【宮城県登米市】蝦夷文化を訪ねるin中田町・南方町・東和町

「蝦夷(えみし)」という言葉を初めて聞いたのは、小学校の歴史の授業だった。教科書には「まつろわぬ民」と書かれていたが、その意味も背景も、当時は深く考えることはなかった。だが、大人になって地元・登米市の歴史を調べるうちに、蝦夷という存在が、私たちの祖先に直結するものだと気づいた。彼らはこの地を開き、自然と共に生き、時に朝廷の圧力に抗いながら、自らの暮らしを守り抜いた人々だった。

私が地域文化に惹かれるのは、それが生活を豊かにしてくれるからだ。地元に残る伝承や地名、祭礼の背景には、長い時間をかけて蓄積されてきた哲学や物語がある。それを知ることで、風景の見え方が変わり、人との関わり方も深まる。地域文化の魅力は、ただ「残っている」ことではなく、「なぜ残ってきたのか」にある。それを守ってきたのは、地域の人々であり、私たちの祖先だ。その営みの積み重ねに触れることで、郷土への誇りが生まれる。

登米市には、坂上田村麻呂にまつわる伝説が数多く残っている。鬼と呼ばれた蝦夷の指導者たち、征討軍の苦戦、そして地名に刻まれた記憶──それらは、単なる昔話ではなく、この土地に生きた人々の誇りと痛みの記録だ。教科書の外にある物語を辿ることで、私たちの根を見つめ直す旅が始まった。

蝦夷(エミシ)とは?

蝦夷(えみし)とは、古代日本において東北地方を中心に暮らしていた先住民族の総称である。大和朝廷の記録では「まつろわぬ民」、つまり服従しない者たちとして描かれ、しばしば軍事的な征伐の対象とされた。だが、彼らは単なる反乱者ではない。統一された国家を持たずとも、地域ごとの族長に率いられ、狩猟や焼畑農業を中心とした独自の生活文化を築いていた。

彼らの暮らしは、自然との深い結びつきに根ざしていた。山や川、動物や植物に霊的な力を認め、祈りとともに生きる。形式的な権威よりも、自然の理(ことわり)に従って暮らすことを尊んだ。後の指導者であるアテルイに象徴されるように、彼らは自らの生活圏と自由を守るために、命をかけて抵抗した。朝廷の軍事力を長期間にわたって押し留めたその姿は、誇り高き祖先の証だ。


宮城県登米市とは?

宮城県北東部に位置する登米市(とめし)は、北上川水系に沿って広がる肥沃な土地である。現在は農業と林業を中心とした静かな地域だが、古代においては軍事・交通の要衝として重要な役割を果たしていた。その理由は、地理的な条件にある。

まず、登米市は古代の幹線道路「奥州街道」の通過点に位置していた。奥州街道は、陸奥国府の多賀城から北方の蝦夷勢力圏へと続く主要ルートであり、朝廷の軍事行動や物資輸送の生命線だった。また、北上川という大河が市域を貫いており、水運による人と物の移動が盛んだった。舟運は、陸路よりも効率的に兵糧や資材を運ぶ手段として重宝され、登米の地はその中継拠点として機能していた。

特に注目されるのが、登米城跡周辺に比定される「玉造柵(たまつくりのさく)」の存在である。奈良時代の『続日本紀』には、玉造柵の名が登場し、朝廷が蝦夷支配のために築いた防衛拠点であったことが記されている。登米市教育委員会による埋蔵文化財調査でも、奈良・平安時代の遺構が確認されており、この地が古代の緊張の最前線だったことが裏付けられている。

登米市は、中央の権力と蝦夷の精神が交差した「歴史の境界」であり、地名や伝承に刻まれた記憶を辿ることで、郷土の奥深さに触れることができる。

1. 史実の痕跡:玉造柵と北上川水系の防衛ライン

古代の軍事拠点:玉造柵比定地が示す支配の厳しさ

登米市の風景を歩いていると、どこか「境界」の気配を感じることがある。田園が広がり、丘陵が連なる──穏やかな風景の中に、かつての緊張の痕跡が静かに眠っている。その記憶を辿る鍵のひとつが、「玉造柵(たまつくりのさく)」という古代の軍事拠点の存在だ。

玉造柵は、奈良時代に朝廷が蝦夷支配のために築いた防衛拠点のひとつであり、現在の登米市登米町日野渡地区に比定されている。正確な遺構は未発見ながら、登米城跡周辺がその候補地とされており、登米市教育委員会による埋蔵文化財調査では奈良・平安時代の遺構が確認されている。

「登米城跡周辺は、奈良・平安時代の遺構が確認されており、玉造柵の比定地として有力視されている。特に日野渡地区においては、古代の建物跡や土器片が出土しており、城柵的性格を持つ遺構の存在が示唆される。」
—『登米城跡発掘調査報告書』(登米市教育委員会、平成17年度)

玉造柵は、朝廷が蝦夷支配のために築いた「天平の五柵」のひとつに数えられる。これは、天平年間に築かれた五つの重要な防衛拠点──多賀柵・色麻柵・玉造柵・牡鹿柵・新田柵──を指し、いずれも蝦夷との境界に位置していた。

「新田柵は、神亀元年(724)に創建された多賀城を取り巻く天平の五柵(玉造柵、色麻柵、新田柵、牡鹿柵、名称不詳の柵)の一つで…」
—大崎市観光協会「新田柵跡」紹介文より

『続日本紀』天平9年(737年)4月の条には、将軍・大野東人が蝦夷征討のために多賀柵を出発し、色麻柵、玉造柵を経て出羽国へ進軍した記録がある。その中には、馬による進軍の様子も記されている。

「帥使下判官従七位上紀朝臣武良士等及所委騎兵一百九十六人、鎮兵四百九十九人、當國兵五千人…」
—『続日本紀』天平九年四月条

この「騎兵一百九十六人」という記述は、馬を用いた部隊が編成されていたことを示しており、古代の東北征討が徒歩ではなく騎馬による機動戦であったことを物語っている。登米の地は、そうした軍事行動の通過点であり、拠点でもあった。

さらに、登米市域は古代の官道──陸奥国府(多賀城)から出羽国(秋田方面)へ至る道──が通過していたと考えられており、後の奥州街道の前身にあたる交通路として重要な位置を占めていた。

「登米市域は、古代の官道(陸奥国府から出羽国へ至る道)が通過していたと考えられ、後の奥州街道の前身にあたる交通路として重要な位置を占めていた。」
—『登米市の歴史と文化財』(登米市歴史博物館、2005年)

このように、玉造柵の存在は、登米市が古代において支配と抵抗の最前線であったことを示している。軍事拠点としての役割だけでなく、後に観音堂や地名に刻まれた伝承を通じて、征討の記憶が土地に深く根を張っていることがわかる。

水陸両面の軍需品拠点

玉造柵がこの地に設けられた最大の理由は、その戦略的な地理的優位性にある。登米市域は、古代の主要な交通路である官道(後の奥州街道の前身)が通過していただけでなく、北上川水系という重要な輸送ルートに面していた。

『続日本紀』には、蝦夷征討軍が騎兵を含んでいた記録があることから、玉造柵は単なる防衛施設ではなく、機動戦の中継拠点であったことがわかる。さらに、多賀城から北上川を利用した水運は、大量の兵糧や武具を運ぶ兵站線として不可欠であり、玉造柵は水陸両面での物資補給と兵力展開の司令塔としての機能を担っていたのではないと考えている。


2. 登米と奥州七観音

登米に集中する坂上田村麻呂建立の観音堂

登米市を歩いていると、坂上田村麻呂の名にたびたび出会う。征夷大将軍として知られる彼の足跡は、地名や伝承だけでなく、寺院の境内にも静かに刻まれている。特に注目すべきは、登米市域に複数残る「観音堂」の存在だ。これらの寺院は、田村麻呂が蝦夷征討の後に建立したと伝えられており、戦後の地域鎮護と精神的支配という、観音信仰が果たした役割を物語っている。

登米市には、奥州七観音のうち3箇所が集中している。これは、登米地方が軍事拠点であると同時に、戦後の精神的統治と融和の要衝であったことを示している。

参考

登米市「2 奥州七観音の世界」

登米市「坂上田村麻呂と東北

観音信仰による蝦夷支配の試み

田村麻呂が建立したとされる観音堂は、多くが大同2年(807年)の創建と伝えられている。これは征討が一段落し、胆沢城の築城や支配体制の整備が進められた時期にあたり、軍事的制圧の次に求められた「精神的統治」の象徴とも言える。

観音寺名(現寺院名)所在地坂上田村麻呂との関連伝承(蝦夷との関係)
大嶽観音堂(興福寺)登米市南方町大同2年(807年)に田村麻呂が建立。蝦夷の指導者・大武丸の伝説が周辺に色濃く残る。興福寺には大武丸の歯と鐙が残されていたという伝承がある。これらは単なる土産話ではなく、征服の「象徴物(トロフィー)」として機能し、支配の視覚的証明となった可能性がある。
長谷観音堂(長谷寺)登米市中田町大同2年(807年)に大和国の長谷寺を勧請。田村麻呂の守り本尊である十一面観音像を納めたとされ、境内には「坂上田村麻呂と大武丸絵馬」が残る。
鱒淵観音堂(華足寺)登米市東和町奥州七観音の一つ。「敵、味方の戦争犠牲者の迷魂を鎮撫する為に建立」されたと伝わる。馬頭観音を本尊とし、征討後の敵味方の区別ない鎮魂の役割を果たした。清水寺の延鎮が開山したとされる。

これらの観音堂に共通する「清水寺の延鎮が開山」「十一面観音」「大同2年の建立」という伝承は、当時の中央政府が推進した仏教による地方支配のネットワークが、登米の地まで及んでいたことを示している。ただし、同年に広範囲で複数の寺院を建立することは物理的・人的に困難であるため、後世の伝承形成や信仰的演出の可能性も指摘されている【登米市歴史博物館『おためし坂上田村麻呂』資料】。

坂上田村麻呂が京都・清水寺の創建に関わったとされる事実も、彼の観音信仰の深さを物語っている。清水寺には田村麻呂の名を冠した「田村堂」が今も残り、彼が戦場に赴く武将であると同時に、祈りと鎮魂を重んじた人物であったことを示している。

所在地:〒605-0862 京都府京都市東山区清水1丁目294

観音菩薩は、文字通り「衆生の音(声)を観る」仏様である。苦しみの声を聞き、救済の手を差し伸べる存在として、混乱期の奥州──征討と抵抗が交錯する地──において、まさにふさわしい象徴だったといえる。武力による制圧の後に、慈悲の仏を通じて土地の人々の心に中央の文化を根付かせる──それは、支配と融和の両面を持つ統治のかたちだった。

登米市に残る観音堂は、そうした歴史の層を静かに抱えている。寺の境内に立ち、十一面観音像に手を合わせるとき、そこには征討の将軍の祈りと、蝦夷の魂への鎮魂が重なっているように感じる。それは、支配と抵抗、勝者と敗者の境界を越えて、祈りが土地に根を張っていく瞬間なのかもしれない。

参考

鱒淵観音堂県自然環境保全地域 - 宮城県公式ウェブサイト

登米市「東和町エリア】華足寺

華足寺 | 特選スポット|観光・旅行情報サイト 宮城まるごと探訪


3. 地名に刻まれた征討と抵抗の記憶

登米市を歩いていると、ふとした地名に引っかかることがある。「鬼伏」「悪戸」「砥落」──その響きには、ただの地理的ラベルを超えた、何か強い感情の痕跡が宿っているように感じる。これらの地名は、坂上田村麻呂による蝦夷征討の記憶と深く結びついており、土地に刻まれた「まつろわぬ民」の痕跡として、今も静かに語り続けている。

登米市歴史博物館の調査によれば、市内には田村麻呂にまつわる伝承が60件以上確認されており、その多くが地名と結びついている【登米市歴史博物館「坂上田村麻呂伝説と地名」】。以下に、代表的な地名とその伝承を整理する。

地名所在地(町名)伝承が示す蝦夷との関連根拠資料
鬼伏(おにぶし)東和町相川地区田村麻呂が蝦夷を追って相川に入った際、蝦夷が隠れていた、あるいは降伏(鬼伏せ)した場所。登米市歴史博物館「坂上田村麻呂伝説と地名①
悪戸(あくど)東和町・南方町など反抗した蝦夷の賊が住んでいた場所。朝廷側が「悪しき場所」として名付けた可能性が高い。同上
鬼橋(おにばし)東和町米谷地区田村麻呂が川を渡る際、服属した蝦夷が人柱となって渡河を助けたという伝承。同上
砥落(とおとし)南方町蝦夷の賊が逃げる際に砥石を落とした、あるいは田村麻呂が砥石を落としたという伝承。砥石とは、刀剣や工具を研ぐための石のこと。同上
小島・灰塚中田町田村麻呂軍が賊の勢いに押され退却する際、錦旗(軍旗)を奪われるのを恐れて焼き、その灰を覆って多賀城へ引き上げたという伝承。登米市歴史博物館「坂上田村麻呂伝説と地名②

これらの地名は、単なる地理的呼称ではなく、征討と抵抗の記憶を封じ込めた「生き証人」である。特に「鬼伏」や「悪戸」といった名称には、朝廷側の史観が色濃く反映されている。蝦夷の指導者たちは「鬼」や「賊」として描かれ、地名にその烙印が押された。だが、地元の伝承では、彼らはただの反逆者ではなく、土地を守ろうとした誇り高き存在として語られている。

「鬼橋」の伝承に至っては、服属した蝦夷が人柱となって田村麻呂を助けたという物語が残されている。これは、征服と融和の境界がいかに曖昧であったかを示すものであり、単純な勝者と敗者の構図では語りきれない複雑な人間関係があったことを物語っている。

地名は、時に忘れられた歴史を静かに語る。それは、蝦夷の魂が土地に染み込み、言葉のかたちで今も息づいている証でもある。私たちがその意味を知ることで、風景は一変する。田んぼの向こうに見える丘が、かつての戦場であり、祈りの場であったことに気づくとき、郷土の記憶は私たちの中に深く根を張る。

まとめ

登米を歩いていると、ふとした瞬間に「何かが語りかけてくる」ような感覚に襲われることがある。それは、地名の響きだったり、寺の境内に立つ観音像の静かな佇まいだったり、あるいは地元の方が語ってくれた昔話の一節だったりする。目に見えるものの奥に、確かに声がある──そんな気がした。

玉造柵の比定地に立ったとき、北上川の流れが軍馬の足音を運んでくるように感じた。観音堂の十一面観音に手を合わせたとき、祈りが敵味方を越えて土地に染み込んでいることを知った。そして「鬼伏」や「悪戸」といった地名に触れたとき、征討された側の記憶が、今も言葉のかたちで生きていることに気づいた。

この土地には、まつろわぬ民の誇りと痛みが、静かに、しかし確かに刻まれている。それは、教科書には載らない物語であり、風景の奥に潜む声だ。耳を澄ませば、聞こえてくる。私たちがその声に気づき、受け止めることで、郷土はただの地名ではなく、物語の舞台になる。

登米の旅は、過去を知る旅であると同時に、今を生きる私たちの根を探す旅でもあった。風景の奥にある声に、これからも耳を澄ませていきたい。


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