【宮城県涌谷町】難読地名「箟岳」の読み方・由来語源をたどる旅in無夷山箟峯寺・おくのほそ道 展望台

地名に惹かれて、箟の字の奥を辿る旅へ

地名は、土地の記憶を編み込んだ器だ。私は地域文化を記録する仕事をしている。各地の地名の由来や伝承、神社の祭神、産業の背景を掘り下げ、現地の空気を感じながら文章にする──それが私の旅のかたちだ。

今回訪れたのは、宮城県遠田郡涌谷町の中央部に位置する「箟岳(ののだけ)」という地名。標高236メートルの箟岳山を中心に広がるこの地は、かつて箟岳村として独立し、現在は涌谷町の一部となっている。地名の表記は「箟岳」あるいは「篦岳」とも書かれ、読み方も「ののだけ」「ののだけやま」と揺れがある。私はこの珍しい地名に惹かれ、その語源と背景を探る旅に出た。

箟岳山は仙北平野に突き出すようにそびえ、北東側は急峻、南西側はなだらかな山容を持つ。頂上からは登米方面、金華山、牡鹿半島まで望むことができる。山頂には箟峯寺(箟岳観音)があり、奥州三十三観音の第九番札所として信仰を集めてきた。私はその山道を登りながら、地名が語る風景と祈りの記憶に静かに触れた。

無夷山 箟峯寺 箟峯観音

所在地:〒987-0285 宮城県遠田郡涌谷町箟岳神楽岡1

電話番号:0229452251

箟岳の読み方

箟岳は「ののだけ」と読む。

箟岳の語源由来──坂上田村麻呂の矢竹・征夷

「箟岳(ののだけ)」という地名の語源には、坂上田村麻呂にまつわる伝承が残されている。延暦20年(801年)、田村麻呂が奥州征討に勝利した際、平和を祈念して矢竹を逆さに立てたところ、その竹に枝葉が生えたという。これを「箟(の)」と呼び、弓矢を造る竹の意味を込めて「箟岳」と名付けたとされる。

この「箟」は「篦(の)」とも書き、細く削った竹を意味する古語で、矢竹や筆の軸にも用いられる。地名に「岳」が加わることで、「矢竹の山」「祈りの峯」としての意味が立ち上がる。箟岳という地名は、戦と祈り、自然と信仰が交差する言葉の器なのだ。

さらに、箟岳山の山号は「無夷山(むいざん)」──「夷(えみし)が無くなった山」とも呼ばれ、田村麻呂による蝦夷征伐の象徴とされる。箟峯寺の正式名称も「無夷山箟峯寺」とされ、地名・寺名・山号が一体となって「征伐と鎮護」の記憶を語っている。

地名は、単なる地形の記録ではなく、歴史と祈りの言葉でもある。箟岳──その名には、矢竹と征夷、そして平和への祈りが静かに息づいている。

参考

涌谷町「涌谷町/わが町涌谷の歴史~その4武士の活躍と信仰の世界」「箟峯寺観音堂と白山堂

宮城県「箟岳山県自然環境保全地域 - 宮城県公式ウェブサイト

坂上田村麻呂の「矢」伝承の比較──箟岳と他地域の記憶

この「矢」にまつわる祈念と伝承は、田村麻呂に関連する他地域にも見られる。

大嶽丸の首(宮城県鬼首

鈴鹿山で討たれた大嶽丸の首が飛び、宮城県鳴子温泉の「鬼首(おにこうべ)」に落ちたという伝承がある。ここでも田村麻呂の放った矢が、地名の由来と結びついている。鬼首は「鬼の首が落ちた場所」とされ、征夷の記憶が地名に刻まれている。

【宮城県大崎市】難読地名「鬼首」の読み方・由来語源をたどる旅in鬼首伝説・鳴子温泉

宮城県大崎市鳴子温泉郷の奥に位置する鬼首(おにこうべ)は、坂上田村麻呂の蝦夷征討伝承やアイヌ語由来説が重なる地名。地獄谷や間欠泉など火山地形が広がり、畏れと祈…

船引鎮守大鏑矢神社(福島県田村市)

福島県田村市には、田村麻呂を祀る田村堂があり、矢を放って鬼を退けたという伝承が残る。堂の周辺には「矢ノ根」「矢吹」など、矢に由来する地名も点在しており、田村麻呂の矢が地域の記憶として定着している。

所在地: 〒963-4317 福島県田村市船引町東部台6丁目1

電話番号: 0247-82-0817

なぜ坂上田村麻呂は美里町涌谷の箟岳にいたのか

坂上田村麻呂が箟岳に足跡を残した理由は、単なる征夷の通過点ではなかったのではないか──そう思わせる地形と資源の背景が、この地にはある。箟岳は仙北平野に突き出す丘陵地であり、周辺には砂金が産出する地質帯が広がっている。事実、天平21年(749年)、陸奥国から献上された黄金900両は、奈良の大仏の鍍金に使われたとされ、日本史上初の産金記録として『続日本紀』に記されている。その産出地が箟岳丘陵だった。

当時、日本では金は採れないという認識が一般的だった。そこに突如として現れた大量の砂金──これは国家的なインパクトを持つ発見であり、聖武天皇は元号を「天平」から「天平感宝」に改めるほどの吉兆と受け止めた。箟岳は、ただの山ではなく、国家の繁栄と仏法の加護を象徴する「黄金の山」だったのだ。

しかし、この地は蝦夷の支配圏にあった。砂金という国家的資源を確保するためには、軍事的な掌握が不可欠だった。坂上田村麻呂は、征夷大将軍として派遣され、蝦夷との境界に城柵を築きながら、資源地の支配権を確立する任務を担っていたと考えられる。箟岳山の山号「無夷山」は、「夷が無くなった山」という意味を持ち、まさに征伐と鎮護の象徴である。

つまり、田村麻呂が箟岳にいたのは、祈りのためだけではない。国家の黄金を確保するため、蝦夷との境界に立ち、軍事と信仰の両面からこの地を掌握しようとした──その痕跡が、地名と寺名に静かに刻まれている。

おくのほそ道 展望台から見た涌谷・豊里の田園地帯

私は箟岳山の「おくのほそ道 展望台」に立ち、迫川と北上川が合流する旧豊里町の田園地帯を眺めた。水田が幾何学的に広がり、稲穂が風に揺れていた。その風景は、まさに「鎮護国家」の思想が形になったようだった。仏教による祈りと稲作による生産──それらがこの地に根づいていることを、私は静かに実感した。

坂上田村麻呂をはじめとする大和朝廷は、征夷ののちに仏教寺院を建立し、稲作を広げることで支配を定着させていった。箟峯寺とその眼下に広がる田園風景は、その政策の象徴でもある。地名と風景が語るのは、戦の終わりと祈りの始まり──その転換点としての峯の記憶だ。

所在地:〒987-0285 宮城県遠田郡涌谷町箟岳神楽岡1

まとめ

箟岳という地名は、蝦夷征伐と鎮護国家の祈りが交差する、風土と歴史の器である。私は涌谷町の箟岳山を登り、展望台から田園地帯を眺めながら、その名に込められた意味を探った。

「箟」は矢竹、「岳」は峯、「無夷」は征伐の記憶──それらが重なることで、箟岳という地名は単なる呼称を超え、戦と祈り、自然と信仰の層を持つ言葉となる。地名は、風景と暮らし、祈りと伝承の記憶を編み込んだ器──箟岳という名が語る物語を、私は静かに辿った。

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