【みちのく蓮華文プレート】「幻の蓮華文瓦」を見に大崎市古川出土文化財管理センターへ

みちのく蓮華文プレートのプロジェクトを進める中で、どうしても確かめたいものがあった。 それは、大崎平野で発掘された蓮華文様の瓦の“本物”だ。文様の意味を語るには、まず自分の目で見て、触れられる距離で観察しなければならない。そう思い立ち、私は化女沼のほとりにある大崎市 古川出土文化財管理センターへ向かった。
館内に入ると、縄文時代から中世にかけての土器や石器、農具が時代順に整然と並び、まるで大崎という土地の時間の層をそのまま歩いているような感覚になる。展示は丁寧で、時代の変化が視覚的に理解できる。縄文の土器の曲線、弥生の稲作具、古代の鉄器──それぞれがこの土地に生きた人々の暮らしを静かに語っていた。
そして、今回の目的である蓮華文様の瓦が姿を現した。 ガラスケースの向こうに並ぶ瓦は、どれも重厚で、文様は驚くほど繊細だった。八葉素弁、四葉素弁、珠文縁、単弁、植物文……「蓮華文」とひとことで括れないほど多様で、幾何学的に増殖するような美しさがある。
瓦は1枚3〜4キロ。これだけの瓦が大崎の遺跡から大量に出土しているということは、この平野に巨大な建築群が存在したという証拠でもある。瓦の重みを想像すると、1300年前の大崎平野が、ただの地方ではなく、文化と権力が交差する重要な拠点だったことが実感として迫ってくる。
蓮華文様の瓦は、単なる建材ではない。 それは、この土地に流れ込んだ文化の波、そして人々の祈りの形を刻んだ“歴史の証人”だった。
大崎市 古川出土文化財管理センター
所在地:〒989-6236 宮城県大崎市古川川熊長者原11−100
電話番号:0229284550
参考
大崎市田尻観光協会「木戸瓦窯跡」
大崎市「大吉山瓦窯跡(古川地域)~新たに見つかった謎の瓦 - 大崎市」
渡辺信夫『図説宮城県の歴史』河出書房新社、1984年
目次
幻の「蓮華文瓦」の謎
大崎市で出土する蓮華文様の瓦には、ひとつ大きな特徴がある。 それは、多賀城創成期(8世紀前半)にしか作られていないということだ。 この事実は、展示室の説明パネルよりも、実物の瓦の存在感によって強く胸に迫ってきた。
蓮華文瓦が出土した窯跡は、大崎平野の山沿いに点在する4か所── 古川の大吉山瓦窯跡、田尻の木戸瓦窯跡、松山の下伊場野窯跡、色麻の日の出山瓦窯跡。 これらの窯で焼かれた瓦は、多賀城をはじめ、官衙、伏見廃寺などの付属寺院、城柵(新田柵や色麻柵など)へと運ばれた。
しかし、なぜ創成期にしか作られなかったのか。 その理由は、今も分かっていないという。
瓦の文様は驚くほど多様で、八葉素弁、四葉素弁、珠文縁、単弁、植物文、重弁蓮華文鬼板など、まるで文様の実験場のようだ。 これほど多彩な文様が短期間に集中して作られたということは、 創成期の多賀城において、蓮華文瓦が特別な意味を持っていた可能性が高い。

蓮華文は仏教の象徴であり、清浄の花。 多賀城は軍事拠点であると同時に、東北経営の中心として政治・宗教の要でもあった。 その象徴として蓮華文瓦が採用されたのだとすれば、 創成期の多賀城が“宗教的権威”を強く打ち出していたことになる。
また、瓦を焼く技術は大陸から渡ってきた。 特に朝鮮半島から瓦博士や職人が来日し、技術を伝えたとされる。 大崎平野は、日本で初めて金を発見した百済王敬福の舞台でもある。 大陸文化が流れ込み、技術者が集まり、政治的緊張が高まる中で、 蓮華文瓦は“時代の象徴”として生まれたのかもしれない。
創成期の短い期間にだけ咲いた蓮華文瓦。 その儚さこそが、1300年前の大崎平野の文化の濃密さを物語っている。

大崎市田尻と200人の軍人を率いた「丈部咩人」
蓮華文瓦の窯跡のひとつ木戸瓦窯跡がある旧田尻町。 この地名を聞くと、どうしても思い浮かぶ人物がいる。 丈部咩人(はせつかべのあざひと)──律令国家の官人であり、新田柵に勤務していたと伝わる軍人だ。木戸瓦窯遺跡から発掘された平瓦に「「郡仲村郷他邊里長 二百長丈ム呰人」と記載があり、一躍有名になった。
丈部とは、戸籍・税・労役を管理する役職だが、咩人はそれだけではない。 史料によれば彼は「二百長」、200人の軍人を率いた将校だった。 つまり、1300年前の大和朝廷はすでに、 組織化された軍隊を地方に配置できるほどの統治能力を持っていたということだ。
この事実は、東北の歴史を考える上で非常に重要だと思う。 なぜなら、当時の大崎平野は「陸奥国北辺」とされ、 中央から見れば“辺境”だったはずだからだ。 その地に、中央の制度が深く浸透していたということは、 大和朝廷が本気でこの土地を獲りに来ていたことを意味するのではないだろうか。
では、なぜ大崎平野だったのか。
大崎平野が大和朝廷の軍事拠点となった理由
理由はひとつ。 この地に蝦夷(えみし)がいたからだ。
蝦夷は一括りにされがちだが、実際には多民族であり、 集落ごとに文化も言語も異なっていたはずだ。 それぞれに国家としての誇りがあり、人間としての尊厳があった。 だからこそ、 大和朝廷に300年以上抵抗し続けた。激戦になったらしく、先述している大崎田尻の加護坊山には、国家安楽寺が建てられ、この戦で亡くなった双方の兵士たちを弔う寺院や僧房が多数あったことが分かっている。
多賀城創建(724年)から前九年・後三年の役(1051〜1087)までを考えると、 実に10世代以上にわたり戦いが続いたことになる。
戦略も組織もなければ、そんな長期の抵抗は不可能だ。 つまり蝦夷は、中央が描く“未開の民”ではなく、 高度な文明と社会構造を持つ誇り高い人々だったということではないか。
こうなると、田尻という地名も気になってくる。 「田の尻(先)」── 大和朝廷の象徴である稲作の北限が、かつて田尻だったのではないか。 大和朝廷は稲作と鉄器を基盤とする弥生文明の国家だ。 縄文から弥生への転換は、生活様式を根底から変えるほどのインパクトがあった。
田尻には縄文晩期の象徴である遮光器土偶が出土している。 センターにもレプリカが展示されていた。 鉄器はない。 つまりこの地は、縄文と弥生がぶつかり合う“境界”だった可能性が高い。
全国には田尻という地名が多い。 大阪にも、兵庫にも、九州にもある。 朝廷が支配圏を広げる際、人を移住させ、集落をつくり、拠点を築き、 そこから周辺へ支配を広げていったと考えると、 田尻という地名が“文明の北限”を示す痕跡である可能性も見えてくる。
蓮華文瓦を見ているだけで、ここまで妄想が広がる。 だが、妄想ではなく、歴史の断片が確かにこの土地に残っている。 自分の地元である宮城県のことを、私はまだほとんど知らない。 そう思わされた一日だった。
大崎平野と百済王敬福
蓮華文様の瓦を見つめていると、どうしても「この文様はいったいどこから来たのか」という問いが浮かんでくる。蓮華は仏教の象徴であり、仏教は大陸から伝わった。では瓦はどうか──これもまた、仏教とセットで海を渡ってきた技術だ。
瓦の技術は、中国・朝鮮半島を経て日本に伝わったとされる。特に朝鮮半島からは、瓦博士(かわらはかせ)と呼ばれる専門技術者が渡来し、寺院建築のために瓦を焼く技術を広めた。奈良の寺院群を支えたのも、こうした渡来系の職人たちだった。瓦は単なる建材ではなく、国家の威信を示す“文明の象徴”だったのだ。
そして大崎平野には、瓦博士たちの足跡と重なるように、もうひとり重要な人物がいる。百済王敬福(くだらのこにきし きょうふく)。 教科書にも登場する、日本で初めて金を発見した人物である。 その舞台が、まさにこの大崎平野だった。(涌谷町の箟岳丘陵沿いで発見された)
百済王敬福は、朝鮮半島・百済の王族の末裔であり、奈良時代に陸奥守としてこの地を治めた。彼が献上した金は、東大寺大仏の鍍金に使われたとされる。つまり、大崎平野の金は、奈良の大仏を輝かせた“国家的資源”だったのだ。
瓦博士たちが伝えた技術、百済王敬福がもたらした金、そして多賀城を中心とした政治・軍事の緊張──これらが重なり合うことで、大崎平野は1300年前に“文化の交差点”となった。 蓮華文様の瓦がこの地で焼かれたのは、偶然ではない。 大陸からの文化の波が押し寄せ、技術者が集まり、国家の威信がかかった建築が必要とされた。その結果として、蓮華文瓦という“時代の結晶”が生まれたのだ。
瓦を前にすると、1300年前の風景が静かに立ち上がる。 大陸から渡ってきた人々が窯を築き、土をこね、文様を刻み、炎で焼き上げた──その手の温度が、今も瓦の表面に残っているように思えた。
多賀城南門で見た“創成期の瓦”の姿
古川出土文化財管理センターで蓮華文瓦を見たあと、どうしても確かめたい場所があった。 多賀城南門である。 創成期の姿を再現した復元建築で、当時の瓦屋根がどのように葺かれていたのかを実際に見ることができる。
南門に近づくと、まず目に飛び込んでくるのは、堂々とした屋根のラインだ。 その軒先には、センターで見た蓮華文様の瓦と同じ文様が並んでいた。 重弁蓮華文。“仏教的な清浄さ”を感じさせる。 瓦は丸瓦と平瓦を組み合わせて葺かれており、1枚3〜4キロの重さがある。 これを大量に積み上げるには、太い柱と強固な建築技術が必要だ。
つまり、 蓮華文瓦が使われた建物は、それだけで重要な建物だった ということだ。
多賀城は、東北経営の中心として724年に築かれた。 軍事拠点であると同時に、政治・宗教の要でもあった。 その象徴として蓮華文瓦が採用されたのだとすれば、 創成期の多賀城は“宗教的権威”を強く打ち出していたことになる。
南門の瓦を見上げていると、古川で見た瓦の断片が、ここでひとつの物語としてつながった。 瓦は単なる遺物ではなく、多賀城という巨大な国家プロジェクトの一部だったのだ。
さらに興味深いのは、創成期以降も蓮華文ではないが瓦の生産が続いたことだ。 田尻の北長根窯跡、岩出山の合戦原窯跡── 窯の場所は移り変わりながらも、技術は大崎平野に残った。 瓦を焼く技術が大陸から伝わり、東北の地で独自の発展を遂げた証拠である。
南門の瓦は、1300年前の文化のうねりを今に伝える“生きた資料”だった。 瓦の文様を追っていくと、古代の政治、宗教、技術、そして人の移動までが見えてくる。 蓮華文瓦は、ただの装飾ではない。 それは、東北が確かに“古代国家の中心のひとつだった”ことを静かに語り続けている。
さいごに
蓮華文様の瓦をきっかけに、私はここまで想像を広げてしまった。瓦という小さな断片から、大崎平野に流れ込んだ大陸文化、蝦夷の抵抗、大和朝廷の政策、そして1300年の歴史のうねりまで見えてくる。その広がりに、自分でも驚いている。だが同時に、宮城県について「まったく知らなかったのだ」と気づかされる時間でもあった。
地元の歴史を知るというのは、不思議な感覚だ。 自分が立っている土地の下に、何層もの時間が折り重なっていることを知ると、胸の奥が静かに震える。 大崎平野には、蝦夷の足跡があり、大陸から渡ってきた人々の痕跡があり、朝廷の軍勢が本気で攻め込んだ記録がある。 そのすべての上に、今の私たちの暮らしがある。
誇り高い先祖がいたことが分かった。 先人たちが命がけで守った土地で、私は育ち、生かされている。 その事実を知るだけで、景色の見え方が変わる。
日本は万世一系の政権が続いたことで、文化や歴史の断絶が比較的少ない国だと言われる。 文字として残っていなくても、口伝や地名、地域文化、遺跡の形で、過去の記憶がかすかに残り続けている。 宮城の大崎平野にも、確かにその“連続性”が息づいていた。 蓮華文様の瓦は、その連続性を照らすひとつの灯火だった。
今回の訪問で、私は「地元のストーリーをもっと知りたい」と心から思った。 こんなにすごいものが地元にあるんだよ、と誰かに言いたくなる。 そう思えるようになったのは、この地域の文化が大切に守られ、連綿と受け継がれてきたからだ。
地域文化とは、単なる“昔のもの”ではない。 今の私たちの価値観や暮らしの根っこにあるものだ。 蓮華文様の瓦を通して、そのことを改めて深く感じた。 この気持ちを、みちのく蓮華文プレートを通して多くの人に共有したくなった。
投稿者プロ フィール

-
地域伝統文化ディレクター
宮城県出身。京都にて老舗和菓子屋に勤める傍ら、茶道・華道の家元や伝統工芸の職人に師事。
地域観光や伝統文化のPR業務に従事。

