【宮城県仙台市】難読地名「堰場」の読み方や語源・由来をたずねるin若林区
仙台市若林区にある「堰場」。地元では「どうば」と呼ばれるこの地名は、県外の人にとっては難読地名のひとつだ。だがその響きには、かつての水運と治水、そして職人たちの営みが静かに息づいている。
私はこの「堰場」の語源と風景を探るべく、広瀬川沿いを歩き、河原町や舟丁、南材木町の町並みに身を置きながら、地名に刻まれた記憶を辿った。堰場は、仙台城下町の南端に位置し、広瀬川の流れを堰き止めて水を引き入れるための取水口が設けられていた場所だ。七郷堀と六郷堀という二つの用水路がここから分岐し、城下町へと水を供給していた。
この地名が「堰場」と呼ばれるようになったのは、まさにその役割に由来する。堰(せき)で水を止め、場(ば)で水を分配する——堰場は、仙台城下の暮らしを支える水の拠点だったのだ。
伊達政宗は、仙台開府にあたり、広瀬川の水を城下町へ安定的に供給するための治水施策を重視した。堰場はその中心地であり、政宗の都市設計思想が色濃く反映された場所でもある。
この記事では、「堰場」の読み方と語源、現地を歩いて感じた風景、そして政宗の治水と職人文化の記憶を紐解いていく。
参考
仙台市「町名に見る城下町」「第23集 仙台の由緒ある町名・通名 辻標のしおり」
公益社団法人土木学会「地名で見る六郷堀」
NDLラボ「仙台鹿の子 - Next Digital Library」
所在地:〒984-0817 宮城県仙台市若林区
堰場の読み方と語源・由来
「堰場」は「どうば」と読む。漢字の読み方としては「せきば」や「えんば」と読まれがちだが、仙台市若林区の地名としては「どうば」が正しい。これは、かつて「どう」と呼ばれていた場所に「堰」の字を当てたことに由来するとされる。
地名の由来は、広瀬川の流れを堰き止めて、城下町へ水を供給するための取水口が設けられていたことにある。堰場には、北部に七郷堰、南部に六郷堰の取水口があり、ここから用水路が分岐して城下町の各所へと水を運んでいた。以前探訪した南染師町では、この七郷堰から取水した水で染物をしていた。
仙台開府当時、根岸村から城下に入る最南の道筋は、宮沢渡戸で広瀬川を渡り、舟丁へと連絡する道だった。その渡場に臨む広瀬川沿いの地が「堰場」と呼ばれるようになった。西は石名坂、東は舟丁の南端部に接しており、地形的にも水の分配に適した場所だった。
近世期の史料には「堰場」という地名は見られず、俗称として使われていた可能性が高い。弘化二年(1845年)の『奥陽名数』には「若林米蔵」とのみ記されており、堰場の名が一般化するのは明治維新以降と考えられている。
堰場は、単なる地名ではない。そこには、政宗の都市設計思想と、城下町の暮らしを支える水の技術が刻まれている。堰場という言葉には、水を分ける場所、水を守る場所、そして水とともに生きた人々の記憶が宿っているのだ。
堰場を歩く
私は堰場を歩いた。広瀬川の流れに沿って伸びるこの町は、今では静かな住宅地となっているが、川沿いの風景にはかつての治水と職人の記憶が確かに残っている。
川岸に立つと、広瀬川の水がゆるやかに流れ、かつての取水口があった場所には石積みの跡が残されていた。ここから七郷堀と六郷堀が分岐し、城下町へと水を供給していたのだ。堰場は、仙台城下の暮らしを支える水の拠点だった。
政宗は、仙台開府にあたり、広瀬川の水を安定的に供給するための治水施策を重視した。堰場はその中心地であり、政宗の都市設計思想が色濃く反映された場所でもある。水を引き入れるだけでなく、舟運にも利用され、物資の運搬にも重要な役割を果たしていた。
堰場周辺には、南材木町、舟丁、染師町、畳屋丁など、職人町の名が多く残っている。これは、堰場で水を引き入れた先に、加工産業や職人の町が広がっていたことを示している。水は、生活のためだけでなく、技術と文化を育む力でもあった。
町の一角には、かつての米蔵や材木蔵の跡があり、石垣や蔵の基礎が静かに往時を語っていた。堰場は、物資の集積地としても機能しており、水と物流が交差する場所だったのだ。
堰場を歩くことは、仙台の都市形成と職人文化に触れる旅だった。広瀬川の流れと町の構造が、政宗の築いた都市の深層を静かに語っていた。
まとめ
仙台市若林区の「堰場」は、「どうば」と読む。広瀬川の流れを堰き止め、城下町へ水を供給するための取水口が設けられていたこの地は、仙台城下の暮らしを支える水の拠点だった。
私は実際に堰場を歩き、広瀬川の風景や町並みに触れながら、地名に刻まれた記憶を辿った。川の流れ、石積みの跡、職人町の名——それらが、かつての治水と技術の拠点としての堰場を静かに語っていた。
伊達政宗は、仙台開府にあたり、広瀬川の水を安定的に供給するための治水施策を重視した。堰場はその中心地であり、政宗の都市設計思想が色濃く反映された場所でもある。水を引き入れるだけでなく、舟運にも利用され、物資の運搬にも重要な役割を果たしていた。
堰場周辺には、南材木町、舟丁、染師町、畳屋丁など、職人町の名が多く残っている。これは、堰場で水を引き入れた先に、加工産業や職人の町が広がっていたことを示している。水は、生活のためだけでなく、技術と文化を育む力でもあった。
堰場という地名には、水と職人が交差する都市の記憶が宿っている。広瀬川の流れに耳を澄ませながら、私はその記憶の中を静かに歩いた。
