の石垣は、政宗の築いた城の一部であり、職人たちの手によって積み上げられたものだ。町名に残る「石垣」の文字は、単なる地名ではなく、政宗の夢と職人の技術が交差した記憶のかたちなのだ。
石垣町を歩くことは、仙台という町の成り立ちを肌で感じる旅だった。地名に込められた職人たちの誇りと、政宗の静かな統治の記憶が、今もこの町の風景の中に息づいている。
若林城跡(小泉古城)
所在地:〒984-0825 宮城県仙台市若林区古城2丁目3
まとめ
仙台市若林区の「石垣町」は、「いしがきまち」と読む。読み方は素直だが、その由来には仙台城・若林城の築城と職人たちの暮らしが深く関わっている。寛永5年(1628年)頃、若林城の造営に伴って町割されたこの地には、石垣職人の屋敷が置かれた。町名は、まさにその職人たちの存在に由来する。
仙台城の石垣は、当時の技術の粋を集めた構造であり、職人たちの技術と誇りが込められていた。石垣町は、広瀬川に向かって緩やかに下る地形にあり、石材の運搬や加工に適した場所だった。町名に「石垣」と付けられたのは、職能を示すものであり、城下町の機能分化を反映している。
私は実際に石垣町を歩き、地形や古い石垣、地元の人々の語りから、職人町としての記憶を感じ取った。今では静かな住宅地となっているが、町名に込められた歴史は、風景の中に静かに息づいている。
石垣町は、仙台城下町の形成と職人文化を今に伝える貴重な地名であり、地名に宿る記憶を辿る旅は、仙台という町の成り立ちを深く知るきっかけとなった。