【宮城県仙台市】地名「保春院前丁」の読み方や語源・由来をたずねるin若林区・少林山保春院
仙台市若林区に「保春院前丁(ほしゅんいんまえちょう)」という町名がある。初めてその名を目にしたとき、私は思わず足を止めた。寺の名を冠した町名は珍しくないが、「保春院」という響きには、どこか静かな祈りと、深い歴史の重みが感じられた。
調べてみると、この町名は伊達政宗の母・義姫の法名「保春院」に由来するという。政宗は寛永13年(1636)、母の十三回忌にあたり、菩提を弔うために保春院を創建した。寺の門前に広がる町が「保春院前丁」と呼ばれるようになったのは、自然な流れだったのだろう。
私はその由来に惹かれ、実際に町を歩いてみることにした。薬師堂駅から椌木通を抜け、若林区役所の前を通ると、保春院の門前に出る。寺町らしい静けさと、どこか懐かしい空気が漂っていた。
境内には入らなかったが、外から見た本堂は端正で、手入れの行き届いた庭が広がっていた。門前には玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)の墓があり、幕末の仙台藩士の記憶が今も息づいている。町名に刻まれた祈りと忠義——それは、政宗の母への想いと、藩士たちの志が重なり合う場所だった。
参考
せんだい旅日和「達人コース~保春院と陸奥国分寺薬師堂を巡る~」
仙台市「キッズコーナー(玉蟲左太夫肖像)」
所在地:〒984-0811 宮城県仙台市若林区
保春院前丁の読み方と由来・語源
保春院前丁——読み方は「ほしゅんいんまえちょう」。仙台市若林区に位置するこの町名は、臨済宗少林山保春院の門前町として成立した。寺の名を冠した町名は全国に点在するが、保春院前丁はその由来が極めて明確で、伊達政宗の母・義姫の法名「保春院」に直接結びついている。
義姫は政宗の父・輝宗の死後、出家して「保春院殿花窓久栄尼大姉」と号した。政宗は母の十三回忌にあたる寛永13年(1636)、覚範寺第四世・清岳宗拙和尚を開山として保春院を創建。寺は仙台藩一門格に列し、180石の寺領を持つ格式ある寺院となった。
町名の「前丁」は、寺の門前に広がる町割りを意味する。藩政期には寺町として栄え、周辺には薬師堂や椌木通、高砂堀など、仙台城下の歴史的地名が今も残っている。
保春院前丁という町名には、政宗の母への祈りと、仙台藩の文化的記憶が静かに息づいている。地名が語る物語に耳を澄ませることで、町の空気がより深く感じられるようになる。
参考
保春院「保春院の由緒|臨済宗妙心寺派 少林山」
保春院前丁を歩く
木ノ下にある薬師堂駅から椌木通を抜け、若林区役所の前を通ると、保春院の門前に出る。通り沿いには三百人町や連坊、南鍛冶町など古い町名が並び、寺町らしい静けさが漂っていた。保春院前丁——その名の通り、寺の前に広がる町である。
保春院の山門は質素ながらも風格があり、門前には手入れの行き届いた庭が広がっていた。本堂には入らなかったが、外から見た建物は端正で、静かに時を重ねてきたことが伝わってくる。門前には、伊達政宗の母・義姫の位牌を納めた寺としての由緒が記されていた。
この寺は、政宗が母の十三回忌にあたる寛永13年(1636)に創建したもので、臨済宗妙心寺派に属する少林山保春院と号する。実はこの「少林山」が、若林区という地名のルーツでもあるらしい。かつてこの地は「少林(わかばやし)」と書かれていたという。政宗が命名したとされるこの山号は、中国の禅宗の聖地・少林寺にちなんだもの。達磨大師が修行した少林寺の精神を、母の菩提寺に重ねたのだろう。
つまり、若林という地名には、政宗の宗教的素養と母への敬意が込められている。寺の名が町名となり、町名が区名となった——その流れを辿ると、仙台という都市の文化的深みが見えてくる。
境内の一角には、幕末の仙台藩士・玉蟲左太夫の墓がある。彼は藩政改革に尽力し、明治維新後は北海道開拓にも関わった人物。墓石は苔むしていたが、今も花が供えられており、地域の人々が彼の志を忘れていないことが伝わってきた。
玉蟲左太夫は、仙台藩の近代化を推進した志士であり、札幌農学校の設立にも関与した。彼の墓が保春院にあることは、仙台藩の精神がこの寺に集約されていることを示しているようだった。
保春院前丁を歩いていると、仙台箪笥の工房や御筆の店が点在し、手仕事の文化が今も息づいている。寺町の空気は、祈りと暮らしが重なり合う場所。保春院前丁は、政宗の母への想いと、藩士たちの志が静かに息づく町だった。
参考
仙台市「寺めぐり「連坊・木ノ下あたり」」
仙台市図書館「問 若林という地名は、伊達政宗が中国の少林山の」
所在地:〒984-0811 宮城県仙台市若林区保春院前丁50
玉蟲左太夫とは
保春院の境内にある墓石のひとつに、玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)の名が刻まれている。苔むした石碑の前に立ち、私はしばらくその名を見つめていた。玉蟲左太夫——幕末の仙台藩士であり、明治維新の激動期に活躍した人物である。
彼は仙台藩の藩政改革に尽力し、藩校・養賢堂の教官として若者の教育にも携わった。維新後は北海道開拓に関わり、札幌農学校の設立にも深く関与した。クラーク博士が来日する以前から、玉蟲は農業教育の重要性を説いており、近代日本の農政に先駆的な役割を果たした人物とされる。
また、彼は開拓使の官僚として北海道の地理調査や行政整備にも携わり、後に「北海道開拓の父」と称されることもある。仙台藩士としての誇りを胸に、新政府の中で冷静に職務を果たしたその姿勢は、保春院の静かな空気とよく似ている。
彼の墓が保春院にあることは、仙台藩の精神がこの寺に集約されていることを示しているようだった。政宗の母・義姫の祈りと、玉蟲左太夫の志——保春院は、仙台藩の“祈りと行動”が交差する場所なのだ。
参考
玉虫左太夫の墓
〒984-0811 宮城県仙台市若林区保春院前丁53−4
まとめ
保春院前丁——その名には、伊達政宗の母・義姫の祈りと、仙台藩士たちの志が刻まれている。政宗が母の十三回忌にあたり創建した保春院は、臨済宗妙心寺派の格式ある寺院であり、町名はその門前に広がる町割りに由来する。
寺の山号「少林山」は、かつてこの地が「少林(わかばやし)」と呼ばれていたことを示している。政宗が達磨大師の修行地・少林寺にちなんで名付けたとされるこの地名は、やがて若林区という行政区名にもなった。つまり、保春院前丁は若林という地名の源流でもある。
私は実際に町を歩き、保春院の門前に立った。本堂には入らなかったが、外から見た建物は端正で、静かに時を重ねてきたことが伝わってきた。境内には、幕末の仙台藩士・玉蟲左太夫の墓があり、彼の志が今も地域の人々に敬意をもって受け継がれていることが感じられた。
玉蟲左太夫は、藩政改革に尽力し、北海道開拓にも関わった人物。彼の墓が保春院にあることは、仙台藩の精神がこの寺に集約されていることを示しているようだった。
保春院前丁は、祈りと忠義、そして志が静かに息づく町。地名が語る物語に耳を澄ませることで、仙台という都市の文化的深みが見えてくる。
