【宮城県登米市】日本有数の奇祭「米川の水かぶり」まるで異国!読み方や歴史、目的など訪ねるin東和町
地名や祭りには、土地の記憶が刻まれている。私は地域文化を記録する仕事をしている。地元の人々が守り続けてきた風習や祈りのかたちを、現地で感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。
今回訪れたのは、宮城県登米市東和町米川地区で毎年2月の初午の日に行われる奇祭「米川の水かぶり」。裸の男たちが藁をまとい、頭にかまどの煤を塗って水を浴びながら町を練り歩くこの行事は、火伏せを願う祈りの祭りであり、ユネスコ無形文化遺産にも登録された「来訪神:仮面・仮装の神々」のひとつでもある。
なぜ登米市でこのような奇祭が生まれたのか。なぜ水をかぶるのか。なぜ「来訪神」として祀られるのか──その背景には、火災に悩まされた町の歴史と、火を鎮めるための民間信仰、そして人々の暮らしに根ざした祈りがある。
私は実際に米川の水かぶりを見に行き、寒空の下で水を浴びる男たちの姿に、土地の記憶と祈りの力を感じた。この記事では、米川の水かぶりの由来と構造、登米市に根付く火伏せ文化、そして来訪神という民俗的存在について、現地での体験を交えながら記録していく。
参考
文化庁「国指定文化財等データベース」
大慈寺「米川の水かぶり | 大慈寺のご紹介」
奇祭「米川の水かぶり」の読み方は目的・願い
米川の水かぶりは、宮城県登米市東和町米川地区に伝わる火伏せの行事で、毎年2月の初午の日に開催される。初午とは、稲荷神が降臨したとされる日であり、農耕と火の神を祀る日でもある。
この祭りでは、地区の男性のみが参加を許され、裸に藁で作った「しめ縄」「あたま」「わっか」を身につけ、顔にはかまどの煤を塗る。彼らは火の神の化身となり、大慈寺の秋葉山大権現に祈願した後、町中を練り歩き、家々の屋根に水をかけて火伏せを祈願することが目的だ。
この行事は単なる火伏せだけでなく、厄払いや成人儀礼としての意味も持つ。特に厄年にあたる者が参加することで、地域社会への通過儀礼としての役割を果たしている。人々は男たちが身につけた藁を抜き取り、自宅の火伏せのお守りとして屋根に掲げる。
また、行列には墨染の僧衣をまとった「ひょっとこ(火男)」と、天秤棒に手桶を担いだ「おかめ」が加わり、家々を訪れてご祝儀を受け取る。これらの仮装者もまた、来訪神としての役割を担っている。
米川の水かぶりは、2018年にユネスコ無形文化遺産「来訪神:仮面・仮装の神々」の一つとして登録された。全国のナマハゲやスネカ、アマハゲなどと並び、異形の姿で家々を訪れる神として位置づけられている。国指定無形民俗文化財にも登録されており、宮城県がほこる奥深い伝統文化の1つだ。
参考
登米市「ユネスコ無形文化遺産「米川の水かぶり」」
米川だより「米川の水かぶり」
宮城県の火伏せ文化
宮城県には、火災を防ぐための祈りが民俗行事として今も息づいている。登米市米川の「水かぶり」がその代表格だが、他の市町村にも貴重な火伏せ文化が残されている。
例えば「小泉の水祝儀」。加美町小泉集落に伝わるこの行事は、旧暦2月2日に行われ、前年に結婚した夫婦や転入して1年以上経過した夫婦が盛装して参加する。講中の人々が手を取り合って作る鳥居をくぐり、道祖神(男根)を祀った祭壇に礼拝することで、講組織への加入資格を得るという通過儀礼の性格を持つ。
さらに、参加者の額には墨で「水」の字が書かれ、集落の家々を回って柄杓で屋根に水をかける。これは火伏せの祈願であり、家内安全や安産祈願も含まれている。かつては県内各地で行われていた水祝儀だが、現在も旧態を保って継承されているのは小泉のみで、極めて貴重な民俗文化財である。
「柳沢の焼け八幡」も火伏せ文化だ。こちらは小正月の1月14日夕方から15日早朝にかけて行われる。八幡神社前に12束のわらで作った「トウロウ」に火をつけて月々の天候を占い、翌朝には若者たちが家々を訪れて女性の顔にかまど墨を塗り、神の加護を願う。最後には「オユヤ(御小屋)」を勢いよく燃やして、その年の作柄を占う。
加美町中新田の「火伏せの虎舞」もまた、火難除けの祈りを込めた伝統芸能である中新田の虎舞は、藁で作られた虎頭をかぶった舞手が、太鼓の音に合わせて勇壮に舞いながら町を練り歩く。虎は火を食うとされる霊獣であり、その舞には火災を鎮める力があると信じられてきた。米川の水かぶりと同様、町を巡ることで地域全体の火伏せを祈願する構造になっている。
いずれも火難除け、五穀豊穣、家内安全を祈願する行事であり、火伏せ文化が地域の暮らしと深く結びついていたことを物語っている。
来訪神とは
来訪神とは、仮面や異形の姿をした神が年の節目に家々を訪れ、福をもたらすとされる民俗的存在である。ナマハゲ(秋田)、スネカ(岩手)、アマハゲ(山形)などが有名だが、米川の水かぶりもその一つとして位置づけられている。
来訪神は、海の向こうや山の彼方など「異界」からやってくるとされ、村人に怠け者を戒め、厄を祓い、福を授ける。米川の水かぶりでは、火の神の化身となった男たちが町を巡り、火伏せとともに福をもたらす役割を担っている。
このような来訪神行事は、民俗学的には「年迎え」「通過儀礼」「厄払い」などの複合的な意味を持ち、地域社会の再生と結束を促す機能を果たしている。米川の水かぶりも、火伏せだけでなく、地域の絆を再確認する場として機能しているのだ。
東和町の「米川の水かぶり」を実際に見てきた
私が米川の水かぶりを訪れたのは、2月の初午の日。登米市東和町米川の町下にある大慈寺の山門広場が会場となり、朝から準備が始まっていた。空気は冷たく、雪がちらつく中、男たちは次々と水かぶり装束に身を包んでいく。
曹洞宗法輪山 大慈寺
所在地:〒987-0901 宮城県登米市東和町米川町下56
しめ縄を腰に巻き、藁の頭飾りをかぶり、顔にはかまどの煤を塗る。裸足にわらじを履いたその姿は、まさに異形の神の化身だった。午前10時半、鐘の音とともに一団が出発。奇声を上げながら町を練り歩き、家々の前に用意された水を屋根に向かって豪快にかけていく。
見物人はその様子を見守りながら、男たちの装束から藁を抜き取り、自宅の火伏せのお守りとして持ち帰る。水を浴びる男たちの姿は、寒さを超えて神聖なものに見えた。
行列の後方には、墨染の僧衣をまとったひょっとこ(火男)と、おかめが天秤棒に手桶を担いで歩いていた。彼らは家々を訪れ、ご祝儀を受け取る。笑顔とともに福を運ぶその姿もまた、来訪神としての役割を果たしている。
私は町の一角にある大慈寺の境内に戻り、祭りの終盤を見届けた。参加者たちは水を浴びたまま境内に集まり、秋葉山大権現に向かって火伏せの祈願を捧げる。祈りの声が響き、藁の衣が濡れて重くなった男たちの姿は、神聖でありながらどこか人間的でもあった。
祭りが終わると、町の人々は藁を屋根に掲げ、火伏せのお守りとして一年を過ごす。私はその様子を見ながら、火という自然の力に対して、人々がどれほど真剣に祈りを捧げてきたかを思った。
帰り道、私は米川の町並みを歩いた。雪が舞い、空気は冷たい。だが、町のいたるところに祈りの痕跡が残っていた。水かぶりの装束を干す家、藁を屋根に掲げる家、そして子どもたちが藁を手に笑い合う姿──それらが、祭りの記憶を静かに語っていた。
米川の水かぶりは、火を鎮めるための祈りであると同時に、地域の絆を再確認する場でもある。水と祈りが交差する冬の町には、土地の記憶と人々の願いが、今も静かに息づいていた。
まとめ
火は人の暮らしに欠かせないものであると同時に、最も恐ろしい災厄でもある。宮城県には、火を鎮めるための祈りが民俗行事として今も息づいている。登米市米川の「水かぶり」はその象徴的な存在だが、ほか宮城県内に伝わる「中新田の虎舞」や「小泉の水祝儀」、「柳沢の焼け八幡」などもまた、火伏せの祈りを今に伝える貴重な行事である。
水祝儀では、講中への加入儀礼とともに、額に「水」の字を記し、屋根に水をかけることで火難除けを願う。焼け八幡では、火を使って天候や作柄を占い、かまど墨を塗ることで神の加護を祈る。いずれも、火を恐れ、火を祈るという人々の切実な思いがかたちになったものである。
これらの行事は、単なる伝統ではない。地域の安全と再生を願う祈りのかたちであり、土地の記憶そのものだ。火伏せ文化は、自然と人との関係を見つめ直す手がかりでもある。水をかける、火を燃やす、墨を塗る──その一つひとつに、暮らしの知恵と祈りが込められている。
宮城の火伏せ文化は、今も静かに息づいている。私たちはその祈りに耳を澄ませ、土地の記憶を受け継いでいく必要がある。