【宮城県仙台市】仙台発祥の「炉端焼き」を訪ねるin元祖炉ばた・天江富弥・後水尾天皇の京都寛永サロン
地名や料理は、土地の記憶を映す器だ。私は地域文化を記録する仕事をしているが、食の風景を歩く旅は、いつも特別な感覚を伴う。今回訪れたのは、宮城県仙台市──その夜の顔を持つ「炉端焼き」の文化を探るためだ。
なぜ今、炉端焼きなのか。きっかけは、京都で暮らす中で感じた「文化サロン」の力だった。京都には、後水尾天皇が推進した寛永文化サロンがある。公家、僧侶、町衆、絵師、商人が交差し、琳派や茶道、能楽などの芸術が生まれ、あるいは成熟した。属性を越えて人が集まり、語らい、文化が育つ──その空間の力に惹かれた。
仙台にも、似たようでまったく異なる文化サロンがある。それが「炉端焼き」だ。戦後の食糧難の中、炭火を囲み、亭主と客が言葉を交わす。食材を炙る時間が、語らいの時間になる。民俗学者・天江富弥氏は、仙台の「炉ばた」を開き、文化人や商人、職人、旅人が集う場を築いた。炉端焼きは、食と語らいが自然に融合した奇跡のような空間だった。
私はその空気を確かめたくて、仙台の夜に足を運んだ。
参考
仙台宮城ミュージアムアライアンス「せんだい 文学マップ」
仙台市図書館「郷 土 の か ぜ」
仙台市教育委員会「天賞 ― 酒造に係る文化財調査報告書」
仙台発祥の炉端焼きとは
炉端焼きとは、炭火を囲み、魚介や野菜などの食材をじっくり炙って味わう料理スタイルである。店の中央に据えられた炉を囲むように客が座り、亭主が長いヘラで焼き上がった品を手渡す──その所作と空間が、炉端焼きの魅力を形づくっている。
この様式は、戦後の仙台で生まれた。昭和24年、民俗学者・天江富弥が開いた「炉ばた」がその発祥とされる。食糧難の時代、日持ちしない生鮮食品を炙って食べるという実用的な知恵が、炭火の香ばしさと語らいの場へと昇華された。食材を焼く時間が、客と亭主、客同士の会話を生む──その自然な流れが、炉端焼きを単なる料理ではなく「文化の交差点」に変えた。
天江氏は、こけしや郷土玩具の研究者としても知られ、店には民芸品や骨董が並び、文化人や職人、商人、旅人が集った。東北地方の囲炉裏文化を現代の都市空間に再構築し、仙台独自の「語られる食文化」を育てた功績は大きい。
現在では全国に広がった炉端焼きだが、その原点は仙台にある。炭火を囲むことで生まれる語らい──それは、暮らしの中から自然に生まれた奇跡のような文化だった。
この夜、私はその空間に身を置き、仙台の炉端焼きが持つ深さを味わった。 次のセクションでは、実際に「元祖 炉ばた」で体験した食の記憶を綴っていく。
参考
牛たんだけじゃない! 冷やし中華も炉端焼きもハンバーガーも仙台発祥って本当? | 概要 | AERA DIGITAL(アエラデジタル)
食の記憶──「元祖 炉ばた」で味わった仙台の夜
仙台駅からほど近い路地に佇む「郷土酒亭 元祖 炉ばた」。暖簾をくぐると、炭火の香りとともに、静かな熱気が漂っていた。店内の中央には大きな炉があり、亭主が炭火で魚や野菜を焼いている。その周囲を囲むように客が座り、焼き上がるのを待ちながら、酒を酌み交わす。
私はその一角に腰を下ろし、地酒「浦霞」とともに、銀だらの西京焼き、しいたけの炙り、焼きおにぎりを注文した。銀だらは皮がパリッと香ばしく、身はふっくらと甘い。西京味噌の風味が炭火の香りと重なり、口の中で仙台の夜が広がる。しいたけは肉厚で、焼き上がるとじゅわっと旨みが溢れる。亭主が長いヘラで手渡してくれるその所作にも、文化の重みを感じる。
焼きおにぎりは、表面が香ばしく、中はふんわり。味噌汁とともにいただくと、炭火の余韻が静かに体に染み渡る。隣の客と自然に言葉を交わす──「どこから来たんですか」「仙台は初めてですか」──そんな会話が、火を囲む場では自然に生まれる。
店内には、古い民芸品や郷土玩具が飾られており、空間そのものが仙台の記憶を語っているようだった。天江富弥氏が築いたこの場は、単なる飲食店ではない。文化人、商人、職人、旅人が集い、語らい、仙台の文化がにじみ出す場所だった。
私は最後に、濁り酒「太白山」を一杯いただいた。天江氏が自ら醸した酒であり、彼の語りとともに提供されたという。炭火の揺らぎと酒の香りが重なり、仙台の夜が静かに深まっていった。
郷土酒亭 元祖 炉ばた
〒980-0803 宮城県仙台市青葉区国分町2丁目10−28 YSビックビル 1階B号室
炉端焼きはサロンである──民俗学者・天江富弥の視点
天江富弥(1908–1980)は、仙台の民俗文化を記録し続けた人物であり、児童文化や郷土玩具、こけしの研究者としても知られる。彼が開いた「炉ばた」は、単なる飲食店ではなく、文化人や商人、職人、旅人が集う語らいの場だった。
彼の著作『炉盞春秋』には、炉端焼きの空間が「サロン」であることが繰り返し語られている。炭火を囲み、食材を焼く時間が、言葉を交わす時間になる。亭主と客、客同士が自然に語り合い、文化がにじみ出す──それが炉端焼きの本質だった。
この空間には、棟方志功や柳宗悦、濱田庄司らも訪れた記録がある。民芸運動の思想と、仙台の炉端文化が交差した瞬間だった。天江氏は、食と語らいを通じて、仙台の民俗を「生きた文化」として育てたのだ。
京都との比較──寛永文化サロンと仙台の炉端焼きサロン
京都の寛永文化サロンは、後水尾天皇のもと、公家や僧侶、町衆、絵師、商人が交差し、文化が育まれた空間だった。御所の庭園や茶室、町家の座敷などで、芸術や思想が交わり、琳派や茶道、能楽などが生まれ、あるいは成熟した。
仙台の炉端焼きは、それとは異なるかたちのサロンだ。格式や儀礼ではなく、炭火と食材と酒を媒介にして、自然発生的に生まれた語らいの場。火を囲むことで、身分や職業の垣根が溶け、言葉と文化が交差する。
全国の都道府県で、こうしたサロン文化を自国の文化として持っている例は少ない。仙台の炉端焼きは、食と語らいが自然に融合した、稀有な文化のかたちである。
参考
八幡市役所「YAWATA STORY 03 解説編」
まとめ
仙台の炉端焼きは、料理であり、空間であり、語らいの場である。戦後の混乱期、食材を炙るという実用的な行為が、いつしか人と人をつなぐ文化となった。炭火の前で、亭主と客が言葉を交わし、客同士が自然に語り合う──その空間は、まさにサロンだった。
民俗学者・天江富弥氏が開いた「炉ばた」は、仙台の民俗文化を記録し、語る場でもあった。彼はこけしや郷土玩具の価値を見出し、店内には民芸品や骨董が並び、文化人や職人、商人、旅人が集った。棟方志功が描いたマッチラベルが残るなど、民芸運動とも接点を持つ空間だった。
京都の寛永文化サロンが、後水尾天皇のもとで公家や僧侶、町衆、絵師、商人が交差し、琳派や茶道、能楽などが生まれ、あるいは成熟したように、仙台の炉端焼きもまた、属性を越えた人々が交差する文化の場だった。ただしその成り立ちは異なる。京都が格式と芸術の交差点だったとすれば、仙台の炉端は、炭火と語らいの交差点。暮らしの中から自然に生まれた文化の力がそこにはある。
私は「元祖 炉ばた」での夕食を通じて、仙台という町の深さに触れた。火を囲むことで生まれる語らい──それは、土地の記憶と人の温もりが交差する、かけがえのない文化のかたちだった。仙台には、語られる食がある。文化が息づく食卓がある。そして、火を囲む奇跡のような夜がある。