【宮城県登米市】難読地名「米谷」の由来・語源をたどる旅in登米市東和町
地名は、土地の記憶を編み込んだ器である──そう思いながら、私は宮城県登米市東和町の「米谷(まいや)」という地名に惹かれて歩き出した。地図を見ていてふと目に留まったその名。「米谷」と書いて「まいや」と読む。初見では難読だが、地元ではこの響きが自然に使われているという。私はその音に、どこか柔らかく、そして秘められた祈りのような気配を感じた。
米谷は、登米市南部の穏やかな農村地帯。二股川と大関川に挟まれた谷地に広がる水田は、稲作に適した肥沃な土地として知られ、古くから人々の暮らしを支えてきた。地名の由来は「米の谷」とする説が自然だが、地元にはもうひとつ、興味深い言い伝えがある。
「まいや」は「マリヤ(マリア)」の言い換えではないか──かつてこの地に隠れキリシタンが住んでいたという話が、今も語り継がれている。事実かどうかは定かではない。しかし、同じ町内には実際に潜伏キリシタンの里とされる三ヶ尻地区があり、「三教塚」などの史跡も残る。禁教の時代、祈りを隠しながら生きた人々がいたことは確かだ。
地名に込められた音と記憶。その背景を探るため、私は米谷の谷へと足を運んだ。
参考
「米谷(まいや)」という地名の由来・語源
米谷という地名の由来には、いくつかの説がある。最も自然な解釈は、文字通り「米の谷」──つまり、稲作に適した谷地に由来するというものだ。実際、米谷地区は北上川水系の二股川と大関川に挟まれた低湿地帯であり、古くから水田が拓かれてきた。「米川」や「米山」といった米に関する地名も多い。
地元の方に尋ねると、「昔から“まいや”って呼んでたよ。こめたにって言う人はあんまりいないね」と教えてくれた。地名の読みは、土地の記憶を映す鏡のようなものだ。表記は同じでも、読み方に込められた歴史は異なる。
「まいや」という響きは、東北地方に多く見られる地名音韻の特徴でもあるが、ここ登米では、ある特別な説が語られている──「まいや」は「マリヤ(マリア)」の言い換えではないか、というのだ。
白米が湧いたという祈りの泉「米渓ヶ泉」
米谷の地名にまつわる伝承のひとつに、「米渓ヶ泉(こめづかがいずみ)」の話がある。東陽寺の裏庭にひっそりと湧くこの泉は、かつて白米がこんこんと湧き出たと語り継がれている。米谷という地名は、この泉に由来するという説もあり、地元では「米塚ヶ泉」とも呼ばれている。
私は東陽寺を訪れ、裏庭へと足を運んだ。境内は静かで、風に揺れる杉の葉がささやくような音を立てていた。寺の奥、苔むした石段を下りた先に、小さな清泉が湧いていた。案内板には「米渓ヶ泉」と記されており、地元の人々がこの場所を大切に守っていることが伝わってくる。
泉の水は澄んでいて、底まで見通せるほど透明だった。かつてこの泉から白米が湧き出たという話は、もちろん現実的な出来事ではないかもしれない。だが、飢饉や困窮の時代にあって、泉が命をつなぐ水を与えてくれたことは確かだろう。白米の湧出は、祈りと感謝の象徴だったのかもしれない。
地名「米谷」がこの泉に由来するとすれば、「まいや」という響きには、単なる地形だけでなく、命をつなぐ水と祈りの記憶が込められていることになる。私は泉のほとりに立ち、静かに手を合わせた。地名が語る物語は、こうして今も水の音とともに息づいている。
東陽寺
所在地:〒987-0902 宮城県登米市東和町米谷越路83
電話番号:0220422069
「まいや=マリヤ」由来・語源説──隠れキリシタンの記憶
この説は、地元の古老から聞いた話である。かつて米谷には隠れキリシタンが住んでおり、「マリヤ」という言葉を隠すために「まいや」と呼ぶようになったのではないか──という伝承がある。もちろん、これは確証のある史料に基づくものではなく、あくまで口伝の域を出ない。
しかし、同じ登米市東和町内には、実際に隠れキリシタンの里とされる「三ヶ尻(さんがじり)」地区が存在する。江戸時代、キリスト教が禁教とされた中で、三ヶ尻には潜伏キリシタンが暮らしていたとされ、現在も「三教塚(さんきょうづか)」という史跡が残っている。
三教塚は、仏教・神道・キリスト教の三つの信仰が共存した象徴として語られており、塚の周囲には十字架を模した石碑や、キリシタン灯籠とされる遺構も確認されている。登米市公式サイトでも、三教塚は「宗教的寛容の象徴」として紹介されている2。
このような背景を踏まえると、「米谷=まいや=マリヤ」という説も、地域の信仰史の中で生まれた民間語源として位置づけることができる。地名は、時に祈りを隠す器となる──その可能性を否定することはできない。
参考
米川里山だより「キリシタンの里まつり」
女子パウロ会「米川キリシタンまつり」
村制と地名の変遷
米谷地区が正式に「米谷村」として誕生したのは、明治4年(1871年)7月の廃藩置県後、同年10月に施行された村制によるものだった。当初は「第一区米谷村」として成立し、明治5年には隣接する楼台村と合併して「秋実村」と改称された。
その後、明治8年には米水沢県村合併により「米谷村」「錦織村」「米川村」が誕生し、明治22年には町村制施行により「米谷村」「錦織村」「米川村」がそれぞれ独立した行政単位となった。昭和36年には「米谷村」から「米谷町」へと改称され、昭和32年には登米郡内の町村合併により「東和町」が誕生し、現在の登米市東和町米谷へとつながっている。
このように、米谷という地名は、明治以降の行政制度の変遷とともに形を変えながらも、地域の中心地としての役割を担い続けてきた。
まとめ文
米谷──「まいや」と呼ばれるこの地名は、登米市東和町の中心部に位置する穏やかな農村地帯である。二股川と大関川に挟まれた谷地に広がる水田は、稲作に適した地形を持ち、地名の由来は「米の谷」とする説が自然である。明治以降の村制・町村合併を経て、現在の登米市東和町米谷として定着したこの地名は、地域の暮らしとともに育まれてきた。
しかし、地元にはもうひとつの言い伝えがある。「まいや」は「マリヤ(マリア)」の言い換えではないか──かつてこの地に隠れキリシタンが住んでいたという話が、今も語り継がれている。確証はないが、同じ町内の三ヶ尻地区には実際に潜伏キリシタンの里とされる史跡「三教塚」が残り、仏教・神道・キリスト教の三つの信仰が共存した痕跡が今も静かに息づいている。
さらに、米谷の地名の由来として語られる「米塚ヶ泉(こめづかがいずみ)」の伝承も興味深い。東陽寺の裏庭に湧く清泉から白米がこんこんと湧き出たという話は、地名が単なる地形ではなく、祈りと奇跡の記憶を帯びていることを示している。
地名は、時に祈りを隠す器となる。禁教の時代、信仰を守るために言葉を変え、地名に託した人々がいたとすれば、「まいや」という響きは、単なる地理的呼称ではなく、祈りと記憶の重なりそのものだ。
私は米谷の集落を歩きながら、その名が語る物語に静かに耳を傾けた。水田に映る空、泉の音、そして「まいや」という響き──それらは、地名が編み込んだ歴史だった。