【宮城県仙台市】地名「若林区」の読み方や由来・語源をたずねるin若林城跡・保春院
仙台市の南東部に位置する若林区。その名を耳にすると、どこか柔らかく、しかし奥に深い歴史を秘めた響きを感じる。青葉区の華やかな仙台城址や定禅寺通りに比べると、若林区は観光地としての知名度は高くないかもしれない。だが、歩いてみると、そこには伊達政宗の晩年の姿と、仙台城下のもう一つの顔が確かに息づいている。
若林区の名は、政宗が築いた若林城、そして母・義姫の法名にちなむ少林山保春院に由来する。政宗は仙台城を築いてからおよそ30年後、寛永4年(1627)にこの地に新たな城を構えた。幕府には「屋敷」と届け出たが、実際には執務を行い、家督を譲った後も院政のように藩政に影響を与え続けたとされる。青葉区の町割りが仙台城を基点に碁盤の目のように広がるのに対し、若林区の町割りは若林城を基点に斜めに展開している。五橋通りと東二番町通りが交差する地点にその痕跡が残り、二つの城下町が重なり合う仙台の都市構造の特異性を物語っている。
さらに若林城の周囲には、五十人町、六十人町、三百人町、成田町といった足軽町が配置され、軍都としての性格を色濃く示していた。広瀬川を背にした立地は南からの防御線として機能し、川を下れば太平洋へと抜ける水運の利便性も備えていた。政宗の戦略眼と都市設計の巧みさが、この地に凝縮されている。
そして、若林区のもう一つの由来である保春院。政宗が母・義姫の十三回忌にあわせて創建した寺であり、政宗が最後に参詣した寺としても知られる。廃寺同然となった時期もあったが、今も本堂には義姫と父・輝宗の位牌が残り、政宗の祈りの痕跡を伝えている。
若林区を歩くことは、仙台のもう一つの城下町を歩くことにほかならない。青葉区の華やかさとは異なる、政宗の晩年の影と祈りが刻まれた土地。そこに立つと、若林という地名が単なる行政区名ではなく、仙台の歴史そのものを映す言葉であることを実感する。
参考
仙台市「若林区の魅力発見(平成14年度仙台開府400年記念事業)」「わかばやし五つの顔」「若林区のあゆみ」
若林区の読み方と由来・語源
若林区の正式な読み方は「わかばやしく」。1989年に仙台市が政令指定都市となった際に誕生した行政区のひとつであるが、その名は江戸時代初期にまで遡る。由来は二つある。一つは伊達政宗が晩年を過ごした若林城、もう一つは母・義姫の法名にちなむ少林山保春院である。
まず若林城について。政宗は仙台城を築いてから約30年後の寛永4年(1627)、城下の東南に「古城」と呼ばれる地に新たな城を築いた。幕府には「屋敷」と届け出ていたが、実際には藩政を執る場であり、家督を譲った後も政宗が実権を握り続けたことから「院政の城」とも呼ばれる。城の規模は東西約400メートル、南北約350メートル、土塁の高さ約6メートル。湿地帯に築かれたため難工事だったが、完成後は周囲に足軽町が整備され、軍事的にも重要な拠点となった。
一方、保春院は政宗が母・義姫の十三回忌にあわせて創建した寺である。義姫は政宗の父・輝宗の死後に出家し、法名を「保春院殿花窓久栄尼大姉」と称した。政宗はその菩提を弔うため、覚範寺の僧を開山として迎え、保春院を建立した。政宗が最後に参詣した寺としても知られ、彼の人生の終幕を象徴する場所となっている。
こうして「若林」という地名は、政宗の晩年の居城と母への祈りを重ね合わせた言葉として残った。青葉区が仙台城を中心とした華やかな城下町を象徴するのに対し、若林区は政宗の晩年と祈りを映す土地。地名そのものが、仙台の歴史のもう一つの側面を語っている。
参考
保春院「保春院の由緒|臨済宗妙心寺派 少林山」
若林城跡(小泉古城)
所在地:〒984-0825 宮城県仙台市若林区古城2丁目3
若林城跡を訪ねる
若林区を歩くと、青葉区とは異なる空気を感じる。仙台駅から南東へ向かい、河原町を抜けて古城神社の前を通ると、やがて宮城刑務所の高い塀が見えてくる。ここがかつての若林城址である。今は宮城刑務所の高い塀に囲まれ、内部をうかがうことはできない。しかし周囲を歩けば、土塁や堀の跡が今も残り、往時の姿を偲ぶことができる。堀に水が流れる様子を目にすると、ここがかつて政宗の晩年を支えたもう一つの城であったことを実感する。
NHKブラタモリによると、政宗は寛永4年(1627)にこの城を築き、家督を二代目忠宗に譲った後も実権を握り続けたという。幕府の一国一城令により、藩には一つの城しか許されなかったため、若林城は「屋敷」として届け出られた。しかし実際には藩政を執る場であり、政宗が院政を敷いた証とされる。青葉区の町割りが仙台城を基点に碁盤の目のように広がるのに対し、若林区の町割りは若林城を基点に斜めに展開している。五橋通りと東二番町通りの交差点にその痕跡が残り、二つの城下町が重なり合う仙台の都市構造の特異性を示している。
さらに若林城の周囲には、五十人町、六十人町、三百人町、成田町といった足軽町が配置され、軍都としての性格を色濃く示していた。歩兵たちの居住区が城を取り囲むように置かれたことで、防御と即応性が高められていたことがわかる。南側には広瀬川が流れ、天然の防御線として機能していた。流れの速い川を背にした立地は、敵の進軍を阻むと同時に、水運を利用して太平洋へと抜ける利便性も備えていた。
若林城は政宗が晩年を過ごした隠居所であると同時に、なお藩政を動かし続けた「院政の城」であった。若林区の町割りは、青葉区の碁盤の目とは異なり、斜めに展開している。五橋通りと東二番町通りの交差点に立つと、二つの城下町が重なり合う仙台の都市構造の特異性を肌で感じることができる。政宗が家督を譲った後もなお影響力を保ち続けた証が、町の形そのものに刻まれているのだ。
若林区を歩くことは、仙台のもう一つの城下町を歩くことにほかならない。軍都の厳しさと、政宗の祈りの記憶。その両方が、この土地の空気に溶け込んでいる。
参考
保春院を訪ねる
若林区の地名の由来をたどると、必ず行き着くのが「少林山保春院」である。若林城跡の近くにあり、保春院前丁という町名にもなっており、存在感がある。現在は静かな住宅街の一角に佇む寺院だが、その背後には伊達政宗と母・義姫の深い物語が息づいている。
保春院という名は、政宗の父・輝宗の死後に出家した義姫が授かった法名「保春院殿花窓久栄尼大姉」に由来する。政宗は寛永13年(1636)、義姫の十三回忌にあわせてこの寺を創建した。開山には覚範寺の僧・清岳宗拙和尚を迎え、母の菩提を弔うための場としたのである。政宗は江戸へ最後の参勤に出発する直前、この寺に参詣し、完成を祝ったと伝えられる。まさに人生の終幕を前にした祈りの場であった。
境内に足を踏み入れると、往時の壮大さは失われているものの、静謐な空気が漂っている。本堂には今も義姫と輝宗の位牌が安置され、政宗が母を想い、父を偲んだ記憶がそこに宿っている。かつては仙台七刹の一つに数えられ、180石の寺領を持つ大寺院であったが、度重なる火災や明治維新による庇護の喪失で衰退した。それでも、政宗が母のために建立したという事実は変わらず、寺の存在そのものが若林区の地名の由来を物語っている。
保春院を歩くと、政宗の人間的な一面が浮かび上がる。戦国武将としての豪胆さや都市設計者としての才覚だけでなく、母を想い、祈りを捧げる息子としての姿。若林区という地名には、そうした政宗の個人的な記憶と祈りが刻まれているのだ。
所在地:〒984-0811 宮城県仙台市若林区保春院前丁50
電話番号:0222560486
まとめ
若林区という地名は、単なる行政区名ではない。そこには伊達政宗の晩年の姿と、母・義姫への祈りが重なっている。若林城と保春院、この二つの存在が区名の由来であり、仙台の歴史を語る上で欠かせない要素である。
若林城は、政宗が家督を譲った後も実権を握り続けた「院政の城」であった。幕府の一国一城令により「屋敷」と届け出られたが、実際には藩政を執る場であり、軍事的にも重要な拠点だった。周囲に足軽町を配置し、広瀬川を背にした立地は防御と水運の両面で優れていた。青葉区の町割りが仙台城を基点に広がるのに対し、若林区の町割りは若林城を基点に斜めに展開している。都市の形そのものが、政宗の影響力を今に伝えている。
一方の保春院は、政宗が母・義姫の十三回忌にあわせて建立した寺である。政宗が最後に参詣した寺としても知られ、彼の人生の終幕を象徴する場所となった。度重なる火災や明治維新による衰退を経ても、本堂には義姫と輝宗の位牌が残り、政宗の祈りの痕跡を今に伝えている。
若林区を歩くと、軍都としての厳しさと、祈りの場としての静けさが同居していることに気づく。政宗の戦略眼と人間的な一面、その両方がこの土地に刻まれているのだ。青葉区が仙台の華やかな顔を象徴するなら、若林区は政宗の晩年と祈りを宿すもう一つの城下町である。
現代の若林区に残る町名や寺院は、仙台の歴史を今に伝える生きた証人だ。若林区を訪ねることは、政宗の記憶をたどり、仙台という都市の奥行きを知る旅でもある。
