【宮城県仙台市】難読地名「榴ケ岡」の読み方・語源由来・伝説を追うin榴ヶ岡公園・天満宮
榴ヶ岡の読み方
榴ヶ岡は「つつじがおか」と読む──仙台駅東口からほど近くに広がる「榴ヶ岡」の地名に、私は強く惹かれた。「榴」と書いて「つつじ」と読む。初見では読めず、意味も掴みにくい。だがその響きには、古代の歌枕のような気配があった。
私はその地名の由来を確かめるため、榴ヶ岡公園へ向かった。駅前の喧騒を抜けると、広々とした緑地が現れる。シダレザクラの並木が風に揺れ、かつての紅躑躅の名残を感じさせる。仙台市民のお花見スポットの1つだ。春になると学都仙台の学生や会社員が一同に集まり、大賑わいとなる。筆者もかつて榴ヶ岡公園のお花見に参加したが、ツツジについては気にもしていなかった。
公園の一角には釈迦堂があり、仙台藩四代藩主・伊達綱村が母・三沢初子の供養のために建立したものだという。京都から桜や梅を取り寄せて植え、武士も庶民も楽しめる「四民遊覧の地」として整備された。
綱村は教養が高く、和歌や詩など文学的なものに精通していたと聞いている。大事な母親を古来からの歌枕の場所に供養するのは、彼なりの風流だろうか。地名と祈りが重なる場所──それが榴ヶ岡だった。
躑躅岡釈迦堂碑
所在地:〒983-0851 宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡
参考
仙台市『榴岡公園の桜』について
仙台市図書館「037_「榴岡」を「つつじがおか」読ませるのは何故か( ...」
国立国会図書館「「つつじがおか」の地名について、榴ヶ岡、榴岡、榴が丘等 ...」
榴ヶ岡の由来・語源──紅躑躅と都々摺染めの伝承
「榴ヶ岡(つつじがおか)」という地名は、古くは「躑躅岡」と書かれ、紅躑躅の名所として知られていた。平安期にはすでに歌枕として詠まれ、『蜻蛉日記』『夫木抄』などにも登場する。和歌では、つつじの花ではなく「くまつづら」に恋の辛さを重ねる歌が多く、榴ヶ岡は感情の揺らぎを映す場所として記憶されてきた。
地名の由来については、『奥羽観蹟聞老志』に「紅躑躅を衣に摺りて都々摺(つつじずり)と号す」とあり、当地に産する紅躑躅を染料にして布を染めたことに由来するとされる。つまり「榴」は「山榴(つつじ)」の略であり、地名そのものが植物と技術、そして歌の記憶を編み込んだものだった。
榴ヶ岡公園
所在地〒983-0842 宮城県仙台市宮城野区五輪1丁目301-3外
🟩 地名が語るもの──歌枕・軍記・祈りが交差する榴ヶ岡の霊性
榴ヶ岡は、源俊頼や西行法師らの和歌にも詠まれ、京の都人にとって憧れの地だった。源俊頼は「つつじが岡にて」として、
つつじ見に 人は来つれど 山ざくら 咲きてしらぬは 春のかげかも
と詠み、花の盛りを見逃す人の心を重ねている。榴ヶ岡は、花の名所であると同時に、感情の揺らぎを映す場所として記憶されてきた。
また、文治5年(1189)の『吾妻鏡』には、源頼朝の奥州合戦の際、藤原泰衡が国分原(宮城野)と鞭楯(むちたて)に本陣を構えたとあり、鞭楯は榴ヶ岡周辺とされる。仙台城造営時には、青葉山と並ぶ候補地として検討され、都市計画の記憶も残されている。
松尾芭蕉が『奥の細道』で見た榴ヶ岡の風景と歌枕の記憶
玉田や横野を過て、つゝじが岡に至る。古歌に聞えたる所なれば、あせびの花咲ける比とて、木の下といふ所に入りて、薬師堂・天神の御社など拝みて、日くれぬ。
(出典:山梨県立大学 伊藤洋一編『奥の細道』現代語訳・注釈版より)
解説
松尾芭蕉は元禄2年(1689)5月、仙台に滞在し、絵師・加右衛門の案内で「つつじが岡」に足を運んだ。芭蕉はその日記に、榴ヶ岡が「古歌に聞えたる所」として、歌枕の地であることを明記している。彼が訪れた時期は「あせびの花咲ける比」とあり、紅躑躅の盛りではなかったが、木の下に入り、薬師堂や天神社を拝んで日が暮れたと記している。
この記述は、榴ヶ岡が単なる花の名所ではなく、信仰と文学が交差する場所であったことを示している。源俊頼の句を意識したものだろうか。芭蕉の旅は、歌枕を実地に踏むことで、和歌の記憶を身体化する試みでもあった。榴ヶ岡はその象徴的な地であり、芭蕉の句碑が今も榴ヶ岡天満宮内に点在している。
〒983-0851 宮城県仙台市宮城野区榴ケ岡105−3
仙台市図書館「41. 仙台市内にある芭蕉碑」
まとめ
榴ヶ岡──「つつじがおか」と読むこの地名は、仙台市宮城野区の東部に広がる静かな丘陵地である。かつては紅躑躅の名所として知られ、平安期には歌枕として和歌に詠まれた。地名の由来は、当地に産する紅躑躅を染料にして布を染めた「都々摺染め」にあるとされ、「山榴岡(つつじがおか)」を略して「榴岡」と呼ばれるようになった。
この地は、文治5年の源頼朝による奥州合戦の際、藤原泰衡が本陣を構えた鞭楯の地ともされ、軍事的にも要地だった。仙台城造営の際には、青葉山と並ぶ候補地として検討され、都市計画の記憶も残されている。
近世には、仙台藩四代藩主・伊達綱村が母・三沢初子の供養のために釈迦堂を建立し、周辺には茶屋街や遊女町が形成された。榴ヶ岡は、花の名所から祈りの場、そして遊楽の地へと変遷しながら、地名に込められた記憶を今に伝えている。
私は榴ヶ岡公園の桜並木に立ち、風に揺れる枝を見つめながら、地名が語る物語に耳を澄ませた。難読の地名に込められた祈り──それは、土地の人々が静かに守り続けてきた記憶の織り目だった。