【宮城県仙台市】日本最古の牛タン「味太助(あじたすけ)」をたずねるin青葉区・味太助本店
地名や料理名は、土地の記憶を映す器だ。私は地域文化を記録する仕事をしている。各地の伝統産業や民俗、地名の由来、そして食文化の背景を掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。
今回訪れたのは、宮城県仙台市。目的は、仙台発祥とされる牛タン料理の原点に触れること。戦後の混乱期に生まれ、今や全国に広がった「仙台牛タン」。その発祥の店とされる「味太助(あじたすけ)」を訪ね、厚切りの牛タンを口に運びながら、仙台という都市の記憶と文化の深さに静かに触れていった。
牛タンは、もともと米軍が食べ残した牛のタンやホルモン──いわば「残飯」として扱われていた部位を、地元の料理人が譲り受け、炭火でじっくり焼いて提供したことから始まったという。現在も世界的には、牛タンやホルモンを食べる文化は少なく、日本独自の食文化として発展してきた。
仙台は、伊達政宗が築いた名門の城下町であり、外様大名の中でもトップクラスの石高を誇った豊かな国だった。その都市構造と文化的成熟は、食文化にも表れている。牛タンという料理は、庶民の知恵でありながら、仙台の品格を映す鏡でもある。
参考
仙台牛たん焼き、食べ比べの楽しみ | 【公式】仙台観光情報サイト
牛タンのはじまり──残飯から生まれた仙台の味
牛タンは、もともと食材としては見向きもされなかった部位だった。戦後、仙台には進駐軍として米軍が駐留しており、現在の宮城野区・苦竹駐屯地周辺にはその痕跡が残っている。米軍が食べ残した牛のタンやホルモン──いわば「廃棄部位」として扱われていた肉を、地元の料理人が譲り受け、工夫して食べ始めたのが牛タン料理の始まりだという。
その料理人こそが「味太助」の創業者・佐野啓四郎氏。昭和23年(1948年)、仙台駅前で牛タン焼き専門店を開業し、炭火でじっくり焼いたタンを塩味で提供した。当時の日本では、牛肉そのものが高級品であり、内臓やタンを食べる文化はほとんどなかった。今でも、欧米を含め多くの国ではホルモンやタンを食べる習慣は少なく、日本の食文化の独自性がここに表れている。
佐野氏は、東京で料理修業をしていた際にフランス人シェフから牛タンの美味しさを教わり、戦後の仙台でその味を再現した。麦飯、テールスープ、南蛮味噌──限られた食材の中で工夫を重ね、牛タン定食というスタイルを確立した。それは、戦後の混乱期における創意と生活の知恵が詰まった味だった。
味太助を訪ねて──戦後の味を継ぐ店
仙台市青葉区の一角、繁華街から少し外れた路地に「味太助」はある。暖簾をくぐると、店内には炭火の香りが漂い、カウンター越しに店主が黙々と牛タンを焼いている。私は昼下がりに訪れたが、すでに数組の客が牛タン定食を前に静かに箸を動かしていた。
味太助は、牛タン焼きの元祖とされる店であり、創業者・佐野啓四郎氏の意志を継いだ二代目が今も店を守っている。炭火でじっくり焼かれた牛タンは、驚くほど厚切りで、表面は香ばしく、内側はジューシー。ひと口噛むと、タン特有の弾力と肉汁が口の中に広がり、思わず「こんなに厚切りだったのか」と声が漏れた。
定食には、麦飯とテールスープ、南蛮味噌漬けが添えられている。麦飯の素朴な甘みが牛タンの旨味を引き立て、テールスープの深いコクが全体を包み込む。戦後の食糧難、牛タンはもちろん、牛のテール(しっぽ)まで食べたのかと感心する。まさにSDGS、廃棄ゼロ。また白米より安価だった麦飯を大盛でもらえるのは、来店さらた方がお腹いっぱいになって帰ってもらうための策。人情と知恵を感じた。やはり仙台は他の都市と性質が違い、格が髙いと感じる。皿の端に添えられた南蛮味噌の辛味がアクセントとなり、食欲をさらに刺激する。
店主は、焼きの合間に常連客と言葉を交わす。牛タンが焼き上がるまでの時間、カウンター越しに交わされる会話は、まるで炉端焼きのようなサロン空間を生み出していた。仙台には、こうした文化的な「間」が確かにある──私はその空気に、都市としての仙台の品格を感じた。
所在地:〒980-0811 宮城県仙台市青葉区一番町4丁目4−13
電話番号:0222254641
炉端焼きと仙台──サロン文化の記憶
牛タンを焼く時間は、短くはない。炭火でじっくり火を通すため、客は自然と待つことになる。その間、店主と客が言葉を交わし、静かな時間が流れる。こうした空間は、単なる飲食店ではなく、文化サロンのような文化的な場となる。
このスタイルは「炉端焼き」と呼ばれ、仙台発祥とも、北海道の漁師町発祥とも言われている。いずれにせよ、仙台には確かにその文化が根付いている。炉端焼きは、食と会話、火と人が交差する場であり、都市の成熟度を示す空間でもある。
仙台は、伊達政宗が築いた名門の城下町であり、外様大名の中でもトップクラスの石高を誇った豊かな国だった。その都市構造と文化的成熟は、食文化にも表れている。牛タンという料理は、庶民の知恵でありながら、仙台の品格を映す鏡でもある。
まとめ
仙台牛タンは、単なるご当地グルメではない。それは、戦後の混乱期に生まれた創意と工夫の味であり、仙台という都市の風土と文化が育んだ料理である。米軍の残飯として扱われていた牛のタンやホルモンを譲り受け、炭火でじっくり焼くことで旨味を引き出した──その発想と技術は、仙台の料理人たちの知恵と誇りの結晶だった。
味太助は、その原点を今も守り続けている。厚切りの牛タン、麦飯、テールスープ、南蛮味噌──すべてが、戦後の仙台の記憶を語る味だった。店主と客が言葉を交わすカウンターは、炉端焼きのようなサロン空間を生み出し、食と会話が交差する文化の場となっていた。
仙台は、伊達政宗が築いた名門の城下町であり、外様大名の中でもトップクラスの石高を誇った豊かな国だった。その都市構造と文化的成熟は、食文化にも表れている。牛タンという料理は、庶民の知恵でありながら、仙台の品格を映す鏡でもある。
私は味太助の暖簾をくぐり、炭火の香りに包まれながら、牛タンを口に運んだ。その厚みと旨味に驚きながら、仙台という都市の記憶と文化の深さに、静かに感動していた。