【宮城県仙台市】難読地名「名掛丁」の読み方・語源由来をたずねるinパピナ名掛丁

地名とは、土地の記憶を織り込んだ言葉だ。私は地域文化を記録する仕事をしている。地名の由来や語源、そこに生きた人々の営みを掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。

今回訪れたのは、仙台市中心部に位置する「名掛丁(なかけちょう)」という地名。仙台駅西口から続くアーケード街「ハピナ名掛丁」の名にも使われているが、初見では「めいかけちょう」や「なかがけちょう」と読んでしまいそうな難読地名だ。

名掛丁という地名は、江戸時代の仙台藩に存在した「御名懸組(おなかけぐみ)」という武士団に由来する。藩主・伊達政宗が勇敢な侍を名指しで選抜した組織であり、その組士たちの屋敷が置かれた町が「名懸丁」と呼ばれた。やがて「名掛丁」と表記されるようになり、現在まで約400年もの間、地名として受け継がれている。

私はその由来を確かめるため、そして現代の名掛丁の空気を感じるため、実際にハピナ名掛丁を歩いた。そこには、アーケードの賑わいの奥に、城下町の記憶が静かに息づいていた。

参考

ハピナ名掛丁商店街「伊達政宗公の時代から続く名掛丁のあゆみ

仙台市「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(《名掛丁》通り)

レファレンス協同データベース「名称の由来と全長を知りたい。(1)ハピナ名掛丁(2)クリスロ..」」

名掛丁の読み方と語源・由来

「名掛丁」と書いて「なかけちょう」と読むこの地名は、仙台市青葉区と宮城野区にまたがる商業地の一角に位置する。難読地名として知られるが、その由来・語源には明確な歴史的背景がある。

江戸時代、仙台藩には「御名懸組(おなかけぐみ)」という武士団が存在した。これは、藩主が勇敢な侍を「名を懸けて」選抜した精鋭部隊であり、徒歩侍の中でも特に信頼された者たちだった。彼らの屋敷が置かれた町が「名懸丁(なかけちょう)」と呼ばれ、やがて「名掛丁」と表記されるようになった。

「名を懸ける」という言葉には、命を懸けて主君に仕えるという意味が込められている。つまり、名掛丁とは、名誉と忠義を背負った侍たちが暮らした町だったのだ。

地名の「丁」は、武士の屋敷が並ぶ区画を指し、「町」は職人や商人の住む区域を意味する。名掛丁は侍町であり、城下防衛の要所でもあった。東は鉄砲町、西は新伝馬町に接し、石巻街道を通じて港町と城下町を結ぶ交通の要衝でもあった。

明治20年の鉄道開通により町は二分され、駅西側は繁華街として地名が変わったが、駅東側には今も「名掛丁」の地名が残っている。地名の響きには、武士町の誇りと歴史が静かに息づいている。

ハピナ名掛丁と四ツ谷用水

私は仙台駅西口を出て、アーケード街「ハピナ名掛丁」へと足を踏み入れた。平日の昼下がり、商店街には買い物客や観光客が行き交い、明るい照明とガラス屋根が街を包んでいた。だが、私はその賑わいの奥に、地名の記憶を探していた。

ハピナ名掛丁の「ハピナ」とは、「Heartful Amenity Place Interfaced Natural Arcade」の頭文字を取った造語で、現代的な都市空間を表している。だが、その下には、藩政時代から続く「名掛丁」という地名が静かに息づいている。

商店街の境目には、かつての生活用水「四ツ谷用水」の流れをモチーフにしたデザインが施されている。この水路は、藩政時代の町境でもあり、名掛丁とクリスロードの境界を今に伝えている。私はその場所に立ち、水の流れを想像しながら、かつての侍町の姿を思い描いた。なぜただの水路をわざわざデザインするのか。それはこの仙台という街の成り立ちに関わってくるほど重要なものだからだ。余談になるので下記に記載したので、時間があれば読んでほしい。

アーケードを進むと、老舗の和菓子店や履物屋、喫茶店が並び、どこか懐かしい空気が漂っていた。私は一軒の喫茶店に入り、窓際の席でコーヒーを飲みながら、通りを行き交う人々を眺めた。かつてこの通りを、御名懸組の侍たちが歩いていたのだろうか──そんな想像が、静かに胸に広がった。

名掛丁は、仙台七夕まつりのメインストリートのひとつでもある。色とりどりの吹き流しがアーケードを彩る夏の日、町の記憶は華やかに蘇る。私はその風景を思い浮かべながら、地名の奥にある物語に耳を澄ませた。

ハピナ名掛丁

所在地:〒980-0021 宮城県仙台市青葉区中央

四ツ谷用水と伊達政宗

四ツ谷用水は仙台藩初代藩主・伊達政宗が仙台城築城と同時に命じて造らせた人工用水路であり、城下町の生活と産業を支える重要なインフラだった。

政宗が仙台城を築いた青葉山は、自然の要害である一方、広瀬川からの水の供給が困難な河岸段丘に位置していた。そこで政宗は、県北部の北上川江合川の河川工事を成功させた家臣・川村孫兵衛重吉に命じて、広瀬川上流の郷六に堰を設け、隧道や掛樋を使って水を引き込み、城下町へと流す「四ツ谷用水」を完成させた。工事は1629年(寛永6年)に完了し、総延長は約44kmにも及んだ。

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この用水は、生活用水(炊事・洗濯)、防火用水、農業用水、産業用水(水車・染物・タバコ製造など)として活用され、急速に人口が増加した仙台城下町の暮らしを支えた。夏には道路に散水して地表温度を下げ、冬には雪捨て場としても使われるなど、四季を通じて市民の生活に密着していた。

また、四ツ谷用水は町の境界線としても機能し、名掛丁とクリスロードの間など、現在の都市構造にもその痕跡が残っている。ちなみにアエル(AER)のすぐ近くに記念碑もある。明治以降、上下水道の整備と車社会の到来により暗渠化が進み、地上から姿を消したが、今も一部の洗い場跡や隧道跡が残されており、仙台市では「四ツ谷用水再発見事業」としてその記憶を継承する取り組みが続けられている。

四ツ谷用水は、単なる水路ではない。政宗の都市設計思想と、仙台市民の暮らしの知恵が交差する「水の文化遺産」なのだ。

四ッ谷用水古今の記念碑

Aer, 1丁目-3-1 中央 青葉区 仙台市 宮城県 980-0021

まとめ

仙台市の難読地名「名掛丁(なかけちょう)」は、藩主・伊達政宗が名指しで選抜した精鋭侍「御名懸組」の屋敷が置かれた町であり、城下防衛の要としての役割を担った武士町の記憶を今に伝える地名である。

私はその地を歩きながら、地名の奥にある物語に耳を澄ませた。水の流れ、町の境界、そして人々の営み──それらが交差する場所に、名掛丁という地名は生まれた。

そしてその町の境界を流れていたのが、伊達政宗が築いた「四ツ谷用水」だった。広瀬川から水を引き、隧道や掛樋を通して城下町に供給されたこの用水は、生活・農業・産業・防火など多用途に活用され、急増する仙台市民の暮らしを支えた。総延長約44km、支流や枝流を含めて町を縦横に巡った水路は、まさに都市の命脈だった。

明治以降、暗渠化が進み、地上から姿を消したが、今も洗い場跡や隧道跡などが残されており、仙台市では再発見事業としてその記憶を継承している。名掛丁と四ツ谷用水──この二つの記憶が交差する場所に、仙台の歴史と文化が静かに息づいている。

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