【宮城県仙台市】日本三大駒の1つ「木下駒」を訪ねるin陸奥国分寺薬師堂
祖母の家の神棚の脇に、黒地に赤と白の模様が描かれた小さな木馬が飾られていた。子どもの頃はそれが何なのか分からず、ただ「かわいい馬」と思っていたが、ある日祖母が「これは木下駒っていうの。仙台のものだよ」と教えてくれた。さらに、古びた紙に印刷された説明文も見せてくれた。そこには「馬の災厄を除くために神棚に飾り、守護神として愛重された」とあり、私はその一文に強く惹かれた。
木下駒──仙台市の郷土玩具であり、かつて馬産地だったこの地の歴史と信仰が宿る民芸品。調べてみると、青森の八幡馬、福島の三春駒と並び「日本三大駒」と称されるほどの存在であることが分かった。かつては数軒の工房が製造していたが、現在では「工房けやき」一軒のみがその伝統を守っているという。
私はこの木下駒の由来を辿るため、仙台市若林区にある陸奥国分寺跡──木下薬師堂へと向かった。祖母の棚にあった小さな馬のかたちが、仙台という都市の記憶を語る鍵になるとは思ってもみなかった。
参考
レファレンス協同データベース「仙台郷土玩具の木下駒の由来を知りたい。 」
木下駒とは──馬産地・仙台に宿る祈りのかたち
木下駒(きのしたごま)は、仙台市の郷土玩具で、黒地に赤・白・緑の模様が描かれた木製の馬。別名「青葉駒」とも呼ばれ、かつてこの地方が馬産地として知られていたことに由来する。その特徴は、鞍掛に菊花の模様、胸掛には赤地に五条の白線が引かれており、素朴ながらも力強い造形と色彩が印象的だ。
木下駒の起源は奈良・平安時代にまで遡るとされる。当時、陸奥国府が置かれていた多賀城の長官は、国分寺木下薬師堂の境内で開かれる馬市で良馬を選び、京の朝廷に献上する「駒牽(こまひき)」の儀式を行っていた。その際、献上馬の胸には「馬型」と呼ばれる木製の飾りが下げられており、この馬型を模して作られたのが木下駒の始まりだと伝えられている2。
この木馬は、馬の災厄を除く守り神として神棚に飾られたり、厩に吊るされたりして、飼い馬の安全を祈るために用いられた。旧暦三月三日の木下薬師堂の祭礼では、蘇民将来の護符やぼんぼこ槍とともに木下駒が売られ、全国的にも知られる存在となった。
参考
木下駒付属柴田商工の説明書
木下駒の歴史と由来──柴田商工の説明文から読み解く
祖母が持っていた木下駒には、柴田商工による古い説明文が添えられていた。そこには、次のような由来が記されている。
「聖武帝の昔(約一千二百数十年前)奥州仙台の木の下に陸奥国分寺の創建があった。旺時より国分寺の境内で恒例として馬のせり市が立てられ、国府は駿馬を選び、時の帝へ献上する慣習があり…」
この文は、木下駒が単なる玩具ではなく、朝廷への献馬という国家的儀礼に関わる象徴だったことを示している。選ばれた馬は「駒迎え」として近江の逢坂、美濃の不破関などへ送られ、朝廷では「駒迎の節会」と呼ばれる歌会や賀宴が催された。その馬の胸に下げられた「うまかた」が、木下駒の原型であるという。
このように、木下駒は仙台の馬産文化と朝廷儀礼、そして民間信仰が交差する地点に生まれた民芸品であり、単なる郷土玩具ではない深い背景を持っている。
三春駒・八幡駒との違い
木下駒は、青森県八戸市の八幡駒、福島県郡山市旧三春藩領の三春駒と並び、「日本三大駒」と称される郷土玩具である。それぞれの駒には地域性と造形の違いがあり、木下駒はその中でも特異な個性を放っている。
三春駒は、白木地に赤や黒の模様が描かれ、素朴で柔らかな印象を持つ。八幡駒は、力強い造形と鮮やかな色彩が特徴で、馬産地・南部藩の武家文化を反映している。
一方、木下駒は黒地に赤・白・緑の模様が施され、鞍掛には赤地に金色で菊花の紋が描かれている。この菊紋は、皇室の象徴であり、献馬の儀礼と朝廷とのつながりを暗示している。胸掛には赤地に五条の白線が引かれ、馬の力強さと神聖さを表現している。
木下駒は、単純粗野の中に奇抜な着色と形態があり、蒐集家からも高く評価されてきた。その造形は、仙台の歴史・信仰・美意識が凝縮された「祈りのかたち」であり、他の駒とは一線を画す存在感を持っている。
なぜ東北玩具に馬が多いのか
木下駒、三春駒、八幡駒──いずれも東北地方に生まれた郷土玩具である。なぜ馬の人形がこれほどまでに東北に集中しているのか──その背景には、東北が古来より「駿馬の産地」であり、馬とともに生きてきた土地であるという事実がある。
かつて宮城県の鬼首(おにこうべ)は、仙台藩の秘境とされ、藩の管理下で秘密裡に駿馬の交配が行われていたという伝承が残っている。山間の冷涼な気候と広大な草地は、馬の育成に適しており、藩の軍馬政策の要所だったとされる。
青森県では「寒風馬(かんぷうば)」が知られ、八戸の種差海岸には芝生がぎっしりと敷き詰められ、かつては馬が草を食みによく訪れていたという。寒風馬は耐寒性に優れ、冬の厳しい気候にも耐えることができる馬として重宝された。八幡駒は、そうした馬産地の文化を反映した郷土玩具である。
岩手県に目を向けると、源義経が騎馬戦術を学んだ地として知られている。伝承によれば、義経は一頭の馬が走り出すと群れ全体が追随するという馬の習性を利用し、騎馬集団を戦術的に運用した。これは世界初の騎馬戦術とも言われ、岩手が軍馬育成の地であったことを物語っている。
なぜ岩手なのか──それは、古来より馬の産地として知られ、奥州藤原氏の時代には平泉周辺で軍馬の育成が盛んに行われていたからだ。広大な高原地帯と冷涼な気候は、馬の育成に理想的な環境を提供していた。
こうして見ると、木下駒をはじめとする馬の郷土玩具が東北に集中していることは、偶然ではなく、地理的・歴史的な必然である。馬は東北の生活、信仰、戦術、そして美意識に深く根ざしており、そのかたちが玩具として残されたのは、土地の記憶が民芸に昇華された結果なのだ。
木下駒の胸掛に描かれた赤地に金色の菊花紋──それは、朝廷への献馬という儀礼的背景を象徴すると同時に、東北の馬文化がいかに高い格式と信仰性を持っていたかを物語っている。馬のかたちに宿る記憶は、東北という土地の精神そのものなのかもしれない。
陸奥国分寺跡を訪ねる
木下駒の由来を辿る旅の中で、私は仙台市若林区にある陸奥国分寺跡──木下薬師堂へと向かった。ここは、奈良時代・聖武天皇の勅願によって創建された東北最古の官寺であり、仙台という都市の宗教的・文化的な源流とも言える場所だ。
「聖武帝の昔(約一千二百数十年前)奥州仙台の木の下に陸奥国分寺の創建があった。旺時より国分寺の境内で恒例として馬のせり市が立てられ、国府は駿馬を選び、時の帝へ献上する慣習があり…」──祖母が持っていた木下駒の説明文には、こう記されていた。
この地で行われていた馬市は、単なる交易ではなく、朝廷への献馬という国家的儀礼と結びついていた。選ばれた馬は「駒迎え」として京へ送られ、天皇のもとで「駒迎の節会」と呼ばれる歌会や賀宴が催されたという。その馬の胸に下げられていた「馬型」が、木下駒の原型とされている。
木下という地名は、古くから歌枕としても知られ、和歌に詠まれる風雅な土地であった。政宗公の和歌にも「木の下」が登場し、仙台の文化的記憶の中核を成している。陸奥国分寺跡は、そうした記憶が折り重なる場所であり、木下駒の精神的な故郷でもある。
現在の薬師堂境内は静かな佇まいだが、旧暦三月三日には「木の下薬師堂の祭礼」が行われ、蘇民将来の護符やぽんぽこ鎗とともに木下駒が販売されていた。かつては数軒の工房が並び、露店で駒を買い求める人々の姿があったという。今では「工房けやき」一軒のみが製作を続けているが、その伝統はこの地に根を張り続けている。
陸奥国分寺跡──それは、仙台最古の寺であり、木下駒の記憶が今も息づく、文化の泉のような場所だった。
所在地:所在地: 〒984-0047 宮城県仙台市若林区木ノ下3丁目15−3
木下駒はどこで買えるのか
かつては数軒の工房が製作していた木下駒も、現在では「工房けやき」一軒のみが伝統を守っている。しかし、現代の仙台では、さまざまな形で木下駒に出会うことができる。
まず、仙台市青葉区一番町にある「こけしのしまぬき本店」では、木下駒をはじめとする郷土玩具や工芸品を取り扱っている。しまぬきは明治時代創業の老舗で、仙台の民芸文化を支える拠点として知られており、Googleの口コミでも高評価を得ている。店内には木下駒の実物が展示・販売されており、実際に手に取ってその造形美を味わうことができる。
所在地: 〒980-0811 宮城県仙台市青葉区一番町3丁目1−17 しまぬきビル 1階
ただし、木下駒はすべて手作業で製作されているため、入荷数が限られており、店頭に並ぶタイミングは不定期である。訪問時に在庫がないこともあるため、確実に入手したい場合は事前の問い合わせや予約がおすすめだ。
また、NPO法人「みやぎセルプ協働受注センター」では、工房けやき製の木下駒をオンラインで購入可能。木工品カテゴリに掲載されており、伝統工芸と福祉が結びついた取り組みとして注目されている。こちらも手作業による製作のため
木工品 « 商品情報のカテゴリー « みやぎセルプ協働受注センター
まとめ
木下駒は、仙台という都市の記憶を宿した民芸品である。黒地に赤・白・緑の模様を施した木馬は、かつて馬産地だった仙台の風景と、朝廷への献馬という国家的儀礼、そして民間信仰が交差する地点に生まれた。
祖母の棚に飾られていた木下駒は、単なる玩具ではなく、馬の災厄を除く守り神としての役割を持っていた。その由来を辿ると、陸奥国分寺の馬市、駒迎えの節会、そして旧三月三日の薬師堂祭礼での販売など、仙台の歴史と文化が複雑に絡み合っていることが分かる。
現在では「工房けやき」一軒のみが製作を続けているが、その活動は民芸品の継承にとどまらず、地域福祉と文化の融合という新たな可能性を示している。木下駒は、青森の八幡馬、福島の三春駒と並び「日本三大駒」と称されるが、その背景にある物語は、仙台という町の深さを物語っている。
さらに、東北が古来より駿馬の産地であり、鬼首での交配、八戸の種差海岸での放牧、岩手での騎馬戦術の伝承など、馬とともに生きてきた土地性が、木馬というかたちに昇華されたのだと感じる。木下駒は、祈りと記憶を乗せて、今も静かに仙台の片隅で息づいている。