【宮城県仙台市】宮城県最古の「多賀神社」を訪れるin太白区富沢
地名や社名は、土地の記憶を編み込んだ器だ。私は地域文化を記録する仕事をしている。各地の伝統産業や民俗、地名の由来、そして神社仏閣に刻まれた歴史を掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。
今回訪れたのは、宮城県仙台市太白区富沢に鎮座する「多賀神社」。仙台市内で最古の神社とも言われるこの社は、住宅街の一角にありながら、境内に足を踏み入れると空気が一変する。鳥居をくぐると、樹齢数百年のシラカシの御神木が静かに立ち、参道には桜や緑が四季折々の風情を添えている。
社伝によれば、創建は景行天皇40年(西暦110年)。東征の途上、日本武尊がこの地に伊弉諾尊を勧請したことに始まるという。伊弉諾尊は国産み・神産みの神であり、延命・再生・浄化の象徴。そのため、多賀神社は古くから「延命の社」として親しまれてきた。
神話の時代からある建造物、好奇心が惹かれないわけがない。
私は特にこの神社の名に惹かれた。「多賀」とは何か。なぜ仙台に、宮城県最古とされる神社があるのか。ご利益は? どんと祭とは? そして景行天皇とはどんな人物だったのか──その答えを探すため、私は富沢の地を歩いた。
参考
仙台市「多賀神社|仙台市 緑の名所 100選」
宮城県神社庁「多賀神社」
三神峯商店会「多賀神社」
仙台市最古の多賀神社とは
多賀神社の創建は、社伝によれば景行天皇40年(西暦110年)とされている。第12代天皇である景行天皇は、古事記や日本書紀に登場する伝説的な人物であり、東国平定のために日本武尊(ヤマトタケル)を派遣したとされる。その東征の折、日本武尊がこの地に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を勧請し、社を建てた──それが多賀神社の始まりだという。
伊弉諾尊は、日本神話における「国産み・神産み」の神であり、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに日本列島と多くの神々を生み出した存在。死別の後、黄泉の国から戻った伊弉諾尊は禊を行い、そこからさらに三貴神(天照大神・月読命・須佐之男命)を生んだとされる。つまり、伊弉諾尊は「生の神」であり、延命・再生・浄化の象徴でもある。
そのため、多賀神社は古くから「延命の社」として親しまれてきた。境内には「箍納め所」があり、願掛けされた箍(たが)が奉納されている。これは桶の輪のような形をした木の枠で、願いが「外れないように」「壊れないように」と祈る象徴だという。
多賀神社
所在地: 〒982-0032 宮城県仙台市太白区富沢3丁目15−1
電話番号: 022-245-8199
多賀という名の広がり──箍の祈りと信仰の系譜
社殿の近くには実際に奉納された箍が飾られており、素朴ながらも力強い信仰の痕跡が感じられる。延命の神・伊弉諾尊に願をかける人々の思いが、形となって残っているのだ。
興味深いのは、「多賀」という名が宮城県内に広く分布していることだ。名取市にも多賀神社があり、さらに「多賀城」という市名も残る。多賀城は奈良時代に陸奥国府が置かれた東北の政治・軍事・文化の中心地であり、「多賀」という名が古代からこの地に根づいていたことを示している。
「多賀神社」の総本社は、滋賀県犬上郡多賀町にある多賀大社。伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀る延命長寿の神社として知られ、「お伊勢参りのあとはお多賀参り」と言われるほど、古くから庶民の信仰を集めてきた。宮城の多賀神社がこの総本社と直接の関係を持つかは定かではないが、「多賀」という名が東北に広がっている背景には、古代の信仰や文化の伝播があったのかもしれない。
多賀大社
所在地: 〒522-0341 滋賀県犬上郡多賀町多賀604
電話番号: 0749-48-1101
なぜ仙台に?
多賀神社は『延喜式神名帳』に記された「多加神社(陸奥国名取郡)」に比定される式内社の論社でもある。式内社とは、平安時代に編纂された『延喜式』に記載された由緒ある神社のこと。つまり、中央政府がその存在を認めていた格式ある社ということになる。
この比定については、名取市高柳にも同名の神社があり、明治期には式内社論争が起きた。結果的に、富沢の多賀神社が式内社と認定され、高柳の社は社領があった場所とされた。いずれにせよ、この地が古代から重要な信仰の場であったことは間違いない。
周辺には富沢遺跡、大野田古墳群、郡山遺跡などが点在し、縄文から古墳時代にかけての人々の営みが確認されている。つまり、仙台市太白区富沢という場所は、単なる住宅地ではなく、古代から続く文化の層が重なった土地なのだ。
富沢遺跡
〒982-0012 宮城県仙台市太白区長町南4丁目3−1
ご利益と祭礼
多賀神社の主祭神は伊弉諾尊。合祀祭神として天児屋命(あめのこやねのみこと)、高龗神(たかおかみのかみ)も祀られている。天児屋命は祝詞の神であり、言霊の力を司る存在。高龗神は水の神であり、雨や水源を守る神として信仰されている。
そのため、多賀神社のご利益は延命・浄化・言霊・水の守護など多岐にわたる。かつては武将たちの信仰も厚く、源義家が東征の折に名取川を渡って当社に参拝し、武運長久を祈願したという伝承も残っている。伊達政宗以降、仙台藩主の尊崇も厚く、安永4年(1775年)には伊達重村による社殿造営が行われた。
例祭は毎年5月1日。神楽舞が奉納され、境内には出店が並び、地域の人々で賑わう。昭和初期には学校も休校となり、子どもたちにとって楽しみな一日だったという。
そして忘れてはならないのが「どんと祭」。毎年1月14日に行われるこの火祭りは、正月飾りや古いお札を焚き上げることで、穢れを祓い、新年の無病息災を祈る行事。多賀神社でも盛大に行われ、地域の人々が裸参りで火の前に集う姿は、仙台の冬の風物詩となっている。
景行天皇とは
社伝に登場する景行天皇は、古事記・日本書紀に記される第12代天皇。実在性については諸説あるが、日本武尊を東国に派遣したとされる人物であり、東北地方における神社創建の伝承にはしばしば登場する。
景行天皇の時代は、まだ中央集権が確立していない古代の黎明期。神話と歴史が交差する時代であり、神社の創建伝承もまた、土地の記憶と信仰が編み込まれた物語として受け継がれてきた。
多賀神社の創建が景行天皇の時代とされることは、単なる年代の問題ではなく、東北の地における古代信仰の深さを物語っているように思える。
まとめ文
多賀神社は、仙台市太白区富沢に鎮座する由緒ある神社であり、社伝によれば景行天皇40年(西暦110年)に創建されたとされる。日本武尊が東征の途上、この地に伊弉諾尊を勧請したことが始まりと伝えられている。伊弉諾尊は国産み・神産みの神であり、延命・再生・浄化の象徴。そのため、多賀神社は「延命の社」として古くから信仰を集めてきた。
景行天皇は古事記・日本書紀に登場する第12代天皇であり、東北地方における神社創建の伝承にはしばしば登場する。例えば、福島県の伊佐須美神社や岩手県の駒形神社、秋田県の大館神明社なども、景行天皇や日本武尊の東征にまつわる創建伝承を持つ。これらの神社は、中央政権が東北に信仰の拠点を築こうとした痕跡とも言える。
多賀神社の境内には、御神木のシラカシ、箍納め所、石祠などが点在し、静かな空気が流れている。例祭は5月1日、どんと祭は1月14日。地域の人々の祈りと暮らしが今も息づく場所だ。
私はこの神社に立ち、神話と歴史、信仰と生活が交差する空間に身を置いた。多賀神社──その名には、土地の記憶と祈りが静かに宿っている。