【宮城県仙台市】地名「北目町」の読み方や由来・語源をたずねるin北目町通・賢聖院 二十三夜堂
仙台市中心部を歩いていると、ふと目に留まる地名がある。「北目町」と書いて「きためまち」。初見では読みづらく、どこか謎めいた響きを持つこの地名は、現代のビル群の中に静かに息づいている。北目町通は、五橋通から中央四丁目交差点までを結ぶ短い通りだが、沿道には河北新報本社やJR東日本仙台支社、仙台中央郵便局などが並び、仙台の都市機能の中枢とも言える場所だ。
だが、この地名が持つ意味は、単なる都市の一角にとどまらない。北目町は、仙台城下町の形成初期に誕生した町のひとつであり、その名は、かつて太白区郡山にあった「北目城下」から移住してきた人々の記憶を今に伝えている。伊達政宗が仙台城の築城に着手した慶長年間、野原だったこの地に家臣や商工業者が移り住み、新しい町が形づくられていった。その中には、北目城下で物資の運搬を生業としていた人々も含まれていた。
地名とは、土地の記憶を宿す器である。「北目町」という名には、移住の記憶、信仰の継承、そして城下町としての誇りが込められている。現代の地図では見えづらいその背景を探るため、私は北目町通を歩き、資料を読み、地元の人々の声に耳を傾けた。そこには、都市の表層を越えて、仙台という町の深層に触れる旅が待っていた。
参考
〒980-0023 宮城県仙台市青葉区北目町
北目町の読み方や由来・語源
「北目町」と書いて「きためまち」。この地名は、仙台市青葉区の中心部に位置しながら、初見ではなかなか読めない難読地名のひとつだ。読み方の由来は、単なる音の変化ではなく、歴史的な移住の記憶に根ざしている。
かつて太白区郡山には「北目城」があった。室町時代から続く大きな城で、関ヶ原合戦の際には伊達政宗が西軍の白石城攻略の拠点として用いた軍事的要地でもある。その城下に暮らしていた人々が、仙台城築城に伴って政宗の命で移住し、新たに形成された町が「北目町」だった。
つまり、「北目町」とは、郡山北目から移ってきた人々の記憶を宿す地名であり、方角や地形を表すものではない。検断を務めた関口家の由緒書には、慶長6年(1601年)から北目町に住んでいたと記されており、仙台城下町の形成初期からこの町が存在していたことがわかる。
また、北目城下にあった信仰の対象「得大勢至菩薩」も、町の人々とともに移されたと伝えられている。信仰と暮らしが一体となった移住は、単なる行政的な区画整理ではなく、土地の記憶をまるごと運ぶ行為だった。「きためまち」という響きには、そうした人々の営みと祈りが静かに息づいている。
参考
北目城と北目町 | 仙台駄菓子 くるみゆべし お中元・お歳暮・お ...
仙台の北目町通をたずねる
冬晴れの午後、私は北目町通を歩いた。五橋通の交差点から東へ向かって伸びるこの通りは、現在ではビルが立ち並ぶオフィス街だが、かつては仙台城下町の一角として、宿場町や商業地として賑わっていた。通りの両側には街路樹のユリノキが並び、現代の都市景観の中に、どこか懐かしい空気が漂っている。
通り沿いには、明治元年創業の相崎旅館がある。初代は岩出山から移住してきた商人で、北目町の歴史を今に伝える存在だ。岩出山は伊達政宗が仙台の前に約12年拠点とした大崎市の城下町。その時から岩出山に移住してきたとなると古参である。北目町はかつては劇場が立ち並び、芝居や講談、手品などで賑わったという。北目町は、奥州街道沿いの宿場町として、そしてレジャー街としても栄えていた。
歩いていると、ふと「北目町」という地名が、単なる住所ではなく、移住と信仰、そして都市の記憶を宿す言葉であることを実感する。通りの先には、賢聖院 二十三夜堂があり、北目城下から移された得大勢至菩薩が祀られている。この仏さまもまた、町の人々とともに新天地へと移り、今も静かに祈りを受け止めている。
現代の北目町通は、都市の幹線道路として機能しているが、その下には、城下町としての記憶が幾重にも重なっている。歩くことでしか見えてこない風景が、ここには確かにあった。
参考
相崎旅館「北目町と相崎旅館の歴史」
所在地:宮城県仙台市青葉区
まとめ
「北目町(きためまち)」という地名には、仙台という都市の成り立ちと、人々の営みの記憶が静かに息づいている。読みづらいこの地名は、単なる難読地名ではない。そこには、かつて太白区郡山にあった北目城下からの集団移住という、歴史的な出来事が刻まれている。
伊達政宗が仙台城の築城に着手した慶長年間、現在の青葉区北目町一帯は、まだ人家もまばらな野原だった。そこに新たな城下町を築くため、政宗は家臣や商工業者を各地から呼び寄せた。米沢や岩出山からの移住者に加え、北目城下で物資の運搬などを生業としていた人々もこの地に移り住み、新たな町を形成した。それが「北目町」の始まりである。
この移住は、単なる住民の移動ではなかった。人々は信仰の対象であった得大勢至菩薩をともに運び、賢聖院 二十三夜堂に祀った。信仰と暮らしが一体となった移住は、土地の記憶をまるごと運ぶ行為だった。北目町という地名には、そのような精神的な連続性が込められている。
現代の北目町通は、仙台の中心部を貫く幹線道路として、ビルが立ち並ぶオフィス街となっている。だが、通りを歩けば、相崎旅館のような老舗の建物や、二十三夜堂の静かな佇まいが、かつての城下町の面影を今に伝えてくれる。明治から昭和にかけては劇場や講談、手品などで賑わったレジャー街としても知られ、北目町は常に人々の暮らしと文化の交差点であり続けてきた。
地名とは、土地の記憶を編み込んだ言葉である。「北目町」という名には、移住の記憶、信仰の継承、そして城下町としての誇りが込められている。現代の地図では見えづらいその背景をたどることで、仙台という都市の深層に触れることができる。北目町は、都市の表層を越えて、歴史と人々の営みを静かに語り続けている。歩くことでしか見えてこない風景が、ここには確かにある。
