【宮城県登米市】宮城県一の「米の町」を訪ねるーみやぎ明治村・松尾芭蕉・迫川・北上川

私は地域文化ライターとして、日本各地に根ざす風土と暮らしの関係を探り、現地の空気を吸いながら言葉にして伝える仕事をしている。制度や建築では見えてこない、暮らしの中に息づく文化のかたち──それは、食卓の一膳や、川沿いの道にこそ宿っていると信じている。今回訪れたのは、宮城県登米市。目的は、仙北平野に広がる水田地帯と、江戸へ米を運んだ水運の記憶を辿ることだった。

登米市は、宮城県北部に位置する穀倉地帯であり、県内でもっとも米の収穫量が多い市町村である。その背景には、迫川や北上川という二つの大河が流れ、江戸時代から続く水運の歴史がある。かつてこの川を通じて米が江戸へ「登った」ことから、「登米」という地名が生まれたという説もある。私はこの川のほとりを歩きながら、米とともに文化が運ばれた土地の記憶を探った。

登米市とは──仙北平野に広がる大穀倉地帯

登米市は、2005年に旧登米郡の10町が合併して誕生した市である。市域の大部分は仙北平野に広がっており、見渡す限りの水田が続く。春には田植え、秋には黄金色の稲穂が風に揺れ、季節の移ろいが風景に刻まれる。この平野は、かつて沼地が多く、迫川や北上川の氾濫によって水害に悩まされていた地域でもある。

しかし江戸時代初期、仙台藩の手によって大規模な水田開拓と灌漑工事が行われた。長沼や伊豆沼は遊水地として整備され、氾濫を受け止めることで周辺の土地が肥沃な耕地へと変貌した。こうして登米は、米の一大生産地として発展し、江戸への米輸送を担う重要な拠点となった。

参考

登米市「歴史を訪ねる

迫川・北上川とは──米と文化を運んだ水路

登米市を流れる迫川と北上川は、かつて江戸への米輸送を支えた水路である。特に北上川は、石巻港から内陸へと続く航路として機能し、登米の米を江戸へ運ぶ「廻米制度」の要となっていた。船に積まれた米俵は、川を下り、海を渡り、江戸の台所を支えた。

実際に「みやぎ明治村」エリアに行くと、登米のかつての繁栄の面影を見ることができる。現在は観光施設になっている「みやぎ明治村」は北上川流域にあり、北上川水運の舟に米穀を積載するのに使われていたのだろう。登米市における重要拠点だ。

この水運は、単に物資を運ぶだけではなく、文化や情報、人の交流も促した。江戸からの書物や道具、職人の技術が川を通じて登米にもたらされ、町の暮らしに豊かさを与えた。川は、米だけでなく文化も「登らせた」のである。

現在、北上川の流れは穏やかで、川沿いには遊歩道や公園が整備されている。私はそのほとりを歩きながら、かつての船の往来や、米俵を積んだ舟の姿を想像した。川は、静かに流れながらも、町の記憶を語っているようだった。

参考

みやぎの明治村

登米が江戸の米を支えていた

登米が江戸の米を支えていたという説は、地域の伝承だけでなく、史料にもその痕跡が見られる。たとえば、江戸時代の仙台藩の年貢米輸送に関する記録には、登米郡からの米が石巻港を経由して江戸へ送られていたことが記されている。

『仙台藩年貢米廻送記録』(一部抜粋)には以下のような記述がある:

「登米郡ヨリ年貢米ヲ迫川ニ積ミ、北上川ヲ下リ石巻港ニ至ル。其ノ後、廻船ニ積替ヘ江戸表ニ廻送ス。」

このように、登米の米は迫川・北上川を通じて石巻港へ運ばれ、そこから江戸へと送られていた。仙台藩にとって登米は、内陸の穀倉地帯でありながら、水運によって首都圏と直結する戦略的な米供給地だったのである。

また、明治期の地誌『宮城県管内地誌』にも「登米郡ハ米穀ノ産多ク、藩政時代ヨリ江戸廻送ノ要地ナリ」との記述があり、登米が藩政期から米流通の要として機能していたことがうかがえる。

こうした史料の断片は、登米が単なる農村ではなく、江戸の食を支える「米の交差点」であったことを物語っている。米とともに文化も流れ、川とともに町が育った

芭蕉翁一宿之跡碑から北上川を望む

登米に文化が上った1つの例として、松尾芭蕉が挙げられるかもしれない。登米町の北上川沿いに「芭蕉翁一宿之跡碑」が残されている。これは、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の途中、登米に宿を取ったことを記念した碑である。実際の旅程は、弟子・河合曾良が記した『曾良日記』に詳しく記されており、登米の地名も「戸今」として登場する。

曾良は元禄2年(1689年)6月11日(旧暦)に「石ノ巻ヲ立」と記し、飯野川、矢内津を経て「戸いま(登米)」に宿泊したと記している。宿の手配に苦労した様子も生々しく、「儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス」とある。つまり、宿を断られたため、検断(藩の役人)に頼んで宿を取ったという記録だ。翌12日には雨の中、登米を発ち、上沼新田町、安久津(現・松島町)を経て一ノ関へ向かっている。

芭蕉自身は『奥の細道』本文で登米を「心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る」と記している。ここで「心細き長沼」とは、現在の長沼(登米市迫町)周辺の広大な沼地を指しており、当時はまだ水田開拓の途上で、旅人にとっては不安を覚える風景だったのだろう。

芭蕉がこの地に宿を取った理由は、単なる通過点ではない。北上川の流れを間近に見ながら、長沼の広がりを感じる場所──それは、旅人としての感性だけでなく、地政学的な視点も含まれていた可能性がある。

参考

山梨県立大学「奥の細道見開き

所在地:〒987-0702 宮城県登米市登米町寺池三日町

松尾芭蕉の都市伝説と登米

芭蕉には「幕府の密偵だったのではないか」という都市伝説がある。これは、彼が旅の中で各地の軍事・物流拠点を訪れていることに由来する。例えば、石巻港は仙台藩の米輸送の要であり、松島の瑞巌寺は藩の軍事拠点、鳴子鬼首は軍馬育成の秘境とされていた。こうした重要地点を網羅するように旅を続けた芭蕉が、登米の北上川や長沼を見に来たことは、単なる偶然とは言い切れない。

北上川は、仙台藩の物流の大動脈であり、江戸への米輸送の主路でもあった。長沼は、江戸初期の大開拓によって沼地から水田へと変貌した象徴的な場所である。芭蕉がこの地に宿を取り、日記をつけ、川を眺めたことは、旅人としての感性と、時代の動きを見つめるまなざしが交差した瞬間だったのかもしれない。

碑の前に立ち、北上川の流れを眺めると、芭蕉が見たであろう風景が静かに立ち上がってくる。川は、旅人の足を止め、言葉を紡がせる力を持っている。登米の川辺には、米と文化を運んだ水脈の記憶が、今も静かに息づいている。

石越醸造「澤乃泉」を買う

登米市石越町にある石越醸造は、地元産の米と水を使った酒造りを続けている蔵元である。私は旅の締めくくりに、代表銘柄「澤乃井」を購入した。名前の由来を尋ねると、「澤」は水の豊かな土地、「泉」は清らかな湧水を意味し、登米の自然と米文化を象徴する言葉だという。

澤乃井は、登米産の米を使い、北上川水系の伏流水で仕込まれている。口に含むと、米の甘みと水の柔らかさが調和し、土地の記憶が広がるような味わいだった。酒は、米文化の延長線上にあるものであり、登米の風土がそのまま瓶に詰められているようだった。

石越醸造の酒造りは、地域の農家との連携によって支えられており、登米の米が酒となって再び町の暮らしに還ってくる。

所在地:〒989-4701 宮城県登米市石越町北郷中澤108−1

電話番号:0228342005


まとめ

登米市を歩いて感じたのは、米という作物が単なる食料ではなく、土地の記憶そのものであるということだった。仙北平野に広がる水田は、かつて沼地だった場所を江戸時代初期に仙台藩が開拓し、迫川や北上川の氾濫を治め、肥沃な大地へと変えた成果である。その米は、川を下り、石巻港を経て江戸へと運ばれ、「登米が江戸の米を支えていた」とまで言われるほどの存在感を持っていた。

北上川は、物資だけでなく文化も運んだ水路だった。芭蕉がこの地に宿を取り、川を眺め、日記を残したことは、旅人としての感性だけでなく、時代の動きを見つめるまなざしの表れでもある。曾良日記に記された登米の記録は、江戸時代の交通と宿泊のリアルを伝え、芭蕉の句は長沼の風景に心細さを重ねた旅情を映している。

そして今、登米の米は酒となり、石越醸造「澤乃井」のように土地の味を語る存在となっている。米、水、人、そして川──それらが織りなす文化の水脈は、静かに、しかし力強く登米の風景に流れている。私はこの町の空気を吸い込みながら、過去と現在が交差する瞬間に立ち会ったような気がした。登米は、米とともに文化を育ててきた町である。

\ 最新情報をチェック /

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です